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三
焚火は全て片付けられた。鬼は二列の円陣を組み、四方に鬼火を飛ばして灯りとする。
円の中に押し出されたは、血潮の如き紅に身体を染めた二本角の四ツ目。牙をぎらつかせ、徳利を一息で呷ると、中心までずんずん歩みを進めた。
手には錆び付いた大鉈。鬼が持つと短刀ほどの小ささになり、やや頼りない。剣山に小屋掛けした樵の忘れ物だろう。それを楊枝のように口に突っ込み、火花を散らせて研ぐ。
鬼火が青く爆ぜて、鬼どもが一斉に片膝を立てて、足を踏み鳴らす。研いだ大鉈を地面に突き刺す紅鬼の真向かいで立ち上がり、円の中にすっと入って来たは、木ノ葉天狗の白狼。流木造りの太刀を抜き、挑発するように出鱈目に空を切る。やる気満々といった風。
十分な間合いを取って睨みあった。鬼と天狗とでは、背丈に大人と子供ほどの差がある。自然と、白狼は下段から斬り上げる構えを取り、紅鬼の方は噯を漏らしながら、鉈を上段に構えた。かっと見開いた眼に互いの姿が映る。鬼の双眸は燃え上がる赤、白狼の眼は冷たい蒼。円を固める鬼どもは一言も発さず、酒を飲む手さえ止めて成行きを見守っていた。
一拳交える――獲物は互いに本物である。斬られれば腕も飛ぶし、定命ならば死にも至ろう。鬼や天狗、狐狸妖怪の類であれば、その憂いはない。腕足が飛ぼうが、それくらいでは死なないと、一応互いに確認し合った。
ならば存分に斬り合える。
睨み合いは、永遠に続くかと思われた。白狼の身体は石地蔵の如く微動だにせず、対する紅鬼が振り上げた大鉈の切っ先は、呼吸に合わせて揺れている。やや浅くて、早い。酒毒を勢いに変えて振り下ろしてくるか、或いは酒毒が仇となって間隙を作るか――時が経てば経つほど、相手にとっては有利か不利か――。相手の目をじっと見つめて、そこから出方を読もうとするも、四つの眼は全て微妙に異なる色を瞳に宿している。天狗の兵法に従って、待つより他なかった。幻術でも剣術でも、天狗兵法の必勝は待つことにある。相手の動きを引き出し、こちらの手管に誘う。
ふたりの狭間を、一陣の風が走り抜けた。徳利が割れて、土塊に還った音がした。西側に座を占める鬼の一人が、我知らず握り潰したようだ。音がしたのは白狼の背後であった。
これに乗じよう――。白狼は目を瞬かせ、頭を傾けて背後を意識する様子を見せた。
牙の生え並ぶ不格好な口が、三日月状にヒン曲がる――注視せずとも、気配で分かった。
風を感じた。頭上から迫りくる、鋼臭を帯びた熱い風。踏み込んだ一足と共に懸河の勢いで落ちかかる大鉈。狙い過たず、白狼の脳天から尻まで綺麗に断ち割って地面にぶちあたり、土埃を上げる。紅鬼は吠えた。手に走る痺れの中に、肉断つ愉悦を感じたらしい。
粉塵と共にどよめきが夜を騒がした。円陣を組む鬼どもが、一斉に声を上げたのである。称賛、野次、ごく僅かに白狼の身を案ずる声。紅鬼は土煙の中に立って、大鉈を肩に担ぎ、さも誇らしげに胸を張っている。
どれほど深く、地面を抉ったのだろう。虚空を漂う土煙は、中々晴れようとしない。業を煮やしたか、ひとりの鬼が立ちあがった。背丈はそれほどでもないのに、両掌だけが馬鹿に広い。鬼は土煙に向かって腰を深く落とすと、両手を大きく広げて、吽の一声で、凄まじい勢いで打ち鳴らす。闇を引き裂く旋風が生まれ、煙を吹き飛ばした。
途端に、アッと息を呑む声。大鉈を担ぐ紅鬼の顔から、得意の色が綺麗に掻き消える。
煙が晴れた後には抉れた地面の他、何もなかったのである。
円陣を組む鬼どもが、揃って黙り込んだ。紅鬼は大鉈を握り直して辺りを睥睨する。
音はない。気配もない。ただ木々の樹冠が、ざわざわと音を立てるだけ。と、真向かいの樹冠の狭間にきらりと光るものがあり、何かが空を切り裂きつつ飛んできた。手首を返し、大鉈で弾き落とす。地面に突き刺さったのを見ると、太い枝を削って鋭くしたものである。
ハッと息を呑んだ瞬間、四方八方の木々の狭間で、星月の如き蒼光が無数に瞬いた。
流星の如く降り注ぐ、鋭く尖った木の枝。さすがに全ては弾き返せない。紅鬼の股を腕を腹を先端が突く。が、鉄の如き鬼の肌を貫くほどの威力はないと見え、次々と地面に落ちた。紅鬼は痛くも痒くもなさそうに、やがては鉈で弾き返すことさえ止めて無数の飛槍をその身に受ける。その間も鬼の目は忙しなく動いて、樹冠の中を飛び回っているであろう白狼の尾を掴もうと懸命であった。もはやその瞳に、酔いの陰は欠片もない。
一際大きな礫が、紅鬼の目を狙ってきた。さすがに眼は肌ほどの固さではない。鬼はさも面倒臭そうに大鉈の腹でそれを弾こうとしたが、当たる寸前、礫の方からふわりと身を翻し、鬼の背後に回り込む。それ自身に意思があるかの如き、不思議な動き――。
それが意味するものに気付いた時には既に、紅鬼の屈強な肩の上に白狼が片膝を立てて乗り、太刀の切っ先を、喉元に当てていた。
騒々しかった宴席が一瞬で静まり返った。無音を掻き乱すのは、方々から聞こえる鬼どもの溜息だけ。目にも止まらぬ天狗の早業に、すっかり心奪われ、見入っているらしい。
唯一、闘志に燃える紅鬼。白狼が背後から突き付けた太刀をむんずと掴み、ぐいと手前に引っ張る。態勢を崩し、太刀と共に転がり落ちる白狼。その右腕を引っ掴んで、大きな口の中に放り込むと、ばっくり口を閉じてしまった。――が、すぐさま口を開いて、中のものを吐き出す。腕かと思ったのは、葉や蔦を寄せ集めた塵芥の塊。白狼自身は太刀を脇に構えて旋風を纏い、既に足は地を離れている。鉈を構える、その猶予さえ与えはしない。
地上に流星が走り、紅鬼がギャッと叫んでひっくり返った。その右腕は、肩のところからバッサリ斬り取られ、ドス黒い血がドクドクと、止め処もなく流れ出ているのであった。
紅鬼が苦痛に顔を歪めたのは一瞬であった。すぐさま、怒りを瞳に宿して牙を剥き、起き上がろうとした。が、その刹那の間隙があれば、白狼には十分だった。紅鬼の胸の上に乗り、牙を剥いた口の中に太刀の剣先を差し入れた。ほんの僅かでも前に動けば、研ぎ澄まされた切っ先が口の後ろを貫いて、外に出てくる――それくらいの深さに。
大地がひっくり返ったのでは――と思いかねないどよめきが、剣山を貫いて闇に響き渡った。円陣を組む鬼たちは誰も彼もが興奮の体で、足を踏み鳴らし、手を打ち鳴らし、声を限りに叫んだ。その中を、殆ど掻き消されそうになりながらも、「勝負あり」と必死に怒鳴っているのは、黒角であった。紅鬼の身体から降りた白狼に、真っ先に駆け寄って来た黒角だったが、彼の目も興奮に爛々と輝き、惜しみなき称賛の念を湛えているのであった。
黒角に背を押され、元の場に腰を落ち着ける白狼。すぐさま酒と、太った猪丸々一頭が、眼前に据え置かれた。白狼は一息で徳利を干すと、並び揃う鬼どもに莞爾と笑いかけた。
いやはや何たる凄腕じゃ――と、口々に誉めそやす鬼たち。元来が調子乗りではなくとも、ここまで大勢に、一斉に讃えられては口元も緩もうというものだ。白狼は一口で大猪の腹の柔肌を食い千切り、ごぶごぶと飲み込んでから言った。
「何とも詰まらぬものをお見せもうした。して――あの方は大丈夫ですか」
心配いらんよ、と答えたのは当の本人。宴席からやや離れたところで、軟膏のような粘り気のある汁を、別の鬼に塗ってもらっている。決闘の最中は常に殺気と剣気に漲っていたが、返答の声色は穏やかで、間延びしたものだった。随一の凶悪な面構えにも拘わらず、性格は、剣を持たねば穏やかな方らしい。
「鬼にとっちゃ、腕の二本や三本、屁でもない。ほれ、動かぬように押さえておれ。ナニ、この分じゃ、夜明けを待たずして元の通りにくっつくであろ」
紅鬼の傍に座り、軟膏を塗ってやっている鬼が鼻頭を掻きながら言った。小さく頼りない体躯だが、目に走る知恵の光は誰よりも鋭そうである。軟膏は二枚貝に収めてあるらしく、塗り終るとそれを髭の間に隠して、尻の土汚れを叩きながら立ち上がる。紅鬼は左手で右腕をしっかりと固定しつつ、おもむろに立ち上がって宴席に戻って来た。
大事ないか――と、猶も心配げに見守る白狼。紅鬼は煩わしそうにその視線を振り払い、
「翁が持っているのは、祖谷川に棲んどる河童どんに貰った軟膏でな。何でもくっつけることができる。心配することはない。あの爺、相当の手練れでの、腕や首をくっつけたり、切り離したりなんぞと言うことは朝飯前じゃ」
「そうじゃ、そう言えば以前、迷い込んで来た爺の瘤を取ったのも、爺じゃったの」
眉を顰める白狼。鬼は気付いた様子もなく、
「そうじゃったそうじゃった。いきなり現れたかと思ったら、見事な踊りで宴を湧かせた爺がおったな。だが翌日の踊りは下手糞でとても見ていられなんだ。質に取った瘤を返して追い出したが、ありゃあ、変な爺だったな」
そのことじゃがな――と誰かが膝を打つ。
「儂は思うんじゃが、一日目と二日目に来た爺。実は、違うかったんじゃないかの。あんなに急に踊りが下手になるわけはない。思い返せば、取ったはずの瘤が、二日目の爺の頬にはぶら下がっていた気もするしの」
「そうかいの。儂には分からん。人間の顔なぞ、全て同じに見える。――まあそれにしても、あの時の爺の興に勝るとも劣らぬものを見せてくれたものよな。天晴な剣技じゃ。こ奴は力鬼と言って、力自慢じゃ右に出る者はおらぬが、ぬしの方が何枚も上手のようだの」
「いや――それほどのものでは御座らぬ」
持ち上げられ過ぎて、流石に尻がむず痒い。白狼は曖昧に微笑み、続け様に徳利を干す。
「剛を以て貴しとなす鬼の兵法とは、また質が異なる類に御座ろう。天狗の兵法は、幻術に始まり幻術に終わるを真髄と為す。剛を柔ではなく誑かしによって制することこそが要――。我らが一刀一刀に込めるは、相手の目を惑わし、鼻を抓むあやかしの技。いつ何時でも身代わりを立て、相手の慢心と隙をついて反撃に転ず。これ我らが兵法の基本」
面白い――と膝を打つは、さっきの薬師鬼。軟膏に濡れた手を足元の葉で拭き拭き、
「本身を悟られぬことこそが肝心とな。だがあの木槍、あれは幻ではなかった。のう力鬼」
「左様さ。確かに俺の身体にぶつかって来た」
同意を求められた力鬼、まだ右腕を抑えたまま、足で器用に串焼きの鮎を放って喰い散らかしている。これには呆れた。鬼の世では、腕がなくなることなど日常茶飯事なのか。
「天狗礫と申す技。人間が身の程を忘れて我らが塒に入り込んで来た時に、追い返すための術の一つ。虚空より礫や木杭を投げつけるのですが、それを剣術として昇華させたは、我が師の相模坊。白峰では、来る戦に備えて、全ての天狗がこの技を習得しているのです」
「なに、戦だと――」
突然、夜闇が張り詰める――ということにはならなかった。誰かが素っ頓狂な声で言っただけだった。黒角が眉を顰めて、近々天狗は戦を起こすのか天狗殿――と問いかけた。
「相手は誰じゃ。天狗ほどの大妖怪が戦を起こすとなると、相手も出世法螺の器であろうの。まさかとは思うが――儂らではなかろうな。剣山を奪おうと、一族郎党率いて……」
なに儂らと一戦交える気か――と、片膝立てる鬼がいくらか。さっきの力鬼には及ばぬが、牙が特別鋭い輩である。腰に鉞や大鉈を帯びる彼ら――鬼の世で武力を一任されているのは、彼らのようだ。
「だとすればこの天狗殿、我らの手の内を探りに来た回し者かも知れん。こりゃ厄介じゃ」
「天狗から戦を仕掛けてくるならば、儂らとて迎え撃つ所存よ。向こうが天狗兵法ならば、こちとら茨木童子直伝の、女に化けて橋の上でしくしく泣く戦法じゃ。これで返り討ちよ」
それは駄目じゃろ――と、方々から嘆息の声。さすがに白狼も噴き出した。
「いや――御心配には及びませぬ。我ら天狗の天敵は、今も昔も人間と決まっておる。実は近々、人世に大きな戦を巻き起こす謀りが天狗には御座って、やがて来る血祭のために各々、腕を磨いているので御座る」
そうして白狼は事の次第を余さず語った。白峰の新しい頭領――魔道に堕ちた帝のこと。崇徳院の暗躍により人世が騒めいていること。もはや戦は避けられず、この世が死に塗れること。そして数多の屍の中で、自らを含めた天狗どもが末法の謡に興ずる心算のこと……。
鬼どもは黙して何も語らず、酒にすら口を突けずに白狼の話を聴いている。笑いもせず、横槍も入れず、真っ直ぐな眼差しを、ただただ白狼の顔に向けている――。数百もの視線を一身に受けるのはこれで二度目だが、さっきのような気まずさは感じなかった。己の声が、言葉が、このむくつけき鬼ども全てを聴き入らせている。足の裏に心地よいむず痒さを覚え、腹の底から、酒の酔いとはまた違った不思議な感覚が染みだしてくるのを感じる。
白狼は、鼻の孔を膨らませ、声を更に朗々と響かせた。
これまでにない矜持。誰かの上に立つというのがこんな気分ならば、悪くないものだ。
いつまでも人世の頂に固執する崇徳院の気持ち――この時ばかりは、理解できないでもなかった。奴の眷属であることで、今こうして鬼どもを心服させる話ができるのだ。初めて、その冥利を得たような気がした。
滔々と語り終えると、酒を呷って噯を漏らした。鬼どもは、それでも何も言わなかった。視線は白狼から逸れて、一様に、酒座の真ん中で爆ぜ続ける陽火の輝きに向けられていた。金色眼に炎の朱が混じって赤銅色に染まる。だがその瞳に、感情のうねりは見られない。
静かだった。その静かさの意味を、白狼は測りかねた。
夜闇はいよいよ深く、時の経を伝えてはくれぬ。永久とも一瞬とも分からぬ沈黙の後に、ふうと息を吐いて牙だらけの口を開いたのは、狼と獅子の中間のような顔をしたひとりの鬼であった。熊手を地面に突き刺し、それに身を預けているので、全体がかなり傾いでいる。
「なるほど――。そういうことだったのか。そのための天狗兵法というわけだ」
ひとりが口火を切ると便乗するのが、鬼どもの癖らしい。この熊手鬼の呟きにより、沈黙の堰が切られた。方々から嘆息が聞こえて、冷たくなった酒を一息に呷る気配が続く。白狼もホッと一息吐いて、驚かれましたか――と問う。それに答えたのは黒角だった。
「驚く――まあ、驚きはしたな。まさか天狗殿らが、そこまでとは思わなんだ」
「儂もじゃ。まさか隣近所の白峰が、そういうことになっておろうとは。灯台下暗しとは、人も上手く言ったものよな。儂ら深山に長く籠る余り、世の流れに疎くなり過ぎたかの」
自分たちの知らぬ間に、隣山の天狗が大規模な戦いを引き起こそうと暗躍している――その素直な驚きに、声も出なかった、ということだろうか。何にしても、誇っても良い話のようではある。胸を撫で下ろしつつ、夜気の沁みた玉露を啜る。心地良さに背の両翼が、我知らずふわりと一度、虚空を叩いた。
「――して、その戦はいつ頃から始まるのか」
「確かなことは……しかし、十年もすれば国が引っ繰り返るほどの大乱になるであろうと、そう崇徳院は読んでおられます。その時こそ、皇を取って民と為し、民を皇と為して、我が傀儡を政の深奥に据えよう―と。この剣山の頂からも、炎に咽ぶ人世の様が見られるはず」
左様か――と、問うた鬼は返した切り引っ込んだ。鬼どもの様子を見て、白狼はもしや……と唇をヒン曲げる。もしや鬼どもはただ感心しているばかりでなく、天狗のことを羨み、あるいは悔しがっているのではないか。
世を覆さんとした大鬼賊の話――先に出てきた大多鬼丸のみならず、悪路王、魏石鬼八面大王と紅葉鬼神、温羅等々、枚挙に暇なく、それこそ近頃、大江山に巣食う鬼が源頼光とやらに首討たれたばかりである。人を憎み、世を乱す意思――その根の部分を、鬼と天狗とは同じくしているのかも知れなかった。
ならば――と、白狼は嘴の端を歪める。この鬼どもに加勢してもらうのも一興というもの。戦の駒として申し分なき技量揃い。これらを手管にできれば……。
コホン、と小さく咳払いする白狼。さてどう切り出したものかと暫しの思案。その末に、結局あからさまに誘うが上策と考えた。
「しかし――火蓋切られる折には是非、山鬼の方々にも天狗方に組していただきたき所存。人間相手に共に牙を剥き、憎き奴らの五体を引き裂くのも愉しき宴に御座いましょう。もしお望みならば――やつがれの方から、崇徳院や相模坊に口利きしても構いませぬが」
「要らんな」
ばっさり切り捨てたは、ちょうど向かいに座る鬼だった。丸太のような巨大な腕に比して矮小な足、身体中に、深奥から肉皮を破って突き出る棘を持ち、目は七つも八つもあり口の中に立ち並ぶ牙は、一本一本が刀身の如く長く鋭い。この場に並ぶ鬼の中でも、取り分け好戦的そうな風貌をしている鬼からの即返答――しかも答えは否。白狼の顔から酔いの心地良さと得意の色が煙の如く消え去った。聞き違いか――と思う間もなく、続けて鬼の口から紡がれる返答。
「聞こえなんだか。儂らは、そんな愚なものに巻き込まれるのは御免だと言ったのだ」
――愚……とな……。そう言い返すだけでも、口が緩慢で随分な労苦だった。言った鬼の顔を、まじまじと見つめる。相手も白狼を見返すが、真珠のような眼の輝きに嘘はない。
寸時の沈黙。ごくりと生唾を飲み込む白狼。震える右手が佩いた太刀の柄を撫でる。宴の軟凪いだ、愉しいひと時も忘却の彼方である。
それにしても――と、ごりごり頭の後ろを掻きながら、ぼやく鬼がひとり。口から鬼火を吐き出して、さも苦々し気である。
「天狗って奴は、相も変わらず馬鹿なことに現を抜かしておる。まったく餓鬼のようじゃ」
「まあ、そこな天狗殿を責めるのは酷というものかも知れんぞ。まだ百年程度じゃ、意見も言い難かろ。愚の骨頂は、その崇徳院とやら。その崇徳院に付き従っておる相模坊とやらも、同じかそれ以上の馬鹿ものだろうて」
「ぬしら、それは、本心から言うておるのか」
かちかちりと、濡れた嘴を鳴らして一言ずつ絞り出した。冷静を装った心算でも、言葉を重ねていくに連れ、腹の奥底から不穏な気配が立ち昇って、かっと熱くなるのを感じる。
「やつがれを――愚弄しておられるのか」
「愚弄――か」
夜を睨みながら、どこかの鬼が呟いた。氷柱の如く細く鋭く伸びた爪で右頬を掻き掻き、
「そのような心算は毛頭ない――と言っても嘘になるかの。別に天狗殿を嗤う気は毛頭ない。――が、天狗を愚と言うことは、ぬしを愚と呼ばうも同然じゃろうからの。だが、奇異なものじゃ。鬼にしろ天狗にしろ、世の理から脱したこの上なく尊きモノであるはずが、その真意を語るためには、人間ごときとの縁を抜きにしては語り得ぬ。その縁が、どう絡むか――それこそが天狗殿、我らと主を隔てる最大の差異じゃ」
崇徳院が退屈凌ぎに戯れる禅問答にも似て、とんと要領を得ない言葉。白狼は苛々と首を振り、黒角に向き直った。その眼差しを受けて黒角は――やれやれと言った風に苦笑する。
「すまんな天狗殿――。面食らったろう。鬼という輩は昔から歯に衣着せることを知らん。思い付いたまま感じ取ったまま、そのまま即座に言葉にしやる。鬼神に横道なきもの。鬼は己を誤魔化すことを嫌うのだ。一度思ったことは、それを受けて相手がどう思うかなぞ考えもせずに吐き出してしまう。面倒なことにもなるし、損をすることもあるが――こればかりは未来永劫曲がることのない性だろう」
白狼は目を怒らせ、鼻から熱い息を吹き出した。なるほど、鬼が容赦なく、思ったことをずけずけ言う悪癖があるのは分かった。が、そこを謝られても白狼の心は微塵も治まらない。どころか、逆に憤りが募ることに、黒角は気付かないのだろうか。
鬼は思ったことを、思ったままに口にする。と言うことは、天狗を愚かだという鬼たちの言葉は、本当にそのまま、彼らの心からの吐露だということになる。
「鬼の言葉に嘘はない――ならば貴公らは本気で我らの面目を潰す心算ということですな」
いや、勘違いするな――とひらひら手を振るのは力鬼。その赤ら顔では酔っているのかどうか、まったく分からない。が、少なくとも、その逞しい声に酒毒の気配はなかった。
「別に、天狗の顔を潰す気もなければ喧嘩を吹っ掛ける気もない。そんなことをしたところで、儂らの全滅は火を見るよりも明らかだ。何せ、この俺がぬしに手も足も及ばなんだのだからな。白峰に集う天狗らが大挙して押し寄せて着たら、儂らなぞ一日と保つまい」
「だが――それでも天狗のことは愚と申されるのであろう」
無論だ――と横から誰かの声。白狼がきっと振り向くと、力鬼はそれを宥めて、
「天狗のこと全てに対して、愚だと言っているわけではない。天狗殿の卓越した武芸には、心からのあっぱれを叫んで止まぬ。だが――それとこれとは話が別だ」
「ならば――ならば、天狗の何を愚と申されるのか。剣山に引っ込んだ貴公らには、もはや縁遠い話かもしれぬが、天狗には大義がある。やつがれにとって、崇徳院は今の主。そして、白峰山相模坊は、天狗道の全てを教えてくれた恩師に他ならぬ。やつがれの前で、二人を愚弄するならば、やつがれは全霊を以て、その口を封じなければならぬ」
思わず立ち上がり、腰の太刀に手をかけて、一息の間も待たず抜き放つ白狼。流木造りの白刃が、焚火の赤に濡れて、血に飢えているようにてらてら光る。しかし鬼たちはまるで石地蔵の如く微動だにせず、ただただ静かな目で白狼の上気した顔を見やるばかりである。
太刀を抜いたは良いものの、誰に剣先を向けて良いか分からず、白狼の背中を冷たい汗が流れた。鼻から熱い息を吹き出し、小刻みに眼前の闇を掻き毟るだけの太刀。
さすがに鬼たちの方にも動きがあった。白狼の真向かいに坐している鬼のひとりが、やれやれと溜息を吐き、まあ座れ――と右手を広げたのである。
「天狗殿の怒りも分からんことはないがな――ここは鬼の宴。天狗には天狗の、鬼には鬼の理がある。縁がほつれれば双方坐して酒を酌み交わし、互いに胸襟を開く。――それこそが鬼のやり方だ。それでもほつれたままなら……今度は天狗のやり方でやれば良かろう」
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