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四
白狼は胡坐を掻いた。即座に両翼を広げて、誰も傍に寄らせぬよう牽制をかける。鬼たちは物言わず、白狼からやや間を取るように、尻躄った。白狼は太刀を地面に突き立て、
「それで――貴公らの本懐とやらを聞かせてもらおう。何ゆえに、天狗を愚と申す」
容易いことじゃ――と肩を竦める鬼たち。古老鬼が代表を担って、蟀谷を掻きながら、
「いつまでも、人間ごときに係り合っておる――それを愚かだと言ったのじゃ」
「な――にを」
分からんか、と今度は嘆息。古老鬼の話を継いで話すのは、讃岐の手洗い鬼とやら。この鬼が喋る時だけは、頭上からわんわんと声が響くので、一度胸が激しく揺らぐ。どうもこの感覚は好きになれず、白狼は顔を顰めた。
「白峰の天狗が此度の戦に加わるのは全て、その崇徳院とやらの命なのであろう。崇徳院は天狗に成り立て、心はまだ人のそれじゃ。人世に戦を起こす理由とて、己が遺恨を晴らすためだけでしかない。そんな下らないもののために、白峰に集う天狗らが、駄駒の如く下働いておるのだろ。ぬしとて、それを忌々しく思わなかったはずはなかろうが」
白狼は言葉に詰まった。崇徳院の魂胆は人のそれを脱せず、故に愚である――そのことについては、白狼自身も前々から苦々しさを噛み覚えていたのだ。同時に、崇徳院に諂う相模坊に対しても不審不満を隠せないでいる、
それもまた真実であった。
白狼は無理に瞳を怒らし、鼻から燐火を噴き上げる。たとえそうであったとしても、この場で是を示すわけにはいかない。こんな酔いどれに、あれこれ言われる筋合いはない。
「人間なんぞと関わると、ロクなことにならん。儂らはともに、物の怪――定命の理を脱し、万物本来の持ち得る以上の力を得た、素晴らしきモノたちのはずじゃ。新参のぬしでさえ、百年という月日を経て、様々に智を蓄えた末の木ノ葉天狗という今なのじゃろう。そうまでして得た新しい生を、何ゆえ、人間ごときとの詰まらぬ小競り合いに費やしてしまうのか……傍目には、それが勿体なくてならぬ。故に、儂らはぬしらを心底、愚と思う」
「し、しかし、ぬしらの言う人間との愚な係り合いは、何も天狗に限ったことではないはず。鬼――そう、ぬしらとて時に我ら天狗以上に、人間どもに喧嘩を吹っ掛けていたではないか。大多鬼丸に、大江山の酒呑童子、悪路王、御嶽丸……人間どもに歯向かい、情けなくも討たれた鬼の話なら、やつがれとて耳にしている。それも愚かだと言われるのか」
脳漿を絞り出して、必死に吐き出した口撃。ところが、それに対する鬼の返答は、
「当然じゃ」
という至極あっさりしたもの。調子が狂いっ放しで、流石にどうして良いか分からない。
何を当たり前のことを言っておるのか――と、別の所から一つ目の馬頭鬼が口を挟んだ。
「儂らが大多鬼丸や酒呑童子のことを棚に上げ、人と係り合い続ける天狗を愚だと言っておるとでも思ったのか。儂らにしてみれば大多鬼丸も酒呑童子も知己――共に酒を酌み交わした忘れじの友。だからと言って、あ奴らの肩を持つ気なぞ毛頭ない。人間に要らぬ喧嘩を吹っ掛けおった。そんなことをしなければ、今だって五体満足に生きておったであろうに、今じゃ討たれ、首だけとなって埋められておる。その非は、他の誰でもない、そ奴ら自身にある。ぬしら天狗と同じか、或いはそれ以上の大馬鹿者じゃ」
「……」
口撃が無惨に散ったのを知り、白狼にできるのは黙して語らぬことだけであった。そんな彼を尻目に、鬼たちはてんで勝手に言葉を紡ぐ。その話し様がまた忌々しい。ひとりいきり立つ白狼に対し、それを宥めるような口調でもなければ、言い負かそうという闘志の見える口調でもない。周りに流されず、ただただ己の本懐をつらつらと述べ立ててゆく、そんな、淡々とした穏やかな、それでいて言葉自体は耳にぐさぐさ突き刺さる話しぶり――厄介だ。これではこちらの怒りも萎えようし、狂った調子が戻る兆しもない。何を言ったところで、向こうは穏やかにそれを受け止め、理解し、そして言い返してくるだろう。
「大体な、白狼。人間とやらが現れてからどのくらい時が経つのか知れんが、定命のものにしろ、儂らのような物の怪にしろ、関わりを持って良かった試しなど一度もない。儂らは、この剣山に棲んで数千年の時を――それこそ、人間なんてものが幅を利かせるようになる、ずっと前からこの地で過ごして来た。そして今、一つだけ確かなことがある。この世の中で、最もつまらんもの――それが人間だ。他の命は定命にしろ定命外れにしろ、それぞれ、それなりに弁えを知っておる。弁えずに、他の命を平気で喰らい尽くし、好き放題やるのは人間だけだ。そんな輩と関わって、何の得がある」
「左様、だからこそ――だからこそ、我ら天狗は人世を騒がせ、戦を起こして、奴らが早く朽ち滅ぶようにと暗躍しておるのです。鬼の方々は、それをも愚かだと申されるのか」
「貧乏籤を引かされて気の毒だとは思うが」
まったく望んでもいない同情である。居並ぶ鬼たちの頻りな頷きが癪に障り、白狼は嘴を噛みしめた。こいつら、みんなで一つの意思を共有してでもいるのだろうか。目の前の鬼に啖呵を切っても、違うところから返事が来る。件の同情を吐いたのは牛頭だが、その後を引き継いで今は横の馬頭が喋っている。
「人を滅ぼすことこそ大儀と思っておるのは、下々の天狗だけなのではないか。少なくとも、ぬしらの頭――崇徳院が、同じように人を滅ぼすことに心を砕いているとは思えん。国を覆すことと、人をこの世から失くすことは、必ずしも等しくはならんでの」
言葉もない。図星を突かれた形だった。剣山に迷い込むまでに散々愚痴っていたことと、何ら変わらない。それに対して反駁しようとしている今の自分こそが矛盾の塊――。
それにな――と、また別のところから口が挟まれる。今度は、黒い袴姿の青鬼で、面相は面長で、鬼と言うより龍に似ていた。今まで関わりを持たなかった、白狼にとっては新手の鬼だ。
そんな鬼が、あとどれくらいいることだろう――と考えるだけで気が滅入る。
「戦によって人が滅ぶのは――まあ、儂らにとっても良いことかも知れんがな。やり方が、荒っぽ過ぎるのも考え物じゃ。世に戦火を広め、害を被るのは人だけでない。奴らが暴力に頼ると、ロクなことにはならん。山がいくら焼けようが、野が朽ち果てようが、素知らぬ顔。幸にして人が滅んだとしても、焼け野原ばかりとなったら、それも悲しいことだぞ」
「しかし、それは我らが手を下さずとも同じこと。天狗の誘いなくとも、人は戦を起こし、山を焼き、野を焦がす。この剣山とて、いつ戦渦に呑み込まれるか分かったものではない。やつがれの古巣とて――」
そこまで食い下がって、白狼はぐっと嘴を噛んで言葉を殺した。言えば鬼どもが、どんな表情を見せるか、考えるまでもなかった。真っ平だ。こっちを餓鬼扱いするような輩の同情など、反吐が出るだけだ。軽く咳払いして声の調子を整え、白狼は続きを紡いだ。
「己が塒を追い出されるのを、指を咥えて見ている心算か。どうせ奴らは、戦をせねば埒が明かぬ。ならば――ならば便乗して、少しでも早く奴らを葬り去ることこそ……」
「そのために白狼――ぬしは、魔道に堕ちまでして得た命を捨てる心算か」
荒っぽい声。さっき刃を交えた力鬼である。堂々巡りの口戦に嫌気がさしたかと思いきや、その目は静かに蒼く、白狼の双眸をじっと見据えて離さない。思わず生唾を飲み込む白狼。
「鬼とて天狗とて不死ではないぞ。焼かれれば苦しいし、首を斬られれば死ぬ。人の戦に乗じて天狗らが雪崩れ込んだとして、ひとりの屍も出さずして人ばかりを滅ぼせると思うか。戦が激しくなればなるほど、天狗にも屍が出る。そして白狼――真っ先に死に目を見るのは、ぬしら木ノ葉天狗ではないのか。ぬしは、崇徳院ごときの先兵として死ぬ心算か」
「それは――」
「人を滅ぼすために、自らもまた破滅の道を歩むか。そうしたければ、それはぬしの勝手だ。だが儂らは、それを勿体なく思う。一度刃を交え、ぬしの技量を知っているからこそ猶更、儂はそう思うのだ」
「――だ、だが……」
まだ言うことがあるか、というように目を剥く鬼たち。劣勢は目に見えて明らか、だが、それでも白狼の眼には辛うじての勢いが残っていた。深々と息を吐いて、心を落ち着ける。
「ならば、鬼は――否、剣山に集う鬼は、どうされるのか。このまま、人間の横暴を黙って見続けるだけと言われるのですか」
「その通りじゃ。それ以外の考えはない」
「たとえそれによって、この山を追われることになったとしても――」
その時は彼岸に帰るさ――と、誰かが気楽に言った。
「物の怪でも魔縁でも、まあ何とでも呼べばよいが、定命の理から脱した我らにとっての、最大の賜りものこそこれだ。いかに人間がこの此岸で威張っていようと、こちらまで来ることは永劫叶わぬ。闇を掃うことはできても、闇の中には入ってゆけぬ。もし人間が、この山まで来ると言うならば、儂らはさっさと、闇の中に戻るまでだ。じっと待てば良い」
「待つ――何を待つのです」
「この世から勝手に、人がいなくなる時をだ」
当たり前ではないか、という顔で古老の鬼が言った。
「白狼とやら、その命は何のためにある。ぬしはこれから、千年も万年も生きるのじゃぞ」
「――」
「同じ長生きをするなら、目先に楽しみの一つもないと詰まらん。人の栄枯盛衰とやら――好きなだけ眺め愉しむが良い。それにも飽きれば彼岸に戻り、闇の中で微睡ながら、ずっと時を待つが良い。そして、この世から人が残らず姿を消して、我らにとって住み易い場所になった暁には、舞い戻って来るが良いのだ。それくらいの余裕がなくてどうする」
「人間は――滅びるのでしょうか。絶対に」
滅びるに決まっておる――と、やたら太鼓判を押すのは、横にいる一つ目の鬼。周りも、当たり前ではないか、という表情で揃えている。この表情が、憎らしくてならなかった。
自分の器を、嫌と言うほど思い知らされる。
「そんなこと、人間ごときですら知っておる。いつか、どこぞの禿法師が、おごれるものは久しからずと、変な節を付けて歌っておった。中々分かっておるではないかと感心したがな、歌っている奴が当の人間なのだから世話はない。さも世の理を分かった風でいてな、結局、だからと言って人間どもに、破滅の宿命を曲げる力などない。全ての命は一たび歩み出したら、後には戻れん。石ころでの喧嘩が、今や刀槍を使った殺し合いに変わり、後の世ではもっと物騒な血祭となろうよ。歯止めが効かないで行く所まで行けば、その先はない。我が身を滅ぼして終わりだ。そうなるまでには時間がかかるだろうし、その暁に残ったこの世も、今とは全く変わった風情をなしているかも知れん。だが、待っていれば、いつかはきっと、この世は彼岸の儂らの手に落ちる」
そうなれば楽しいぞ、と一つ目の鬼は笑った。鋸のような牙が並ぶ口を三日月状にヒン曲げた恐ろしい形相だが、慣れとは恐ろしいもので、もはや白狼には笑顔にしか見えない。
「ぬしが魔道に入ったことを悔やまず、天狗として己を誇るのであればな、崇徳院とやらのように人世に拘るのを、止めることだ。人を敵と見做すことを止めて、放っておくことだ。ぬしが人間をこの上なく憎んでいることは――その顔から察せられるがな、たとえそれが魔道に入った大元の目的であったとしても、木ノ葉天狗となった今、意趣返しの気持ちなど、すっかり捨て去るべきだ。天狗のなりそこないや、恩師が何と言おうともな」
そうじゃそうじゃ、と膝を打ち、にかっと白狼に牙を剥いて笑いかける馬頭鬼。
「放っておけ。相手取るには役不足じゃ。木ノ葉天狗となった今――否、今も昔も、ぬしの方が遥かに優れておる。詰まらぬ輩にかかずらって、ぬしの時と命を徒らに費やすのは誰がどう見ても宝の持ち腐れでしかない。ぬしには他に、もっとやるべきことがあろう」
「やるべきこと――やつがれのような木ノ葉天狗から戦を抜いて、何が残るというのです」
情けないことを言うなと、肩をどやされた。振り返ると、九足八面の鬼が立っている。
「定命の理を脱して、あらゆるしがらみから解き放たれた今のぬしが誇るものは剣だけか。狼であった頃にできなかったことは何だ。昔の生に拘り続ける以上、崇徳院と変わらぬぞ」
知れ――。九足八面の鬼は、そう言った。
「定命のものには、この世の果てや真理を見通すだけの時間などない。だが儂らには無限の時が与えられている。長い月日をかけて、儂らは知り得る。この世がいかなるものなのかを。この世の中で、己はいかにして生きるべきかを。今はその目に映らずとも、この世の対極を見据えた時になって初めて見えてくるものがある」
分かっているはずだぞ白狼――ひとりの鬼がそう言って、猪を丸呑みした。並み居る鬼の中でも、他の追随を許さぬ異形の体だった。薄汚れた布を頭から被って姿を見せないのである。その布に、ぽっかりと黒い穴が開いていて、そこから一頭、二頭と立て続けに猪を吸い込むのであった。穴の奥底から、骨を噛み砕く音。長い問答に焦れてきたか、妙に乱暴かつ豪快な音の鳴らし方であった。白狼は答えを返さず、唖然と眺めるばかりである。
「魔道に堕ちたばかりの雛鳥が、そう生き急ぐな。ぬしは既に本来の生を捨てて、まったく違うモノに変わったのだ。一切の縛に捕らわれず、思うがままに生きられる――だからこそ理を脱した者たちは尊いのだ。ぬしの生きる道を決めるのは、ぬし自身しかおらぬ」
だが――と異形の鬼から言葉を引き継いだのは、体中に目玉を持つ、これまた奇怪な鬼。
「己の道を決めるために、多くを知らねばならぬ。たっぷりと時間をかけてな。ぬしのその曇りなき瞳に、多くのことを刻み込むのだ。そうして智を培い、心を豊かに耕し、己の心を一つに決めれば良い。儂ら、剣山に集う鬼も、みな一度はそうやって世を旅した。この足で地を踏みしめ、森羅万象の囁きを肌に感じ、時代の移ろいを眺め続けた。そうやって、漸く分かったこともある。ここに集う一人一人が、世を眺めて学び得た過去を持つのだ」
「この世は面白いぞ。大したことないようで、意外と捨てたものでもない。見極めた心算でいても、その深奥は量り難い。摩訶不思議、変幻自在に見せる顔を変える。それがこの世だ。目に見えるものだけが全てではない。今あるものだけでは決められない。そういうところだ。世の一面だけを見て、分かった気でいるのは愚かだし、詰まらんことだ」
「――」
「急くことはないのだ。何も焦ることはないのだ。良くも悪くも、今のぬしにできることは限られておる。よく学び、よく知る――それで良いのだ。見方を変えれば何もかもが違って見える。この剣山の顔とて季ごとに違った顔を見せおる。白狼、次は桜の時期に来るが良い。酒の水面にふわりと浮かんだ桃華の花弁。あれに勝る美が、どこにあるというか」
うっとりと虚空を見つめる奇鬼。白狼はフッと一息吐いて、久しぶりに酒を啜った。
鬼どもも、これ以上言葉を重ねようとはしなかった。夜を漂う沈黙――決して、気まずいだんまりではない。それぞれが酒をちびちび啜り、虚空を眺めている。奇鬼の話に促され、各々の心中にある懐かしきこの世の景を、眼前の闇に映し出しているかのようだった。
長い長い、静寂だった。だがやがて、フッと笑って口火を切ったものがあった、白狼だ。
「一つ――お忘れではないか」
ん――と目を剥く鬼たち。
「人間と関わるだけ損、放っておけば良い――というのは、よく分かった。しかし、ぬしら、以前この宴席に人間の爺を招いたのではなかったか。それどころか……その場で躍らせて翌日の約束まで取り付けたと言っていたはずだが」
そうだったか、と目を丸くする鬼。まったく忘れていたのか、恍けているのか判じ難い。そいつは困ったな――と、白狼の傍で鬼がふたりくらい腕組みして、眉間に皺を寄せる。
「それは――そうだ、あれだな。あの爺、実は人間じゃなかったのかも知れんぞ。木魂とて、爺の姿で出ると言うではないか。案外、木魂の悪戯だったのかも知れんぞ」
それだ――と、真面目腐った相槌。四対の手を打ち鳴らすものだから、酷い音がした。
「考えてみれば、あんな爺が、躍りで儂らを感心させられるはずがない。あれは人に非ず、人の形をした何かじゃ。或いは――あの爺も百年を経て、魔道に入っていたのかも知れんぞ。だとしたら、儂らの仲間じゃ。鬼の宴に加わったとて、何の障りもなかろうて」
なんじゃそりゃ、と方々から上がる声。白狼も肩を竦めたが、それ以上は追及しなかった。目の前にある酒をぐいと干し、長々と息を吐いて、長々と横たわる星空に目を凝らす。
――敵わぬ。こ奴らには。
そっと心に呟く。結局、鬼たちを言い負かすことはできなかった。明らかなる完敗だ。
だが、この胸に去来する、不思議な感覚は何だろう。
魔道に堕ちる前、狼として生きていた時から勝負事には全力で挑み、とかく負けることを厭うた。どんなに些細な諍いであっても――さっきのような見世物としての決闘でさえも、白狼にとっては真剣勝負の場であり、何よりも勝つことに拘った。
それなのに今は悔しいどころか、夕凪の如く静かなのだ。これまで生きてきた数百年のうちでも、こんな気分になったことはなかった。憑物が落ちたような清々しささえ覚えた。
或いはこれが、思い知るという事なのかも知れぬ。そう白狼は思った。
端から敵うわけがなかったのだ。相手は馬鹿揃いに見えるが、千年も万年も齢を重ねて、この世をつぶさに眺めてきた鬼たちである。同じものが、今の己に見えているはずがない。
剣山の鬼たちが見据えるは、目先の損得ではなかった。大極である。気の遠くなるような時間をかけて錬成された知見である。彼らにしてみれば白狼の喰いつきなど、年端もいかぬ子が吹っ掛けてくる戯言ほどの意味もない。それでも彼らは、白狼の言うことに耳を傾けた。幼子の我儘を根気強く聞く母親のように。こっちの言い分を何もかも受け止めた上で、滾々と説き伏せる――相手の方が、遥かに大人だった。武力で優っているからと勘違いし、恥知らずな振る舞いをしていた身の程知らず――それを今更ながらに思い知った。
白狼は無言を守って、ただただ酒を啜った。鬼たちは白狼が次は何を言い出すだろうと、時折顔を覗き込んでくるが、白狼は虚空を眺めたまま、ちびちびと酒を飲むだけだった。
酒を干せば、周りの鬼が即座に杯を満たしてくれた。それにも軽く会釈するだけで、決して口を開こうとはしないのだった。白狼がそんなだから、鬼たちも変にしかつめらしい顔で、白狼から目線は外さず、飲んだり食ったりする音だけを響かせている。
困ったな――と、爪で頬の辺りを掻く白狼。何も言わないのではなく、何も言えなかった。己の小ささは思い知った。だがここまで喧嘩を吹っ掛けてきた手前、潔く負けを認めることにも抵抗がある。非礼を詫びれば鬼たちは笑って許してくれる。それは確かだし、そもそも、白狼がいかに声を荒げようと彼らにとっては多寡が児戯なのだから、許す許さないということにすらなっていないのかも知れない。それを思い知ることがまた、辛い話だ。
一瞬なのか、寸時なのか、永劫なのか――夜はまだまだ明けそうにない。気まずいだんまりではないはずだったのに、長く続くとさずがに居心地が悪い。いっそのこと一番鶏でも鳴いてくれんか。膠着がいつまでも続くくらいなら、夜明けと共に何もかも、綺麗さっぱり朝靄に流してしまった方が良いのだが。
星巡りを見れば時は知れる。白狼はフッと息を吐いて空を見上げた。その耳に車輪の軋む音。白狼はさっと振り返り、背後に滾々と渦巻く闇を見つめた。瞳から燃え立つ蒼い火。
「白狼、どうした」
鬼のひとりが声をかける。ややの間を置いて、白狼は向き直らず答えた。
「車輪の音が聞こえた。山の中では耳慣れぬ音。誰かがこんな夜更け、この山中を牛車で彷徨っているらしい。心当たりは――」
言葉の終わりを待たずして、鬼たちの殆どが勢いよく立ち上がり、来たか! と目を輝かせた。その輝きが夜闇の中でひときわ眩く華開いて、それまでの気まずさをあっさりと消し去ってしまう。白狼はひとり座ったままで、周りを見回し説明してくれる鬼を探した。
どんな時でも、頼りになるのは黒角だった。来客を出迎えようと鬼たちが立ち上がる中で、黒角だけは坐したまま、白狼をひとりにはしていなかった。そして問いかけるより先に、
「すまんの、白狼。彼奴らにとって最も大切な客が来たようでな」
「客――とは、やはり鬼神の類か」
「鈴鹿御前といってな」
酒を呷りながら応える黒角。腰は上げぬが、目は他の鬼と、同じ方を向いている。そうしている間にも、車の軋む音はますます大きく聞こえ出していた。そこに、土を爪で引っ掻き、抉るような音も混じる。まだ姿は見えぬが、牛車を牽いている何かは、相当の大きさらしい。
「あれほど皆が待ち構えるくらいだから、そうとう信望篤いのか、高位な方なのか――」
どちらでもない、と、黒角は苦笑いしながら手を振った。
「鬼の世界には上下も尊卑もない。鈴鹿であろうが酒呑童子であろうが地獄卒であろうが、鬼の中ならば対等じゃ。彼奴らがあんなに喜ぶのはな――単なる助平根性だ。鈴鹿は、今ではすっかり珍しくなった女鬼じゃからの」
困った奴らじゃと黒角が溜息を吐いているうちにも、車輪の唸りはさらに近付き、遂にはその姿を宴灯の下に現した。見上げるほどに巨大かつ豪華絢爛な唐車……だが屋形も棟も手形も簾も何もかも漆黒に濡れており、上を金焔の装飾が余すところなく彩っていた。
檳榔樹の葉で葺かれた唐破風の屋根の上には、一際激しくうねる劫火が装飾されている。宴の火を受けててらてらと、まるで命を持つように煌く金色の焔には、禽獣出身の物の怪の心にさえ、ゾッとするような美しさを感じさせ、目を引き付けて離さないのであった。
車を牽くのは車と同じくらい巨大な怪物であり、黒角によると、牛鬼と呼ばれる鬼らしい。その名の示す通り、鬼と牛とを足して割ったような姿で、これまでに着てきた鬼の中で唯一、四つ足の鬼であった。群がる鬼たちにより、牛鬼は車から放たれ、その目の前には酒と肴が運ばれる。白狼が驚いたのは、この牛鬼、家畜程度なのかと思いきや、目前に酒が置かれた途端、その面長の顔を綻ばせ、鋭牙の並んだ真っ赤な口を開いて礼を言ったことであった。つくづく、見た目は当てにならない。白狼は肩を竦めて、車の方に眼差しを向ける。
やいのやいのの歓迎の中、簾がするすると勝手に巻き上がる。前板に履物を置くところが、誰も動かない。牛車が僅かに揺れ、両の傍建に雪の如き真っ白な手がかかった。白狼は目を見開く。何度見返しても、何度目を擦っても、紛うことなき人間の手であった。
やがて姿を現す鈴鹿御前。緋の袴が目に眩い、髪を射干玉に濡らした若い人間の女……。
白狼は身じろぎもできず、鈴鹿御前の横顔を見つめていた。憎くて厭わしくてならない、この世で最も嫌悪しているはずの人間の顔――それが何故か、この鈴鹿の顔、これ一つだけには、どんな酒にも劣らぬ酔いを感じていた。背筋をゾッと凍りつかせる美しさである。
鈴鹿御前は白狼に気付いた様子もなく、見る者全てを虜にしかねない微笑みを湛え、至極ゆっくり歩みを進めて宴席に腰を下ろす。白狼とは、鬼九つ分くらい隔てがあった。そこで初めて鬼の宴に居座る天狗の存在に気付いたか、物珍し気な色が雪の白面に挿し入る。
白狼は目礼し、何か言わねばと口を開きかけた。が、言葉が出てこない。迷っている間にどこぞの鬼が先手立ち、漸く来たの――と酒焼けした声を響かせる。
「歓迎するぞ。しかし――相も変わらぬ、二目とは見られん不細工な面じゃの」
どっと上がる笑い声。黒角さえ笑っている。白狼は、いよいよわけが分からなくなった。
鈴鹿も笑った。澄んだ声だった。清流に浸した蓮に謡わせたら、こんな具合になろう。
「そちらこそ――あいかわらずひどい顔。千年も生きているのだから、もうすこしまともな顔になりそうなものを……。して、今宵はめずらしい方がいらっしゃるようですね」
ちらりと眼差しを白狼に向け、莞爾と笑みかける。説明がつかない悪寒に、びくりと体を震わせた。鈴鹿の真横に腰を落ち着けた鬼が、木ノ葉天狗の白狼じゃ――と改まった紹介をしてくれる。白狼はまだ何も言えず、馬鹿のように目礼を繰り返すしかできなかった。
天狗殿ですか――と、鈴鹿御前は少しばかり目を見張る。直視に絶えず、白狼は俯いた。
「西海からの帰り、わけあって剣山に来られてな。鬼の宴に行き遇ったのだ」
「それは御迷惑でしたろう。この鬼たちは礼儀を知らないし、口も悪いですから――御気分を害されたことでしょう」
慌てて首を横に振り、滅相もないと小声で応える白狼。鈴鹿は視線を逸らすことなく、
「して、お国はどちらで。あんまり遠いのであれば、長らくお引きとめいたすのも、悪かろうというもの」
心配ご無用さ、と胸を張るは力鬼。斬られた腕は、傷跡さえないほど綺麗に付いていた。
「そこな天狗殿は白峰の生まれじゃ。近かろ」
「白峰――うつくしい山です。遠い昔に白峰でみた雪紅葉の色は、忘れようにも忘れられるものではない。たしか、山のあるじは……」
相模坊に御座います、と白狼が答えると、鈴鹿は今一度、白狼に莞爾と微笑みかけた。
胸の高鳴りを抑えられない白狼。が、どこぞの鬼が小馬鹿にした様子で口を挟んでくる。
「今や、白峰の主は人に変わったらしいぞ」
「そんなものが、白峰にやってきたのですか」
僅かに眉を顰める鈴鹿御前。白狼は曖昧に、はあ……と答えて頭に手をやる。
「魔道に入り立ての青二才らしいが、今じゃあ白峰の頭の座に居座っとるらしい。相模坊も、そこな白狼も、今や崇徳院とやらの僕になり下がったとな。情けない話じゃろう」
「それは馬鹿ですね。白峰のあるじともあろう天狗が、なにを血迷ったのでしょうか」
穏やかな物腰と声で、ずけずけした応え。どうやら、歯に衣着せぬ鬼の性は、男鬼であろうと、鈴鹿御前であろうと変わらぬらしい。
鈴鹿に向き直って、馬鹿ですか――と訊いた。漸く出た声は掠れていた。鈴鹿は穏やかな表情を崩さず、馬鹿ですよ――と答える。
「人なんてそんなつまらないもの――かかわったって、仕方ないじゃありませんか」
鈴鹿は白狼から視線を逸らし、夜風に溶かすように誰聴かせるでもなく呟く。心なしか虚ろを感じさせる声であった。白狼がその意を探るよりも先に、またしてもどこぞの鬼が、
「坂上田村麻呂とかいう人間に惚れ、大嶽丸の首獲りを手伝った女鬼の言葉とは思えんな」
と冗談めかして言う。どっと上がる哄笑。鈴鹿御前は鼻を鳴らして周囲を睥睨すると、
「わたしのことは、どうでもいい。あれは、しつこい大嶽丸と縁切るために手を組んだだけのこと。人間に惚れたわけではありませぬ」
そうかい、そうかい――と手をひらひらする鬼たち。鈴鹿御前が宴に現れてから、えらく下世話な感じになったなと思いつつ、白狼は意を決し、そっぽを向く鈴鹿御前に問うた。
「ならば、やつがれは……如何様にすべきでしょうか。もし、貴姫がやつがれならば――」
「わたしが天狗なら、ですか。そうですね」
鈴鹿御前は暫時、瞳を虚空に泳がせ、やがてふっと愛らしく微笑んで言った。
「その翼で、この大空を、気ままに飛びおよぎたいものです。どこまでも飛んでいって――この世の果てを見定めたい。そこにはきっと、すばらしいものがあるでしょうから」
白狼は答えず、深々と息を吐いた。
――嗚呼。そうなのだ。
心の中で呟いて酒を呷る。口中に執拗く蟠っていた嫌な味も綺麗に洗い流され、次第に愉快が込み上げてきた。すとんと落ちる肩。首を横に振ると、嘴を鳴らし笑いを噛み殺す。
――そういうことだ。もう、そういうことで良いのだ。
噯を漏らして、夜空を仰いだ。月が美しい。天の頂に居座っている。
鬼の宴は酣が続き、夜明けは訪れぬ。なおも空を仰ぐ白狼は知らなんだがし離れたところで鈴鹿御前も、酒器を両掌で包んで同じ空を見ていた。その瞳に、宴の朱がかぎろう。
揺れ動く白狼の気持ちなどお構いなく、満天の星は表情を変えぬ。風が雲を蹴散らして、闇茂く射干玉に染まる夜で、星々はいよいよ強く眩く輝く。その只中を西方目掛けて流れる、一筋の冷たい蒼光があった。狼の瞳にも似たその星は、白狼が無言で眺める前で月を横切り、闇の果て――遥か遠い遠い彼方を目指して、奔り去ってゆくのであった。
(了)
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