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1.青空
「こんにちは―」
大きな声で挨拶をしながら薄汚れた扉を開ける。中から出てきたのは大人しそうな女性社員だった。名札には小村と書いてある。
「こんにちは……。会計士の方ですよね?」
名字どおり小さい声で話す人だ。
「はい! 多田と申します、本日はよろしくおねがいします!」
もう何年もこの仕事をしているけれど、未だに挨拶をする時は緊張する。きっと初めての仕事のときに第一印象が9割だと言われたからだろう。それからずっと、できるだけ明るい人として覚えてもらえるよう努めてきた。
「よろしくおねがいします……。どうぞ、こちらへ……」
小村さんは受付の横にある小さな部屋に案内してくれた。中は殺風景な白い壁に事務用のものだと分かる机、それにくるくる回るタイプの椅子。
「本日はご足労いただき……」
小村さんが定型文を言う前にさり気なく遮る。ここで気をつけないと悪い印象になってしまうので要注意だ。
「いやいや、そんな。大丈夫ですよ。では、お話に入らせていただきます」
できるだけスムーズに話題を進めていく。
「はい。今日はコンサルティングをしていただくんですが、こちらがその資料です」
手渡された資料に目を通す――ふりをする。1ページにかける時間は二十秒弱。上から下に瞼の動きを意識する。
「取り敢えず拝見いたしました。では、ちょっとお話させていただきます」
ここで軽く息を吸って、さり気なくドアの位置を確認する。鍵はしまっていない。頭の中に出入り口の位置を思い浮かべる。確認はこれで大丈夫だろう。こんな非力な女性なら大丈夫だけど、万が一ということもある。
「まずですね、三ページ目のこの項目です。ここの決まりはこちらの条文に反しています。このままだと地方自治体から注意喚起がなされますが――」
適当にでっち上げていく。そう、俺は公開認定会社計画士。自分以外の誰か――大抵は顧客――に自分の仕事ぶりを”公開”し、その相手の”会社”に会計士だと間違って”認定”されることで、大量の個人情報と機密情報を得て、それを元に他の仕事の”計画”を立てる”公認会計士”。馬鹿馬鹿しい名前だ。この仕事を始めた時はこんな仕事をしているやつが他にいるのかと思ったが、意外と、いる。俗に言うブラック企業だとあまり詳しくチェックをされないから騙される所も多い。この先そんな企業も少なくなっていくと思うけれど、今はまだ生活できるくらいの収入は入ってくる。
今日の企業もそういうブラックなところだ。目の前で話を聞く小村さんを見て可哀想に、と思う。いつから風呂に入っていないのか、髪は脂ぎって束になっている。シャツの襟も黄ばみ顔色は死人かと思うほど青白い。法に触れるという意味ではこの会社も俺の仕事も同じかもしれない。
「そうですか。ありがとうございます」
話し終わると、小村さんが小さく頭を下げてくる。改めてこの人は小さいと思う。こんなに小さくて大丈夫だろうか。そう思いながら言う。
「ではですね、これで今日の基本的なことは終わりなんですが、実はもっと効率良くできるんですよ。どうですか? 興味はございますか?」
見た目からして過重労働だろう。効率が良くなると分れば飛びついてくるはずだ。
「効率がよく……。それってどれくらいかかりますか?」
やはり、狙いどおりだ。笑いをこらえながら答える。
「こちらも商売なので、まあ3万からが普通です。ですが、貴社とは今回のお仕事が初めてですので、そうですねぇ、2万円にまけましょう」
ここで3分の2に減らす。ただ、これではあまり魅力を感じないだろう。
「2万円……。ちょっときついですね。1万円にしていただけないでしょうか」
そうだろう。そう出るよな。ここでもう少し頑張るか。
「さすがにそこまでは……。半分以下になってしまうと難しいですね。1万八千円ならお受けしましょう」
「1万七千円では無理でしょうか?」
「うーん。1万七千円を切るとちょっと……。1万七千五百円ではどうでしょうか」
そこで小村さんが頷く。交渉成立だ。可哀想ではあるが仕方ない。この会社は個人情報を流出させた上に20万円近く俺に取られることになるけれど、それはこの会社で今後こうならないよう体制を変えてもらうしかないだろう。もっともこのままブラック企業でいてもらったほうがいいけれど。
「では、それについて説明してもらってもいいですか?」
小村さんからの言葉に、口角を持ち上げて答える。
「はい!」
小村さんはかすかに微笑んで先を促すように頷いた。やはり元気がいい人は印象も良くなるものだ。
「では、ご説明させていただきます。実は先程の文章のここ、ここは一見制限をかけているように見えると思います。けれど見方を変えてください。――」
口から言葉がスラスラ出ていく。自分でもよくこんなにでまかせを言えるものだと思う。
「ご理解いただけたでしょうか」
最後に適当なまとめを付け足して、多田さんに問いかける。小村さんはよく分からなかったのだろう、曖昧な顔で首を傾げていたが目を見つめると微笑んで頷いた。
「では、先ほどお話した内容のここの箇所とここの箇所に同意していただけるのでしたら、こちらの契約書にサインをお願いします」
これで1万七千五百円がボーナスで入ってくることになる。これだけあれば念願の栗花落書店シリーズが買えるだろう。最近話題になっている小説で、立ち読みしたときに虜になった。その時は金がなくて買えなかったけれど、これで大人買いしてやる。
「これですね」
そう言うと小村さんは判子を取り出した。さあ、押せ! 早く、早く! さあ! さあ!
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