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「……押すわけ、ないですよね」
……は? 何いってんだ、この人。さっきまでうなずいて適当に相槌を打ってるだけだったじゃないか。なんで今になってそんな事を言いだしたんだ。
「普通に聞いていればおかしいってわかりますよ。そんなちんけな内容で騙そうとしていただなんて、一周回って笑えてきます」
そこで唐突に怒りが湧き上がってきた。理不尽だと思うが口から出ていく言葉は止められない。
「なんですか。あんた。笑えてくる? 馬鹿なこと言ってんじゃねえぞ! てめえが一年間で稼げる金よりもずっと多くこっちは貰ってんだ! 大学だってまさに最高峰だ! お前とは格がちげぇんだよ! さっさと判子押せや!」
言ってしまってから口を手で押さえる。まずいまずいまずい。やってしまった。こんな簡単な仕事で失敗するなんて。信頼がなくなる。情報をかってもらえなくなる。くそくそくそ! なんてざまだ!
「焦っていらっしゃるようですが、大丈夫ですか? まあこちらはボイスレコーダーであなたのわかりやすい説明もきちんと記録していますので、あなたにとっては大丈夫じゃないでしょうけれど」
ずっと見せていた微笑のまま、小村が言う。ここで警察に突き出されたら。もう終わりだ、何もかも。
「何なんだよ。どうして! あああああ!」
口から叫び声が漏れる。
「ふふ、大きな声を出すと五月蠅いですよ。……ねえ、取引をしませんか?」
思わず耳を疑った。ここでのことを秘密にしておいてくれるならこんなにありがたいことはない。
「どんな取引だ。どんな願いでも、というわけにはいかないができるだけその提案を受け入れる」
小村は嬉しそうな顔をする。
「まあ! それならきっと受けてもらえます。実は私ここの会社もうやめようと思ってて、新しい就職先を探していたんです。ハッキングや何やかやの技術はありますよ。私をあなたのもとで働かせてくれませんか?」
……は? 今日で二度目の「は?」だ。というかほんとに何いってんだこの人。自分を騙しに来た相手の下で働きたいのか……。しかも法に触れることもやるってのに。なんか裏がありそうだな。
「おい、それ騙しに来てねえか」
呆れながら問いかける。
「まあひどい。騙しに来たのはそちらでしょう」
まさにうふふ、と笑いながら言い返される。……俺も年貢の納め時かな。まさか自分がこんなことになるなんて。ため息を付いて立ち上がる。
「ハッキングってのは具体的にどんなのだ」
「え、やったあ! 雇ってくれるんですか? わーいわーい! 嬉しいです! これからよろしくおねがいしますね、多田さん!」
周りをぴょんぴょんと飛び跳ねている。最初は小さい声だと思ったけれど、猫をかぶっていたらしい。
「うるせえな。あと俺は多田じゃない。この仕事では伊塚だ。伊塚将大」
もう一度ため息を吐く。ああ全くなんて日だ。こんなことになるなんて。
「なんで笑ってるんですか?」
小村から聞かれて思わず頬に手を当てる。頬が熱くなっていた。
「笑ってねえ! まったくもう……」
見上げた空は、まるで俺をあざ笑うかのように、雲ひとつない青空だった。
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