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「伊塚さん、計算間違えてます」
昼ごはんを食べて少したった頃、小村に話しかけられた。計算ミスはよくある。エクセルに入力しているけれど何故か計算が合わないことがある。ぶっちゃけ電卓のほうが正確だ。
「エクセルの文句言わないでくださいよ。伊塚さんいっつも入力間違えてるくせに、エクセルのせいにしてますからね」
小村は心が読める能力者なのかもしれない。
「わーってるよ。どこが間違えてんだ?」
小村が身を乗り出し俺のパソコンを操作する。画面を覗き込むと、ゼロが一つ多いところがあった。
「ここか。よっ」
キーを操作して入力し直す。
「オッケーです」
小村が軽くうなずいているのを見て、俺はあの日を思い出した。
まだ暑さが残っている8年前の9月の中旬のこと。俺を助けてくれたあの人のこと。
「ありがとう」
小村がいきなり振り返る。どうした。
「ちょっ……。伊塚さん熱でもあるんですか?! そんな、人にお礼を言うことがあるなんて……。なんて成長したんでしょう……!」
声が漏れていたらしい。それにしても失礼な。そんなに驚かれるとは思っていなかった。
「謎の上から目線やめろ。あと、俺はお前に言ったんじゃない」
小村はそれを聞くと首を傾げた。そして数秒の後に手を震わせながら自分の口を押さえる。
「ま、まさか”見える人”ですか……。ああ、そういう……」
怖がっているわけではないらしい。やはりこいつは失礼なやつだ。言い方に悪意があるぞ。
「違う違う。ちょっと思い出しただけだ」
そう。思い出しただけ。あの日のこと。もう手に入らない大切な日のことを。
「何を思い出したんですか?」
小村が顔を覗きこんでくる。近い近い近い。小村は顔の中で目の比率が大きい。だから見つめられている、という感じがすごくする。
「俺に色々教えてくれた人のことだ」
小村が首を傾げる。
「それはどういう……」
まあ、これだけの情報量では何もわからないだろう。仕方ない、教えてやるか。
「俺が今やってる公認会計士、自分で考えたと思うか?」
「思いません。色々抜けてる伊塚さんにはまず無理です」
軽く睨む。……実際色々抜けていると自分でも思うけれど。
「だよなあ。教えてくれたのは俺の親代わりだった中石ってやつだ。俺は小さい頃親に捨てられた。だから親の顔を知らない」
両親について分かっているのは、どこかの嬢とその客だということだけだ。人づてになんとかそれだけを知ることができた。中石は児童養護施設に入っていた俺に親戚だと言い育ててくれた。
「中石は自分にもしものことがあった時、俺が生きていけるように、俺がまだ小さい頃から色々なことを教えてきた。だから無人島でも一週間くらいなら生きていける自信がある。公認会計士のことを教えてくれたのも中石だ。中石はもともと詐欺や掏摸で生計を立てていたんだ。その技術や情報を俺にも教え込んだ。お陰様で今ではこんなふうに食っていけるってわけさ。さっきありがとうって言ったのは、お前の後ろ姿と中石の後ろ姿が重なったからだ。思い返してみれば俺は結構生意気なガキだった。それなのに根気よく教えてくれて、ありがてえなあと思ってな」
そこで言葉を切る。中石は強面で、一見するとやくざのようだったが、その見た目に反して優しい性格だった。両親がいないことに”他とは違う”事を感じていた俺はその優しさに結構救われていたんだと今になって気がつく。
「そういうことだったんですか……。すみませんでした、調子に乗って失礼なことを聞きました。好奇心は猫を殺すと言いますもんね……」
小村は肩を小さくして俯いている。空気が俺の話で重くなってしまった。こういう雰囲気は好きじゃない。
「いいんだ。ま、これで謎は解けただろ。仕事に戻ろうか」
手を叩いて重い空気を払拭するように大声を出す。小村の顔にまた笑顔が戻ってきた。よかった。
「はい! 午後も頑張っていきましゅ!」
再び沈黙が訪れる。言ってはいけないことを言いたくなるのは人の性なのだろうか。恐る恐る口を開く。
「今、『ましょう』を『ましゅ』って言い間違えて……」
ばん!
後ろの扉がものすごい勢いで閉まった。
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