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3.忘れられない日
目の前を歩く高そうな靴。そこからは何の感情も伝わってこない。何を考えているのかわからないのは怖い。わからないことは怖い。分からなければ死んでしまうから。
「……よろしく」
ぼそりと呟くように声が聞こえた。大人なのにきちんと喋れないのか。それでも、これまででかい声で怒鳴りつけてきた奴らより100倍ましだ。
「よろしくお願いします」
声は小さく。なぜ小さくするのかはわからない。でも、そういうものだ。怖いこともそういうものだと受け入れてしまえばいい。なぜ怖いのかを考えてもわからないだけだ。わからないから余計に怖くなる。それなら何も考えずにただ要求されたようにしていればいい。
「……会話が苦手なんだよ、俺」
そんなの知ったこっちゃない。会話が苦手だと言われてどう返せばいいのか。とりあえず相槌。それから相手を持ち上げる。下手に同意すると逆ギレされるから。
「そうなんですか。でも、寡黙なのも男前ですよね」
これであっているだろうか。間違っていたら殴られるのかな。これ以上痣が増えたら髪で隠せなくなってしまう。
「男前では、ないよ。男前かどうかで言ったら、君のほうが男前だろう?」
男前……。この髪型が男前なのか? 痣を隠しているこの髪型が……。
「そんなこと。さっきだって、職員の人があなたをかっこいいと言っていましたよ」
かっこいいと言っていたのは本当だけど、少なくともあの顔では口だけだろう。かっこいいと言うにはあまりに威圧感が大きい。
「そんなお世辞はいいんだ。とにかく、俺はお前の遠い親戚だ。そもそもお前の存在自体知らなかったんだけどな」
遠い親戚なんて怪しさがとんでもない。でも、衣食住を保証してくれて保護者になってくれるというのだから大人しく従ったほうが得だろう。
「敬語なんて使わなくていいから。……色々、すまなかったな」
ああ、謝ってくれる人間もいたのか。しかもこの人は悪くないのに。俺を産んだくそばばあと、孕ませたくそやろうが悪いのに。
「謝ってもらわなくていいです。中石さんは悪くないですから」
いくら印象が良くなっても、流石に敬語はつけて話すけど。
「ほんとに敬語はいらないんだって。改めて、よろしく」
そこまで言うならつけなくてもいいか。顔を上げる。秋晴れの空はどこまでも青かった。そこにぽっかりと白い雲が浮かんでいる。中石を見る。やっぱり顔はやくざみたいだ。
「よろしく」
軽く微笑む。空気が軽い。こんなに気持ちいい日は久しぶりだ。ずっと雨が降っていたから。
中石は気恥ずかしそうに空を見上げていた。空を見上げたまま歩きだして、生えていた綺麗な紫の花を踏みそうになって、よけようとしてよろけた。
なんか、優しい人だな。
「中石さんっておっちょこちょいですか?」
気が緩んで思わず言ってはいけないことを言ってしまう。それなのに中石はもっと恥ずかしそうになる。
「そうかな」
怒らない。優しい人だ。
時々、『ああ、今日のことは一生忘れないんだろうな』と思う日がある。何故かそう思った日のことは忘れられなくなる。
今日は、きっと一生忘れられない日になる。
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