1.夕霧町の小夏太夫

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1.夕霧町の小夏太夫

 行燈の灯が揺れる。  肘掛にもたれながら、畳に敷かれた分厚い布団の模様をじっと見つめていた小夏は、部屋の明り障子が開くのに気付いて顔を上げた。 「──あら。こんばんわぁ、先生。どうぞ、お入りになって」  先生と呼ばれた壮年の男は、にやけた顔を隠しもせずに障子を閉め、小夏に近付いた。小夏はとん、と煙管を置くと、わざとらしいほどゆっくりと腕を伸ばし、男の首にしなだれかかる。 「寂しかったわぁ、ここ最近ちっとも来てくれないんだもの」 「悪い悪い。いやあ、最近は仕事が忙しくてね。でも、きみへの土産はちゃんと持ってきたよ」  男が自慢げに取り出したのは、見事な友禅染の袋帯だった。松に竹、独楽などさまざまな絵柄が施されたそれは、薄暗い部屋の中でもたしかに輝いている。しかし、小夏は内心落胆した。高価な帯なんかもらっても、それを着けるような機会は無いに等しい。  しかし、そんな素振りは一切見せずに、小夏は目を細めてことさら甘い声を出した。 「嬉しい、せんせぇ。こんな豪華なもの、もらってもいいの?」 「ああ、もちろん。加賀友禅だからね、少々値は張ったが小夏が喜んでくれるなら安いものさ」  得意気に語る男は、小夏の心のうちなど知る由もなく、その白い頬をそっと撫でた。 「夕霧町の小夏太夫と馴染みだと言うと、皆に羨ましがられてね。ここらじゃ、きみの名前を知らない男はいないよ」  そう機嫌良く話す男に、小夏は心底げんなりした。  面倒な要求をすることもなく、定期的に会いに来ては土産をくれるこの男は、小夏にとって有難い客の一人であった。しかし、この男も所詮小夏を話の種の一つとしか思っていないのだ。  店に来ることすらしないどこかの男の間で自分の話題が上がっている所を想像して、小夏は嘔吐きたくなるのを堪えた。 「……ふうん。そう」 「先の仕事相手も、ぜひ一度きみと会ってみたいと言っていたよ。おかげで話が弾んだ」 「そう。それは良かった」  小夏の素っ気ない態度になど気付きもせず、男は楽しそうにぺらぺらと喋るのを止めない。たいして面白くもないその話に相槌を打ちながら、このまま時間が過ぎてしまえばいいのに、と小夏はあくびを噛み殺しながら思った。 「おっと、ついお喋りに夢中になってしまった。すまない、退屈だったろう」 「いいえ。先生の話、いつ聞いても面白いわぁ」 「はは、そう言ってくれるのはきみくらいだよ」  女郎の甘言を真に受けて笑う男の、なんと滑稽なことか。いや、もしかしたら、甘言と知りながら気付かないふりをしているだけなのかもしれない。  いつの間にか衿元に這わされた男の手を受け入れながら、小夏はそっと窓の外に視線を移す。  夜の闇の中にぽつぽつと光る、女を売る店の灯り。小夏のいるこの緋波屋(ひなみや)も、その灯りの一つにしかすぎない。  この小さな灯りの中で生き、欲の吐け口として死んでいくであろう自分の方が、よほど滑稽だ。男の生温い吐息が肌にかかると同時に、小夏は自分の行く末を思って身震いした。 「ん? 震えているのか。大丈夫、乱暴になどしないよ」 「んん、あっ……先生、やさしくしてくれるの?」 「当たり前だろう。それにきみの体は、特別だしね」  男の手が、小夏の下肢へと伸びる。そして着物の裾を捲り、肌を撫で、秘密を暴くかのように触れて犯していく。  小夏は、ぎゅっと目をつぶってそれに耐えた。ひたすら耐えて耐えて、気まぐれに客の喜ぶことをしてやれば、それで仕事は終わりだ。  たったこれだけで、生きていくための寝床や食事を与えてもらえる。多くはないが、自由に使えるお小遣いだってもらえる。それなのに、この行為は小夏にとっては泣き叫びたくなるほど辛いものだった。  しかし、小夏がどれほど嫌悪して拒んだところで、こうする他に生きていく術を知らないのだ。  金と権力を持った人間の欲にまみれながら、小夏は今夜も己の体を売る。外の世界から切り離されたこの造られた街が、小夏のすべてだった。
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