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3.お外の世界
「小夏姐さん、何かいいことでもあった?」
ばしゃばしゃと冷たい水で顔を洗っていた小夏は、勢いよく顔を上げた。
そこにいたのは小夏より一つ年下の小鶴という少女で、彼女も顔を洗いにきたのか手拭いを片手に握って含み笑いをしてみせた。
「ね、そうでしょう?」
「え……ど、どうしてそう思うの?」
「だって、うちが起こしに行くより前に起きてきて顔なんか洗ってるんだもの。珍しいなあと思ってさ」
朝早くに起きるのが苦手な小夏は、時間になっても起きてこないとこの小鶴に「起きてくださぁい!」と耳元で叫ばれることがよくある。よくあるどころか、お勤めの次の日はほぼ毎回といっていいほどであった。
だから、この店では先輩である小夏に対してでも、小鶴は友人かのように気兼ねなく話しかけてくるのだ。
「ねえ、いいことがあったなら教えてよ。何かあったんでしょう?」
「別に、何もないよ」
「うそだあ! うちに隠し事しようだなんて無駄ですよ、毎日顔を合わせてるんだから!」
「ううーん……誰にも言わない?」
「言わない! こう見えて口は堅いんですから」
そう胸を張る小鶴に笑って、小夏は昨日河原で出会った青年のことを話した。
色恋沙汰ではないのよ、としっかり前置きはしたのだが、小鶴は目を爛々と輝かせて小夏の話に聞き入っている。また会う約束をしてしまったことまで話すと、彼女はきゃあっと甲高い声を上げた。
「すてき! うちもそんな相手が欲しいなあ」
「そんな、少し話したってだけよ」
「それなら、今日はとびっきり綺麗なお着物で行かないと! あ、うちが見繕ってあげようか!」
「ううん、いい。それに、成り行きで会う約束をしてしまっただけだし、会うのは今日限りにするつもり」
子どものようにはしゃいでいた小鶴が、小夏の言葉を聞くなり目を剥いた。
「えっ、どうして! せっかく店の外で素敵な人と出会えたのに!」
「だって、その人の素性も知らないし。それに、わたしのお勤めのことだって言えないもの」
小鶴が眉根を寄せる。小夏と同様に、彼女もまた自分の生業が他人からどう思われているかをよく分かっているから、口をつぐむ他なかった。
しゅんとしてしまった小鶴を見て、小夏は慌てて両手を振る。
「でもね、その人と話していて楽しかったのは本当よ。今日会うのだって、楽しみにしているし……わたしも普通の、お外で暮らす女の子になれたような気がして」
「小夏姐さんだって、普通の女の子でしょう」
「違うよ。わたしはお外を知らないし、この先知ることもない。それでいいの」
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