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「そんなことありませんよ」
だから愛想なんてかなぐり捨てて、ムキになってしまった。
「そんなことより、大丈夫なんですか」
「なにが」
今度は面倒くさそうな声。しかし引き下がる気にならない。
一歩、足を踏み出す。
「顔。痛むでしょう?」
「痛くなんてないよ、こんなの」
慣れてる、と小さな声で付け加えられたのを聞かないフリをした。
なぜこの男が頬を張られたのか、彼には知る由もない。
――月乃といつものように並んで歩き下校した。
他愛のない話をして、風が彼女の長い黒髪を撫でるのを何の気なしに眺める。手ひとつも握らない、そんな交際をしていた。
しかし若いが、いや若い故に期待に胸を膨らませることもあるだろう。
軽くリップを塗っただけの薄い唇を盗み見しながら、太郎は小さく息を吐く。
『今日こそキスをする』
先に手を繋げと親友には笑われた。しかし汗のにじんだ手を差し出すよりも、まだハードルが低いのではないかと考えたのだ。
生まれてこの方、男友達は多けれど異性に対してはなかなか奥手であった。
月乃の方から告白されての交際であるものの、毎日が浮かれ緊張の連続である。
しかも学校、美少女といえばと一番に彼女の名があがるほどの容姿。それだけではく成績も上から数えた方が早い、そんな非の打ち所のないのが彼女。
五十棲 月乃であった。
「いや、痛いですって」
太郎は頑として言い張る。
あんなに大きな音をしていたのだ、痛くないはずがない。
……いつものように月乃を家に送り届けた。
家の前でキスをする。ありがちと言えばありがちのシチュエーションと期待を胸に抱いて。
そうしてこの状況。
玄関のドアが半開いていたのを見た瞬間、今日の計画の頓挫にガッカリしたものの表情に出さなかった。
しかし次の瞬間、大きな怒鳴り声と共にバチンという大きな音と共に男が家の中からよろけ出てきた。
慌てたのもつかの間、追い打ちをかけるような喚き声。
まさに修羅場ともいえる空気に、二人は固まる。どうしようと太郎は彼女を見ると眉を下げて泣きそうな顔をしていた。
「痛くないって言っているだろ。そんなことより、恋人を放っておくな」
「こ……っ!」
確かに彼女とはそういう関係であるが、改めて指摘されると照れが出る。
「なんだい今さら。いい子ぶるんじゃねぇよ」
月乃の兄である、五十棲 天翔と面識はあった。とはいっても、一度だけ駅前を二人して歩いていたら偶然居合わせただけだが。
その時も、月乃が彼に。
『友達よ』
と素っ気ない一言をそえて、天翔もまた。
『あ、そ』
と返すだけ。
太郎は横で小さく頭を下げたが視線すら合わせてもらえなかった。
それでも妹同様、人目を引く容姿の天翔の後姿をしばらく目で追った記憶がある。
「親にぶん殴られる、ろくでなしの兄貴よりも愛しのカノジョさんの傍に居てやるのが男ってもんじゃあないのか」
「そうかも……ですけど」
痛いところを突かれた。
しかもなんの事情も知らぬ男子高校生についてこられて話かけられるのは、さぞ鬱陶しいものだろう。そこではじめて、太郎は自分の行動がいかに軽率か省みることになる。
「す、すいませんでした」
「別に謝罪を求めてるわけじゃあない。でも君がほんの少しでも空気ってものが読めるなら、今すぐ僕を一人にしてくれないか」
おどけた口調ではあるが、やはりこちらに背を向けた状態。
それが妙に悔しく、太郎は拳をかためた。
「じゃあな」
律儀に挨拶だけはして去っていく男の背を、大通りに出ていく若干ふらついた足取りをただただ眺める。
「ふざけんな」
誰に対する悪態だったのか、自身にもわからなかった。
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