#4

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   部屋全体がガタンと揺れた。物凄い音を立てて、韮崎がタンスにぶつかる。俺のずり下がったズボンが半端なところで止まっていた。  がしゃん、とまた異様な音がして液体が飛び散る。アルコールの鼻につく匂いがして、珂雁が日本酒の瓶を叩き割ったのが分かった。割れた瓶をそのまま、頬を腫らして蹲る韮崎に振り落とそうとする。 「っ、珂雁!」  その動きに迷いはなかった。容赦なく振り落とされる凶器を前に、韮崎が顔を青くする。反射的に俺は珂雁に体当たりをしていた。照準のずれた瓶がタンスに当たって砕け散る。頬を破片がかすめていった。こんなの直撃していたら大変なことになっている。 「か、珂雁っ!」  瓶が粉々になってしまったからか、珂雁は所在なげに手を握っては開いてと繰り返していたが、自然な歩調で韮崎に歩み寄ると息をするように韮崎を殴りつけた。韮崎が起き上がる隙も、息を吸う暇も与えないように。振り落とされる拳は綺麗で、白くて、それが振り落とされる度にピンク色に、赤に、茶色に染まっていく。  あっという間に韮崎の顔はぼこぼこに赤く腫れあがっていった。韮崎は嫌いだ。でもこんなの韮崎が死んでしまう。 「珂雁、ねえ、珂雁! 危ないよ! やめて」  珂雁はいつもの儚げで優しい顔を恐ろしいほどに凍らせていた。ぞっとする。さっき以上に膝はガクガクと震えていた。  こんな珂雁を止められるとは思えない。それでも必死に、その手を止めようと珂雁の腕にしがみついた。珂雁が俺に止められたその一瞬で、韮崎が珂雁に反撃しようとした時だった。  鈍い衝撃を顔面に受けた。  背中を打ち付ける衝撃でようやく倒れ込んだことを理解する。視界にはシミにまみれ壁紙が剥がれかけた天井が映っていた。黄ばんだシミがぐるりと回転しているように見える。  なんでこんなことになっているんだろう。  俺か? 俺のせい? 俺が出ていけばいい?  でもそれでどこに行けばいいんだよ。警察にでも行けばいいのか? 帰る家がないんですって? 俺はもう保護されるような歳じゃないんだよ。身分を証明するものすら持ってない。あったとしても俺が名前を言うだけで珂雁を困らせてしまう。  顔も朧気にしか思い出せない両親は泣いて喜ぶだろうか。でも俺は? 笑えるよ。  みんなして俺を蔑ろに扱って、なんなの。  生ぬるい何かが伝う感覚がする。拭って見ると鼻血が出ているみたいだった。唇の端が痛い。口の中が血の味がする。  あーあーうるさ。男の怒鳴り声と泣き喚く子どもの声が頭に響く。くっそうるせえ。死ねよ。ふざけんなよ。 「―――っ夕陽!!」  朦朧とする頭をもう一度殴られたみたいだった。  さっきの比じゃない衝撃に、一瞬世界から何もなくなった。  それは悲鳴とも怒声ともいえる絶叫だった。 「…………え?」  重たい頭を上げれば、顔を真っ青にした珂雁が韮崎を押しのけ子どもを踏み倒し俺に駆け寄ってくることろだった。  目を見開きしゃがみこむと、恐る恐る俺の頬に手を伸ばす。  なんだ、その顔。ここまでふっとばしたの、あんたじゃん。 「あぁ……」  泣きそうに顔をぐしゃりと歪め、まるで壊れ物でも触るかのように、触れてはいけないものに触るかのように、震える指が伸ばされた。  冷えた指先が肌に触れる。珂雁の指だ。珂雁の温度、匂い。  五感全体で珂雁を感じながら、その指がじんじんと腫れた頬をなぞった。途端、俺は猛烈な吐き気に襲われ床の上に盛大に嘔吐した。
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