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確かにここの団地は取り壊しも間際だと噂が立つほどに古い。だからか、住んでいるのもまだ新築であった頃に越してきた年代がほとんどで、生きているのか死んでいるのか分からない化石のような老人ばかりだ。
ただでさえ墓場のような団地なのだから、人を攫ってきたところでそれを不審に思って通報するほど活力のある人間がいない。いたとしても年よりの譫言として片付けられてしまうのだから都合がいい。
部屋に入ると、韮崎はまず子どもの拘束を解いた。声を上げて泣き出す前にすかさず珂雁がぽんぽん頭を撫でて背中をさすって、お菓子を食べさせて落ち着かせた。それでも恐怖でかぽろぽろと涙をこぼしている。
手持無沙汰になった両手が何かを求めるように開いては閉じている。その手に車の中で拾ったフィギュアを握らせてやれば、わっと涙を溢れさせたが声を上げることはなかった。恐怖で声など出なくなってしまったのかもしれない。
韮崎は慣れた手つきで子ども肌を撫でていたが、いつ見てもその手つきには寒気がした。これが珂雁だったらそんなことは思わないのに。珂雁の女性的ともいえる手と違って、韮崎の手は分厚く指一本一本にまで脂肪がつき、黒い毛がぼうぼうと生えていた。俺はそんな手を見て顔をしかめた。
珂雁が飲み物を淹れに台所へ行く。お湯を沸かす音に、ティースプーンが葉っぱをきる音が聞こえてくる。その日常にありふれた音に重なる異常な吐息。すぐにココアの甘く温かな匂いがしてきた。
「おい」
「……」
「お前も触れよ」
「…………」
韮崎は嫌いだ。その目が特に嫌いだった。下卑た笑顔は幼い頃俺にも向けられていたが、珂雁は絶対に俺を韮崎に触れさせなかった。
抵抗も虚しくされるがままの子どもを見下ろす。
俺はお前とは違うんだ。守ってくれた人がいる。この気持ち悪いおっさんに触れられたことすらないんだから。
馬鹿にしたような笑いが漏れた。鼻で笑った俺は、しゃがんで子どもの肌に手を沿わせた。なんだか爬虫類の皮膚を思わせる。トカゲの肌触りを思い出した。特段いいとは思わない。珂雁はどう触れていたっけ。
珂雁の手つきを思い出しながら少年の服に手をかけた時、強い力で手首を握られた。
「っ!?」
手首を絞めつけてくる力は振りほどけないほど強くて、下手に動けば俺の腕など折れてしまうんじゃないかと思った。弾かれたように顔を上げると、韮崎が食い入るように俺の顔を覗き込んでいる。
「相変わらず細いし白いな」
妙な雰囲気の囁き方だった。顔のすぐ近くで生ぬるい息がかかる。
「っ、」
「ちゃんと食ってんのか? いや、星河がお前に飯食わせないわけないか」
「は、はな」
「お前、大きくなったよな。昔はこんなに小さかったのに」
嫌な笑い方をして、子どもを顎で示す。だからどうした。もうとうに自覚していることをわざわざアンタの言葉で突きつけないでくれ。
「……離せよ」
「あいつはお前に触れないんだろ」
「そんな話お前に関係ない」
「なんでだと思う?」
「俺の話聞けよ」
なんでって、その理由を知ってるの? 掴まれた腕を引っ張ったがぴくりともしなかった。
韮崎は楽しそうに口角を上げた。黄色い歯がてらてら光っていて気持ち悪い。浅黒い肌にはやけに毛穴が目立っていた。
「馬鹿げた話。あん時の星河、思い出すだけで今でも笑える」
何の話? わからないよ。
「可哀想に。お前はいつだって飢えてるのにね。いつも俺たちを見ながら一人でいじってるだろ」
「……」
「あれ、今やれよ。手伝ってやるから。お前がやってるところ見てんの興奮すんだよ」
「知、らない」
「はぁ? いつもあんなに声出してんのに」
「おれ声、出てた……?」
うっそ、マジか。出さないように気を付けてたのに。
というか、こいつマジで離してくれない。腕を掴まれたまま後ずされば、ぐっと引き寄せられ頬を包まれた。全身にぞわり、と鳥肌が立つ。
今日だけでもう何度も、云年ぶりに人の肌に触れている。最後に人の肌に触ったのも、触られたのも思い出せないくらい昔だ。珂雁でさえ、もう今の俺に触れようとしないのだから。
こんなにも気持ち悪いものだったか。こんなにも恐怖を抱くものだったか。
俺が知っているものはもっとずっと暖かかった。安心できたはずなのに。
「見せろよ。うまくできたら俺が遊んでやる。溜まってんだろ? 本当はヤりたいって、アイツにそう言いたいんだろ」
息が頬にかかる。それほどまでに近かった。久しぶりに外に出た時みたいに膝が笑っている。
頬に触れていた手が離れていったと思ったら、Tシャツをたくし上げられてズボンの中に入っていった。自分の体なのにまるで幽体離脱でもしたように感覚がない。
萎え切った下半身に触れられても、汚い泥水でも擦り付けられているような不快感しかない。腰から撫で上げるように手が動き、胸の突起を掠っていく。震えた歯がかちかちと音を立て始めた。
子どもの息遣いが耳に入る。時折しゃくりあげているが声にはならなかった。苛々する。なんでお前じゃないんだよ。
ココアの匂い。静かな足音。髪が揺れるさらさらとした音が聞こえてきそうだった。
だけど実際に聞こえてきたのは、陶器が割れる耳障りな音だった。
「――ッ!」
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