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・・・
「まだ痛む?」
「…………ん」
触れるだけで壊れてしまうものでも触るように、綺麗な指がそっと頬に触れる。覚えがある中で一番慎重で優しく、そして頼りなかった。
一晩経って、俺の頬は紫味を増した痣となっていた。目の前では唇を噛みしめた珂雁の顔が目に入る。俺の顔の痣を見る度、珂雁は泣いてしまうんじゃないかというくらい痛々しい顔をした。
「珂雁、全然弱くないじゃん。俺もっと喧嘩苦手なのかと思ってた」
珂雁はこれまでに見たことがないくらい落ち込んでいた。俺にも分かってしまうくらいなのだから、相当なショックを受けているみたいだ。俺のわざとらしい声のトーンに、やっぱり痛々しい顔で苦笑いをする。
「いや、苦手だよ。痛いし」
「確かに」
すごい痛かった。切れた唇の端を思わずなぞる。人に殴られるって、こんな感じなんだ。妙に納得した顔で頷くと、珂雁が首を横に振った。
離れていく指は形も綺麗に整っているが、拳はところどころ傷があり血が滲んだ赤味を見せている。ああ、痛いってこっちのことか。
「シップ、替えるね」
「まだいいよ」
「でも、新しいほうがひんやりしてる」
珂雁の手だってひんやりしてる。そう言ってやりたかったけど、シップを手に取る珂雁の手つきが美しくてどんな言葉も頭から抜けてしまった。
ベランダから風が入り込んでくる。カーテンの揺れる音が無音の室内に響いた。
ああ、なんか、このまま止まってしまえばいい。
影が落ちる。どうやら太陽が顔を見せたようだ。視界の端で何かがゆらりとちらついた。隣の爺さんがベランダにつけた鯉のぼりが風にはためいている。鮮やかに青、ピンク、緑。近くの野球場で球を打つ音がここまで聞こえた。
世界は存外平和なんじゃないか。
誰が誘拐されても、消えても、泣き喚いていても、殴り合いをしていても、能天気に過ぎる時間は恨めしく、尊い。荒んでいるのは心の中だけ。
「痛かったら言って」
「ん」
指の先が頬に触れ、シップのひやりとした感覚がピタリと張り付く。珂雁の慎重すぎる手つきは、ぬるい空気が肌を撫でるようで逆にこそばゆかった。ぴく、と震えた俺に珂雁が息を飲んで動きを止める。
「……平気だよ」
「……そう」
室内の埃がきらきらと光りながら浮遊している。緑の芝と同じくらい綺麗なものに見えた。
「……夕陽」
「なに」
「どこか、行こうか」
「えっ、そ、外? 外に連れて行ってくれるの?」
昨日の今日だ。散々やらかした俺に珂雁はまだ愛想をつかしていないのか。
いや、違う。
珂雁は俺から目を逸らすようにして俯いた。差し込む光に照らされたまつげが震えている。真っ黒な細い髪が風にさらわれるようにして揺れた。
捨てられるのかな、と思った。
「…………行きたい。行く。連れてって」
「どこか……海。海に行こう」
「本当?」
「あんなに好きだったのに、あんまり連れて行ってやれなかったな」
珂雁が苦笑してみせる。その笑顔はいつもよりずっと幼く、故郷を失ったような覚束なさがあった。
なんでそんな顔をするの。何が悲しいの。
俺は元気だよ。俺は幸せだよ。この狭い部屋だってかまわない。そこに珂雁がいれば、もう何も求めないよ。ちょっとの我慢だって平気。
ゆっくりと珂雁が立ちあがる。当たり前のように伸ばされた手を握り返すことに俺は少し躊躇した。
「……ゆう」
吐息を多く含んだ声は弱々しい。遮るように珂雁の手を強く握れば、びっくりしたように珂雁の体がぴくりと揺れる。珂雁の手を握る俺の手は珂雁と同じくらいの大きさで、骨ばっていて、珂雁のように綺麗ではない。
反応を窺うのが怖くて、俺は顔を上げなかった。
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