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   何時間車に揺られたのだろう。高速道路に入ったから、ずいぶん遠くへ向かっていることだけは分かった。  途中何度か立ち寄ったパーキングエリアでは、ソフトクリームを買ってもらった。なぜか金箔がふわふわと乗っかっていて、周りで若い女性が嬉しそうに写真を撮っている。  運転席でソフトクリームを食べる珂雁は今日も黒ずくめだ。いつもより固い表情でそんなものを食べているから、可笑しくて何度も笑ってしまった。 「コンビニのアイスよりうまい」 「そうか」 「これ、美味いなぁ」  もっと食べたい。また食べたい。そんな機会あるかな。 「金箔って味する?」 「いや、しない」 「そうかな。豪華で質素な味がする。銀閣寺って感じ」 「金じゃないのか? きっとお前の舌が肥えてんだよ」 「そりゃうまいもんいっぱい食べさせてもらってきたからね」  珂雁が居心地悪そうに窓の外へ視線を逸らした。残ったコーンを俺に渡して、無言で車を発車させる。  車内はラジオがついているぐらいで、珂雁は自分から口を開こうとはしなかった。俺もわざわざ話そうとは思わなかった。昨日はずいぶん車酔いをしたのに、今日は身体が揺れる振動が妙に気持ちがいい。  徐々に日が傾いてきていた。車内をオレンジ色の光が照らしている。うとうとしてしまっていたうちに、いつの間にか高速を出ていたみたいだ。隣を窺えば、珂雁は夕日に目を細めている。  視線を前に戻すと、至る所が光を反射してぼやけていた。この時間はこんな景色になるらしい。眩しさに目を開けていられない 「あ、海だ」  窓の外に視線を向ければ、海面がきらきらと光っている。思わず窓に張り付いてしまった。 「すごい、海だ!」 「うん、着いたよ」 「人、いないね」 「田舎だし、アクセス悪いしな」 「入れるかな」 「……まだ冷たいよ」  急に声が近くなっって振り返ると、珂雁は後ろを向きながら車を駐車させているところだった。車が停まった途端、俺は待ちきれずに外に飛び出していた。  相変わらず砂に足を取られろくに歩けない。 「うわっ」  つんのめってこけたのに、痛みは感じなかった。はらはらとした砂が体から落ちていく。温められた砂浜は誰かに抱きしめられているかのような心地よさがあった。  靴下を脱ぎ捨て、素足で立ちあがる。足の裏から伝わる熱と感触が楽しくて、俺はそのまま海に向かって歩き始めた。後ろで珂雁が俺の靴と靴下を拾っている。 「足、気をつけろよ。何が落ちてるか分からない」 「すごい、あはっ、気持ちいいよ。珂雁も脱いでみなよ」 「……」  振り返って笑いかければ、珂雁は微妙な顔をしていたが、諦めたように靴を脱いだ。靴下を靴の中に入れて、俺の後を追ってくる。  砂浜は徐々に湿り気を帯びてきた。波打ち際で立ち止まる。濡れた砂浜に足が沈んだ。  前は夜明けだった。今日は日暮れだ。吹き付ける風が寂しさをはらんでいる。  後ろに人の気配を感じて振り返れば、珂雁が二足の靴を波の届かない場所に律儀に並べているところだった。珂雁は冷たいと言ったが、やっぱり海に入ってみたい。ズボンの裾を膝下までたくし上げているうちに隣を珂雁が横切っていく。 「え、ちょっと。珂雁、濡れるよ」 「うん。あー、やっぱ冷たい」  ズボンの裾もそのままに、あっという間に珂雁は膝あたりまで海水に浸かっている。  慌ててバシャバシャと音を立てながら珂雁を追った。ちょっとひやりとするくらい水温は冷たい。  波が押し寄せて、たくし上げたズボンを軽々と越えていく。濡れた服が重たく感じた。横に並ぶとすぐに珂雁は海に吸い寄せられるように歩き出してしまった。 「あ、待って、うまく進めない。うわっ」 「……」  振り返った珂雁が俺を見てほほ笑む。逆光になっていたが、暖かい色の光を受けたその笑顔がとても綺麗だった。 「何やってんだ」  差し出された手に指を伸ばす。指先が触れた瞬間、掴まれぐっと引っ張られた。 「っ」  バランスを崩した俺はそのまま珂雁を押し倒すようにして海に突っ込んでしまった。海水が口の中に入ってくる。あまりのしょっぱさに思い切り唾と一緒に吐き出した。 「うぇっ、しょっぱ、何コレ」 「海水。飲み込むなよ」  なんてことないように言っているが、視線を下に向ければ珂雁は全身が濡れ、濡れた髪を頬に引っ付けて笑っていた。 「わ、ごめ」 「冷たいな」 「え、うん。そうだね。わ、ちょっと何してるの」  せっかく手を伸ばしたのに、珂雁は起き上がろうともしないでそのまま海に浮かぶように仰向けになってしまった。まだ浅瀬ではあったが、どんどん波にさらわれていってしまう。 「ちょっと、珂雁!」  珂雁を追いかけて進むうちに、いつの間にか海水は腰丈にまでなっていた。もう歩いて進むこともできない。珂雁はどんどん離れて行ってしまう。寂しさと恐怖で必死に水をかき分けながら叫んだ。 「珂雁! 珂雁待って! 俺泳げない」 「浮かべばいいよ。力を抜いて」 「え?」  ひら、と珂雁が手を振った。俺が伸ばした腕を引っ張る。足が浮いた。海水が胸まで埋めてしまい息を飲んだ。思いのほか力強い腕に支えられていた。 「腰が引けてる。それじゃ沈むよ」 「足がっ、足がつかないよ!」  掴めるものも何もない。頼れるのは珂雁の腕だけだった。ばたつく度に身体が沈んでいく。珂雁はぷかぷか浮いているのに。 「こっち向いて」  珂雁の腕にぐっと引っ張られた。すっと持ち上がった珂雁の腕がそのまま空を指さす。  星が出始めていた。紫と朱色の中間みたいな不思議な空に銀色の光がちらりと光っている。雲が陽光の残滓でか、赤く照らされていた。  視界を遮るものは何もなかった。 「すごい……」 「寒いな」 「なんで今そんな情緒のないこと言うんだよ」  首を動かせばもう海岸はずいぶん遠く離れていた。それと同時に身体が浮いていることに気がつく。珂雁に掴まれた手はそのままだったけれど、もう沈むこともなかった。波の揺れで体が上下に揺れる。海水の塩辛さを知ってしまい、間違って飲み込まないかちょっと怖かった。 「俺、海入ったの初めてだ」 「俺も久々。それより冷たいな」 「何回言えば気が済むんだよ。どうすんの、こんな沖まで来ちゃって」 「戻る?」 「…………」  二人だけだった。広い海を前にぽつんと手を繋いだ男二人が浮いている。波に攫われでもしたら、もう誰にも見つけられないかもしれない。沈んでしまうかもしれない。  それでも、たった二人の世界がここにはあった。それは俺がずっと望んできたものに違いなかった。 「夕陽」  夕日はとっくに沈みきっている。薄い藍色の空がやってくるにつれ、星の輝きが増していく。  辛うじて繋がれた指先はとっくに海水で冷え切っていた。もう人肌の体温なんてなかったけれど、指先が絡む力が微かに強まったのを感じた。体の内側がどくん、と揺れる。
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