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「夕陽」 「なに」 「……俺のつけた名前じゃない」  なんなんだよ。  じゃあくれよ。あんただけのものを俺に頂戴よ。もっともっと独占して、執着して、あんたの望む俺を作ってよ。  繋がれた指先が離れそうになり、なんとも言えないやるせなさで俺は珂雁の手をぎゅっと握った。 「でも、」  唄うように珂雁が言う。その声の美しさにやっぱり俺はハッとしてしまうのだ。  ゆら、と波が動いて珂雁がこっちを向いたのが分かった。抗えないように俺も珂雁を振り返ってしまい、目が合った。きゅ、と細くなった目尻に笑い皺が寄るのが見えた。 「いい名前だ。お前によく似合ってる」  星河珂雁。こっちのほうがよく似合っている。 「俺は……俺は、迷惑じゃないの? どうしてずっと俺といるの? 珂雁は後悔してる? 俺がいなければ、俺なんて攫ってこなければよかったって、そう思う?」 「一度も思ったことないよ」 「じゃあどうして……!」  繋がれた手に力がこもった。体が冷え切っている。もう辺りを見回しても何も見えなかった。 「俺を避け始めた。俺に触らなくなった! 俺が大人になったから? 俺がおっきくなっちゃったから?」 「………お前が最初に言ったんだろ」 「は、何が」 「触るなって」 「え……いつ」 「10年くらい前」 「お、覚えてるわけないじゃん!」  いつの話だよ。そんな昔のこと。え、俺そんなこと言ったっけ。何にも覚えてない。 「夕陽さ、一時期すごい俺に当たりきつかったんだよ。覚えてない?」 「そんなことあったっけ」 「あの時の俺はね」  そこで珂雁は一回溜息を吐き出した。ちゃぷん、と水が跳ねる音が耳に入る。 「大量の育児書を買った」 「は?」 「これが反抗期かぁって」 「ねぇよ、なかったよそんなん」 「思春期なんだなって」 「違うだろ」 「俺、悲しかった」 「そ、そっか……」  冷静に考えたら、誘拐犯が何を言っているのだろう。 「で、でも、あんたいつも子ども連れてきてたじゃん。子どもとそういうことしてただろ!」 「金をくれるんだよ」 「はぁ?」 「韮崎が」 「あいつろくでもねぇな」 「勘違いをしてるよ、夕陽」  自嘲的な笑いが聞こえた。ちら、と隣を見れば珂雁は腕で目元を覆っていた。 「誰がろくでもないって? お前を攫った俺だろ」 「……なんで、」  珂雁の言葉を聞くのが怖かった。俺は肯定してほしかった。俺を攫った珂雁を、俺は否定して欲しくなかった。  俺と珂雁が一緒に生きてきた時間を後悔でまとめられたら。俺はどうして生きているのか分からなくなってしまう。 「珂雁は、ひどいことをしたって、そんな風に思ってる?」  親と引き離された。きっと、もう一生会えない。名前さえも忘れてしまった。それは果たして奪われたのか。自らの意志で手放したのか。俺は後者だと思っている。 「なんで、俺を」 「どうしても欲しかった。それだけ」 「……」  珂雁の口調は硬かった。激情を押し込めたようなその声音に、俺はもう何も言えなかった。 「俺はいつだって、お前に嫌われたくないんだよ」  少し掠れた声は、闇に溶けるようにして消えていった。もう珂雁の表情もよく見えない。街のほうで小さな明かりが光って見える。 「韮崎に何された」 「べ、つに……ちょっと触られたくらいで」 「ちょっと……?」  チッと舌打ちが聞こえてくる。それ以降、珂雁は黙り込んでしまった。ただ波の音だけが耳に入る。感覚のなくなった身体では、音以外で珂雁を認識するのが難しかった。触れているはずの指でさえ、もう本当にそこにあるのかわからない。 「痛かっただろ」  ずいぶん時間が経った時、そんな呟きがぽつんと聞こえた。 「俺が殴った。夕陽を」  信じられない、とでもいう響きだった。俺だってびっくりはしたけども。 「……もう痛くないよ」  頬のシップに触れてみれば、水を含んだせいで気持ち悪いジェリーのような触感になっている。 「なんならもっかい殴っとく?」 「お前」 「拳で語り合うんだよ。浪漫じゃん」 「漫画の読みすぎ」 「だってすることないし」  言ってしまってから後悔する。ちょっとこの話題はセンシティブだったかもしれない。案の定珂雁が黙りこくっている。 「じゃあ、俺も珂雁のこと殴ろ」 「……いいよ、好きなだけ」 「予告なしでいくね」 「こわ」  ふ、と笑う気配を感じた。ぎゅっと手を握られる。 「このまま沈んでもいいかな」 「物騒なこと言うなよ。俺はまだ遊園地に行くって夢があるんだから」 「俺が叶えるよ」 「できるだけ早めにね」  くすくすと笑っている。俺はそんな変なことを言ったつもりはない。笑いすぎてはぁ、と珂雁が息を吐きだすのが聞こえた。 「俺と夕陽だけの世界になればいいのに」  笑いを含んだその声は、幸福そのもののように響いた。冷えた体の内側が熱くなる。 「きっとできるよ。宇宙とかさ、行ってみない?」 「真っ暗で何もないじゃん。俺は深海に行ってみたい」 「いや真っ暗じゃん」 「あははっ」  珂雁が声を出して笑っている。珍しい。  ちゃぷん、と音がした。強い力で腰を抱き寄せられ、本当に沈んでしまうんじゃないかと思った。耳元で水がごぽごぽ音を立てる。海水を飲み込みたくなくてぎゅっと閉じた口に、冷たい唇が一瞬触れ、離れていった。  珂雁は海に沈みこむようにして、海岸側に身体の向きを変えた。
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