薬がない

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「ああ、胃が痛い」 「どうしたのですか? 薬局長? 」  そう言って事務さんが小首をかかげた。事務さんは私の前の薬局長が顔で選んだと噂されるほどの完璧な美人さんである。なんでも薬局開局時に彼女ともっとベテランの事務さんが面接に来たのだけど、彼女を選んだことで「あの薬局長顔で選んだぞ」と噂になったほどだ。噂を広げた当人のエリアマネージャーがそう言っていた。しかもマネージャーは「前の薬局長は既婚者だし事務さんも既婚者だし怪しいよね」とか言って笑ってネタにしていた。う~むそれはセクハラでは? マネージャーはそういう小話が好きで部下の人たちに気さくなおじさまとして好かれていると思い込んでいたけれど実際はまぁ、噂好きな人というのはそう好かれはしないものだ。「あいつ絶対うちらの悪口も言ってるよ」と警戒されていたりする。皆さんも気を付けよう。  私が薬局長になる前にはこの店舗に応援に行くこともあったのだけれど、前任者の薬局長と事務さんを眺めながら「2人はできているのか? 」などともやもやっと考えたりしていたものだった。  それからほどなくして私が薬局長に任命されて前の薬局長はほかの店に移動になった。別に彼が何か問題を起こしたからではない。一つの店舗に留まるとなんかよからぬことを隠したまま放置しそうだから、だろう。公務員とか銀行員とかほかの会社でもそんな感じで移動させられるみたいだしね。私ももうしばらくしたら転勤になるかもしれない。  結局2人が不倫関係だったのかどうかは分からず終いだった。本人に聞くわけにもいかないし、世の中は本や映画のようにすべての伏線が全てつらびやかに明かされるようにはできていない。子供のころに分かりかけてたことが大人になっても分からないまま。それが普通だ。  ここは1人薬剤師1人事務員の調剤薬局で、私はそこの薬局長だった。1人薬剤師なので強制的に薬局長になっているだけで別にそんな偉いわけでもない。ここに赴任して3年、必然的に事務さんとももう3年の付き合いになる。もはやツーカーの仲といってよかったた。まぁ、先ほども述べたように事務さんは既婚者なので、ツーカーの仲になったところでロマンスは生まれませんけどね。 「フラビタンが後1月分しかない」  私は薬の在庫状況を見ながら嘆いた。  フラビタンとはビタミンB2欠乏症の予防及び治療に使われる処方医薬品だ。口内炎とかに使われる。  現在製造している工場が材料を調達できないとか何とかで1年以上に渡って発注しても入ってこない状況が続いていた。 「もうですか? たくさん回してもらったんじゃないですか? 」 「4か月たったからね。本当は3か月分の予定だったんだけどよくもったと思う。だけどもう限界だよ」  発注しても入ってこないが、幸いにしてうちの調剤薬局はチェーン店だった。日本中に店舗がある。使っていない店舗から譲ってもらってなんとかやりくりしていたのだがついに限界が訪れた。 「どうするんですか? 」 「先生に処方変えてもらうしかないかな…」  実は薬が入って来ないというのはフラビタンだけのことではない。様々な薬で起きていた。新型コロナウイルスの流行。地震。ウクライナ戦争。某製薬会社の水虫薬に大量の睡眠薬が混入されていた事件。様々な原因が相まって現在薬の供給は大変不透明な状況にあった。必要な薬が必要なだけ供給されていないのだ。  そのせいで医師から処方された処方箋薬が手に入らないという事態が生じ、時には薬剤師の進言で医師に処方薬を変えてもらわねばならない事態にまで追い詰められていた。  融通の利かない薬剤師の中にはあくまで医師の処方通りに薬を取り寄せようと苦心し精神を病むものまでいる始末であった。 「じゃあ変えてもらいましょう」 「簡単に言ってくれるね」  フラビタンと全く同じ薬は存在しない。薬自体は後発品とかでなくはないのだが、みんな同じ工場で作っていたらしくフラビタンが作れなくなったときにみんな入ってこなくなってしまった。同じビタミンB2製剤ではハイボンおよびその後発品が存在するが成分が違うし、それもフラビタンの供給が滞ったことで需要が一気に集中して新規の患者はお断りの状況になってしまった。その影響はビタミンB2製剤どころかほかのビタミンB6製剤やB12製剤にもおよび、一時期全くビタミンB2の入っていないビタミン剤まで入ってこない状況になってしまった。たぶんみんなフラビタンを口内炎で使っていたから、口内炎のビタミン剤ということで需要が集中したのだろう。 「実は他の病院がみんなフラビタン辞めて別の薬にしちゃったから、逆にフラビタンは余っていてね。ハイボンとかより集めやすかったんだなこれが」 「そうなんですか? 私はてっきり先生に薬がないって言いにくかったから先延ばしにしたのかと思っていました」 「いやまぁ、それも間違いではないけどね」 「やっぱり間違いじゃないんですね…」  やっぱりね。頼りないな薬局長は…みたいな感じで言うのはやめてください。  でもそれはしょうがないことだと思う。いくらメーカーのせいとは言え医師に薬変えてとは言いにくいものだ。まぁビタミン剤くらい変えても大したことないんじゃないか? むしろ飲まなくてもいいんじゃないか? だってビタミンB2だよ? お茶とか椎茸とか焼きのりとかに入っているよ? それくらい自分で食べようよという気がしなくもないのだが、患者の中にはフラビタンのおかげで口内炎が落ち着いているという人もいるので無下にはできないのだった。 「でももう入ってこないんでしょう? なら仕方ないじゃないですか? 」 「いや…まだフラビタンシロップが残されているから」  私は目をそらしつつ答えた。  メーカーとてこの1年間手をこまねいていたわけではない。フラビタン錠の供給こそまだ再開しないもののフラビタン軟膏とかフラビタンシロップの流通は再開していていた。軟膏では内服薬の代わりにはならないがシロップなら代わりになることが可能だ。 「大人にシロップを飲ませるんですか? わざわざ口内炎のために? 」 「いけないか? 」 「いえ、別に行けなくはないですけど…」 「フラビタンを飲みたいという熱い心があれば毎日シロップを飲むことだって苦にならないはずだよ」 「ですかねぇ…」  シロップは大抵子供にだされる財形だ。それもあまり長いこと飲むものではない。錠剤はまだなのにフラビタンシロップの供給だけが再開しているのもそういう需要の少なさによるものだろう。 「でもまぁうちの患者さんはフラビタンのファンが多いからきっとシロップだって気にならないはずだよ。決して先生に別の薬を進めたくないわけじゃないんだよ」 「はぁ、まぁ確かにうちの患者さんはお年寄りが多いですから薬変えるの嫌がりますけど」  事務さんは消極的に賛同してくれた。  プラシーボ効果というかなんというか、後発品どころかオーソライズドジェネリックでも効かない気がするという患者様はいるのだ。なるべく薬を変えないに越したことはないだろう。決して医師に処方提案するのが嫌なわけではなく…いや、本当に。  ちなみに後発品とは、その名の通り後に発売された薬品という意味だ。最初に作られた薬が先発品と呼ばれる薬であり、それを真似して作られたのが後発品だ。先発品と違い開発費研究費がかかっていない分後発品は割安になり、メーカーも一社ではなく複数で作られることが多い。A先発品に対してBCDEFGなどの後発品が存在することもある。後発品は医療費が安く済むので国も推進していた。効果は…まぁ、一般的には同じということにはなっている。過去には成分だけ同じで体内で溶ける時間を全く計算して作られていないため効果に疑問符が付くものも存在しており、そのことを知る年配の医師は嫌う傾向にあるのだが、まぁ昔よりはましになっている、と思う。オーソライズドジェネリックといって先発医薬品を製造販売する製薬会社が販売する後発品も存在しているし。おかげで後発品が幅を利かせすぎて先発品が販売中止になるということも時々起こっているくらいだった。 「まぁ、とりあえずフラビタンはそういう方向性でいくとして」  患者さんが嫌というならそれはもう自発的に医師に変えてと言ってもらうしかない。患者さんが嫌というなら処方変更も提案しやすいし、私もやりやすい。そうだよ、患者さん自ら嫌だと言ってもらえたらやりやすいんだよね…私はそう思いつつ、また店の在庫状況をチェックし始めた。 ・・・ 「もしもしメーカーさんですか? 半年前に頼んだブロムヘキシン「N社」はまだ届きませんか? 」 「ブロムヘキシン「N社」ならただいま出荷調整中で…」 「でも頼んだのは1年前ですよね? いい加減に遅すぎなのでは? 」 「とはいいましても…」 「もしかして、フラビタンみたいに供給が滞っているなんてことは」 「そうでえすね。1年前から入ってきていませんね」 「え? 」 「え? 」  私は電話の前で顔をひきつらせた。 「じゃ、じゃあ…別のメーカーのブロムヘキシンは? ブロムヘキシン「S社」とかブロムヘキシン「T社」とか」 「ブロムヘキシンはどこも品薄ですからね。新規の取引様はお断りされていると思います」  でしょうね…ハイボンの時がそうだったし。  一つのメーカーの後発品が発注制限されると、その代わりに別のメーカーの後発品が使われる。けれど別のメーカーもそれほど余分に在庫を抱えているわけではないので言われるままに供給していては薬が足りなくなってしまう。そのため今まで使っていた顧客にしか薬を渡さない、渡すとしても数を絞るなどの処置を講ずる。その結果ありとあらゆる薬が玉突き事故のように足りなくなっていった。ここ2,3年で嫌というほど見てきた出来事だった。わかっていますよ。でもね… 「今までは先発のビソルボンを使っていましたけれども、今月で経過措置終了じゃないですか? だからそれまでになんとか手に入れられるようになって、お願いしてたじゃないですか? 」 「そういわれましても入ってこないものは」 「せめて入って来ないって教えてくれたらまた違ったと思います」  分かっていれば私も小賢しい手を弄して薬を確保しようと努めたと思いますよ? でも教えてくれないのでは対応しようがありません。 「申し訳ありません」 「…」  いくらメーカー側の対応に不適があろうとも、文句を言おうとも、ないものはないのだ。それを言っても仕方のないことだった。それでも駄々をこねるほど子供ではない。  ガチャり。  私は受話器を置いた。燃え尽きたぜ真っ白によ。 「薬局長どうしたんですか?青い顔して? 」  終わった…  私は追い詰められていた。  理由はビソルボンの後発品ブロムヘキシンが手に入らないことにあった。  店舗の在庫チェックをしていてかれこれ半年以上発注しても入って来ない商品を見つけメーカーに連絡してみたのだが結果はこの通りだ。 「ブロムヘキシンが手に入らないんだよ」 「そうでしたね。ですから先発の 3ビソルボンに変えたんでしたね」 「そうだけど、そのビソルボンが今月で経過措置終了。つまり使えなくなるから」  後発品の方が作っているメーカーが多いのだから後発品の方が供給が安定しているかというとそうではなかった。それは今回薬の供給を滞らせている原因が後発品のメーカーの問題で起こっているケースが多いからであろう。新型コロナ、地震、戦争の責任なら先発品も影響を受けるのだが、問題は最後の某製薬メーカーの起こした事件で起きているケースであった。この際後発品のぞんざい管理が問題となり試験を厳格化したところ、ひっかかるメーカーが結構いたというか、ひっかかりそうだから自粛したところが結構いたというか。いろいろとひっかかるところがでてきてしまったらしかったのだ。そうしていくつかのメーカーが後発品の扱いを自粛すると、その後発品を使っていた患者が別のメーカーの後発品に切り替えるという事態が生じてしまう。そうなればたくさん売れるようになった他社メーカーはうれしい、かというと問題はそう簡単ではなかった。メーカーが作れる以上の薬が必要になってしまい、メーカーは出荷調整せざるをえなくなる。後発品のメーカー1社が出荷調整するとこのように玉突き事故が起こりすべての後発品んが出荷調整される事態を招くことになるのだった。  私は融通が利く方であった。医師の指定であっても必ず同じ薬を用意しないという訳ではない。後発品から別メーカーの後発品の変更、もしくはカプセル剤から錠剤の変更などは医師に聞くまでもなく可能であるし、後発品から先発品への変更も患者と医師が同意すれば可能だった。成分が同じなら医師も処方を変えるより簡単に同意してくれる。そもそも医師はあまり後発品は好まない傾向にある。後発から後発への変更に対して、後発から先発への変更はひと手間いることもあり後発品の供給が滞っても先発品は比較的滞らない傾向にあった。それでも例外はあるけれども。 「今までは最悪先発に変えればだいたい何とかなったんだけどなぁ…」  今回はそれがあだとなった。  ブロムヘキシンの先発品ビソルボンはすでに販売中止になった薬であった。それが今月で経過措置が終わり本格的に使えなくなる。それでも、いやそれゆえに多店舗に大量の在庫が存在していた。ゆえにそれをまわしてもらってなんとかやりくりしていたのだが、そのせいで肝心のブロムヘキシン「N社」がフラビタンと同じような状況になっているということに気が付くのが遅れてしまった。痛恨のミスといってよかった。 「どうするんですか? 」 「とりあえず多店舗からブロムヘキシンを譲ってもらう」 「多店舗もブロムヘキシンは足りないのでは? 」 「それでも1,2か月分は回してもらえると思う。ただ、そう何度もというわけにはいかない」  ビソルボンやフラビタンと違いブロムヘキシンは多店舗でも需要の大きな薬品だ。そうそう頻繁に回してもらうわけにはいかなかった。 「ということはどうなるんですか? 」 「処方を変えてもらわないといけないだろね」 「まぁ! 薬局長! ついに先生に進言するんですね?」 「う…ぐ、胃が」  私は先生に処方を変えてもらうように言いに行く自分を想像すると胃が痛くなった。というか、なんか今から緊張してきた。 「なんか、動悸がするよ…ドキがムネムネ、いや胸がドキドキ」 「そこまで嫌なんですか? 」 「私はもともとコミュニケーションが得意じゃないから」 「ええ!? 薬局長はいつも悩みなんて何もなさそうにいつもヘラヘラしてるのに!? 」 「君は一体どういう目で僕を見ているのだろう」 「薬が足りないと言いつついつもヘラヘラしつつ何とかしてる人という目で見ていました」 「いつも胃が痛いって言ってるのに」 「寝てないアピールみたいに、かまってちゃんアピール的なものかと」 「…」  ちょっとへこんだけれど、まぁそれだけ普段うまくやれていると好意的に考えておくことにした。まぁ、実際私はそれなりにうまくやっているんだよね。薬剤師スキルとは全く関係のない部分で。 「さて、それはそれとして何の薬に変えてもらうかだけれど。候補はムコソルバンとムコダインか。ムコムコだね」  やらねばならないとなったら、もう頭を切り替えるしかなかった。つまり何の薬に切り替えるのかということだった。 「もう立ち直ったんですか? やはり辛い辛いって言ってますけど本当は余裕ありますよね? 」 「ムコムコとは何かわかるかな? 」  私は聞こえないふりをした。 「いえ分かりませんが…」 「ムコソルバンとムコダインは名前も効果も似ているんだ。だから作用機序は違うんだけど一緒に出すのはあまり好ましくない。でも実際に使うと効果あるから出されることが結構ある。それを揶揄してムコムコ処方というんだ」 「へぇ、そんなものがあるんですね。うちはムコソルバンは結構出ますが、ムコダインは出ないので代替役にするならムコダインでしょうか」 「そうだねぇ」  確かにうちの先生はブロムヘキシンとムコソルバンは割と一緒に出してくるけどムコダインはあまり出さない傾向にある。ブロムヘキシンに変えて何を出すかと考えるならカルボシステインに変えるのがいいかもしれない。だがしかし 「そうするとムコムコ処方になってしまうね」 「確かに、じゃあ駄目ってことですか? 」 「駄目っていうか、すでにブロムヘキシンとムコソルバンを一緒に出していたことがあんまりよくなかったというか…」 「ああ、そうですね。代替薬で出されるくらい効果の似ている薬を日常的に一緒に出していたってことですものね」 「そうなんだよねぇ…」 「薬剤師失格ですね」  ぐはっ… 「べ、べつに好ましくないだけで一緒に出したら駄目なわけじゃないからね」 「冗談ですよ」  本当に冗談なのか? 「ムコムコも効くから実際出されているわけだからね」 「あんまり好ましくないけど、ですね?」 「好ましくないっていうのも語弊があるんだよね。それってどうなの? ていう説もあるだけだし、大きな病院でも普通に出ることあるし。ネットでぐぐると普通に好意的な意見も出てくるし」 「薬剤師なんですからネットの意見より自信をもっては? 薬局長はあんまり好ましくないと思ってるんですよね」 「まぁ、ね…」  だから処方変更とか嫌なのだ。しかし実際問題としてブロムヘキシンは近い将来足りなくなるだろう。他店から回してもらっているうちに供給が再開すればいいが、望みは薄い。 「ああ、胃が痛い」  私は再び呟いた。
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