虎が雨

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虎が雨                                                             橘 DoDo  昨晩から降りしきる宿雨の蕭条な雨音のせいで、貴女のことを思い出しました。蕎麦屋の軒先で、雨宿りをしていらっしゃった貴女の頬に雨の雫が、ひらりと流れ落ちるお姿を今でも忘れることができません。私は、翠色の傘を花びらのようにさっと開き、貴女にお渡し致しましたら、貴女はふふふ、お笑いになり、小さなトトロのように葉っぱを差すみたいですねと、無邪気な笑顔を私に向けられ、私の頬は染め物のように朱色に染まってしまいました。  貴女は照れくさそうに下を向く私の名前をお聞きになり、小さく会釈をして、砂利道を空気のように歩いて行かれました。私は、小さく・消えそうな・貴女の後ろ姿を、傘も差さずに、見つめるばかりでした。  貴女の訃報をお聞きしたのは、あの日の夜半でございました。小さな町の川に身を投げられた貴女の変わり果てたお姿は、美しさと醜さが混合した得体の知らない一種の個体として、そこにただ存在していました。私は、降り止む景色もない雨降る空を仰ぎながら、声にもない声を発しました。空に向かって声を出せば、貴女が天国から話しかけてくれるような、そのような淡い期待を抱きながら。    皐月の走り梅雨のあとには、霽れた日が数日続くといわれています。翌朝には雨もすっかり上がり、私はもう一度、川岸へと足を運びました。私は白い菫の花が、川岸にポツンと面伏せに咲いているのを見つけて、小さく手を合わせました。無言の微笑で答える小さな花は、どこか貴女の面影を映し出した遺物のように、悲哀の色を湛えながら、雨の雫を数滴垂らすのでした。  数日後、私の家に一つの傘が届きました。柄の部分には、小さなお手紙が紐で巻き付けられていて、私は母からお菓子をもらう子供のように、急いで手紙を手に取りました。そこには、雨に滲んで幽かに読み取れる文字でこう書かれていました。  拝啓 柚夫さま  わたしの人生において、最後に出逢った男性があなたでした。あなたともうすこしはやくお逢いしていましたら、わたしはきっと仕合わせがよくなっていたのでしょう。わたしは、汚れたおんなになった日から、死ぬことばかり考えておりました。そんなわたしにとって、この傘が、とても美しく、汚れのないもののようで、どうしてもあなたにお返ししたく思い、御手紙とともに、あなたのお宿へとおくることにしました。雨の日に、わたしのことを思い出してくれましたら、わたしはそれだけで女としての仕合わせをもつことができます。しかし、わたしのことを思い出すこともないほど、どうか仕合わせに巡りあってください。                                    敬具 霞子
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