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翡翠を磨いたような湖面を見下ろしながら、ひとりの鳥人が飛遊に興じていた。体躯ひとつを優に超える翼を対にはためかせ、風を切っていく。立派な筋肉を備えた肩や背中の肌は、翼と同じ焦茶色の羽でまばらに覆われていた。
ふと湖畔の岩場に人影を見つけた。足元が常人のそれではないことに気付くと、鳥人は舌なめずりをして近づいていった。
「よお! 何してるんだ?」
岩場の手前で浮遊しながら無邪気に声を張った。翼をバタつかせるたびに水面が風に揺れる。
対面したのは銀髪の美形だ。濡れた長髪が裸の胸にしなだれている。体型は男のように見えるが、存在感のあるまつ毛や艶美な切長の目がしごく女性的だ。
下半身は魚のそれだった。瑠璃色の鱗をモザイクにした鮮やかな尾びれが、先端で二股に分かれて湖水に浸かっている。
「あんた人魚男だろう?」
鳥人は語気を強めた。しかし男は一瞥もくれず「邪魔をしないでくれ」と素気なく返した。
岩場にはふたりを隔てるようにイーゼルが立てられており、人魚男はそこに向かって絵筆を動かしている。
「湖中の水流が花を象っている。年に一度あるかないかの現象なんだ。今じゃないと描けない」
鳥人は退屈に口を尖らせると、翼を大きく振ってイーゼルの向こう側、男の背後へと飛び越えていった。
覗きこんだキャンバスは真っ白だった。散々筆を走らせているのに、絵中に色と言えるものは何もない。傍には絵の具もパレットも見当たらない。ただひとつ、人魚男の足元(?)に水瓶が置かれ、筆が瓶とキャンバスをしきりに往復していた。中身は湖水なのだとすぐに分かった。
「青い絵の具を使えばいいじゃん」
鳥人がぼやいた。人魚男は嘲るような顔で「ばか、あれは偽物だ」と返して、ますます描画に没頭していく。
「水の色を何千回、何万回と重ねていくうちに、本物の青になるんだ」
「暇なの?」
「まあ、鳥人の5倍は永く生きるからな」
鳥人には彼の顔は見えなかったが、微笑んでいるような気がした。
筆を操る右手を見やる。陶器のような白さと滑らかさが腕を伝って肩まで続いた。湖面の煌めきが逆光になり、翳った背中の媚態が目に焼きついた。
ややあって人魚男が口を開いた。
「俺を捕食しに来たのだろう?」
怯えるわけでもない淡々とした口ぶりだ。
鳥人は野生的な笑みを浮かべ一歩踏み出した。眼下の艶かしい肩に腕を這わせるようにして、後ろから抱きしめる。遅れて両の翼がふたりの体を丸ごと包んだ。
世界から隠れて、鳥人は人魚男に短い口づけを落とした。
「なんだ、これは?」
「生きた証」
鳥人はにやりと片方の口角を上げた。
人魚男はふぅとため息をついた。筆を置いて鳥人を振り仰ぐと、相手の顎に手を添えて誘った。
「今のじゃ俺には短すぎだ」
深い口づけを交わす異種。それぞれの生きる時間が、唇の合わせ目で溶け合っていた。
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