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今日も私は地獄に向かっている。
「……」
ただの比喩だが。そうでしかないのだが。地獄“のような場所”に向かっている。車を走らせている。
行きたくもない、あの場所へ。
「……」
徒歩なら1時間程度、自転車だと40分~50分程度だろうか。
そして車で15分程度の地獄。何ともお手軽な地獄旅。―嬉しくはない。なんせ地獄だ。天国ならまだしも。
「……」
外を流れる景色は、幼い頃から見慣れた街並み。この地元から一歩も出たことがない身―旅行なんかは除くが―としては、少々見飽きた。全く変わっていないということはないのだろう。私の記憶が曖昧でいい加減なだけで、日々変化しているのだろう。
「……」
地獄―それは私にとっての一つの居場所。一日の半分ほどをそこで過ごし、働き、死に行く場。
他の地獄がどんなものかは知らないが。あそこは、どうも見てくれだけはいいのだ。だから私は、ダマされた。天国とは言わないまでも、たいしてひどくはないだろうと、思っていたそこは。
中に入ってしまえば、地獄以外のナニモノでもなかった。
「……」
毎日毎日。
決まった時間に入り、不規則な時間に出る。外が暗くなるまでそこに居るのは当たり前。明るいうちに帰るなど、多くいる平のたった一人の私にはできない。
帰るのは、上座に座る者たちぐらいだ。
「……」
私は他の地獄を知らないから、そんなものなのだろうと思っていた。
言い聞かせていた。
どうにか、やり過ごしていた。
「……」
しかし、ある日を境に、身体は異常事態を訴えるようになってきた。
思えばそれは、他人からおかしいと指摘されてからだろう。今いる地獄が、他の地獄とは全く違うと。おかしいと。異常だと。
「……」
朝起きて、食事を摂り、身支度をし、車に乗り、エンジンをかける。いざ向かおうという時に。その瞬間に、心臓が、
ドクリ―
と強く打ちつける。
ドクリ―ドクリ―ドクリ―
と、そのままの強さで、動き続ける。そのスピードは徐々に速まる。
ドク―ドクードク―ドク―
道を進み、地獄へ近づくほどに。増していく。その音を響かせる。
ド、ド、ド、ドドドド―
「……」
不思議なことに、たどり着いてしまうと、その音は鳴りやむ。平静を取り戻す。諦めがついたのか、何なのかは分からないが。
そしてそのまま、特に気にすることもなく、私は地獄へ入っていく。
―ドクリ
「……」
平気でも何でもなかったようだ。地獄へ入ってきた私を迎えた、その人に、心臓が跳ねた。軽く挨拶を交わした程度で。たったその程度。そんな挨拶、すれ違った人とでもするだろうというような、そんな軽いモノ。
―ドクリ―ドクリードク
治まるどころかひどくなる一方。
その人の声が聞こえる―ドクリ。
目の端に姿が入った―ドクリ、ドクリ。
軽く会話を交わした―ドクリ、ドクリ、ドクリ、ドク。
「……」
この跳ねる心臓の原因が分かっていないわけではない。必要以上に動き、その存在を主張し、あわよくば体を壊してしまおうとしている原因が。
しかし、分かったからと言って、どうにかこうにかできるものでもない。
今、この地獄が居場所である以上、私はそこに居るのだ。居続けるのだ。
出ていくことは許されない。あの地獄から。
「……」
今日も私の心臓は、ドクドクと脈を打つ。
助けてくれと叫んでいる。
「……」
さて、次の信号を曲がれば、地獄へ到着だ。
今日も、この喧しい心臓と共に、一日を死んでいこう。
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