伊藤くんと渡辺くん(仮)

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高校一年の十二月の初め、おれはいつものように伊藤を塾の前で待っていた。今日はファミレスのバイトをしてたから、賄いで腹は満たされてる。伊藤は家でいつも食べてるけど、それまで腹減るだろうなって思っておれはたまにお菓子をあげる。今日はスーパーで安売りしてたチョコを野菜が入ったエコバッグの上の方に入れておいていた。バイト終わりに母さんに買ってくるように言われたものばっかが入ってる。  遅いなとスマホの画面を見る。伊藤は九時半には必ず出てくるのにいつまでもこなかった。電話しようとした時、おれの目の前に女子が歩いてきた。  ボブカットで内巻きになった毛先が歩くたびに揺れる。目は少しきつめな切長目で一文字に閉じた唇は薄いピンク色で、周りの男子もチラチラその女子を見ていた。確かに男は好きそうな女子だ。でもどこか怖い。そんなやつが明らかにおれに向かって歩いてくる。  もしかしたら伊藤の彼女だろうか。まあ、な訳ないんだけど。伊藤はこういう女子を怖がるから。 「あんたが渡辺夏樹?」  女子はおれの胸くらいのとこから睨みつけて聞いた。なんだか査定されているように感じる。やっぱり彼女なんじゃないか。いるなら言ってくれたらいいのに。おれは少し強がって、「そうだけど、あんたは?」と返した。 「凛朔の友達」  いつも呼んでいるかのように、その女子はりんさく、と伊藤の下の名前を言った。女子はおれの体を上から下までじっくり見ると、半笑いで「ふーん」と言った。  なんだこいつ。 「凛朔と仲良いっていうからさ、見てみたかったんだよね。あのこもうすぐくるから」  じゃあね、と帰ろうとする女子を呼び止めようとするが、そこに伊藤が 「リサちゃん!待って!」  と言って走ってきた。ドタドタと重い荷物を持ちながら走る伊藤に少し口元が緩む。リサって女子はやばい、って顔をしてから塾の近くに停まった車に飛び乗った。車はすぐに進んでしまったから、伊藤はため息をつきながらその車が去っていくのを見る。 「渡辺くん、リサちゃんはなんも言ってなかった?」 「え?ああ、うん」  伊藤は良かったと胸を撫で下ろす。おれはあっと思い出してチョコを渡すと、伊藤の荷物を持って一緒に駅に向かった。リサってやつのことはいつか聞こう。今じゃなくていい。  おれは伊藤の横顔を見ながら歩く。坊主頭に白い肌、長いまつ毛の伊藤はマフラーに顔を埋めると寒そうに震えた。なんかそれがおかしくてずっと見てたから、おれは何度も歩道に連立してるポールに当たった。でもあまりにも寒そうにしてたけどおれはカイロは持ってなかったから、伊藤にマフラーを貸そうとした。 「寒いならおれの使いなよ。おれバイト終わりで暑いくらいだし。」  両手がエコバッグと伊藤の教科書が入った鞄で埋まってたから、おれは首元を伊藤に突き出してマフラーを取るように言った。伊藤がちょっと照れながらおれの薄い黄色のマフラーを取る。 「黄色好きなの?」 「いや、姉ちゃんのお下がり。」  姉ちゃんが高校のころに買ってから大事に使ってるやつだった。おれの家はいわゆる母子家庭ってやつで、五歳上の姉ちゃんと母さんが一生懸命働いたお金でおれは高校に行けている。生活の足しになればってバイトを毎日しようとしてたんだけど、母さんがそれじゃあ悲しむから部活もやって、部活がない日はバイトって生活をしてた。姉ちゃんは母子家庭のことを高校生の時にそれを隠してたらしいけど、おれは自分のために頑張ってくれてる母さんも姉ちゃんも隠したくなくて、仲良くなったやつ全員には必ず言っていた。もちろん伊藤も知ってる。 「そういえば聞けよ、姉ちゃんが今度家に帰ってくるんだよ」  おれの姉ちゃんは昨年結婚して家を出ていた。たまたま社会に出て最初に付き合った人がまあいい人で、付き合って一年で結婚した。家から出て行った今も、姉ちゃんはおれと母さんに毎月お金を送ってくれている。自分で言うのもなんだけどおれは姉ちゃんが大好きで、いわゆるシスコンってやつだと思う。 「本当に!良かったね、渡辺くんはお姉さんのこと大好きだもんね」 「うん」  伊藤はおれの顔を見ながらニコニコ笑う。なんだかそれに照れるんだけど、伊藤が楽しいならいいと思う自分がいる。なんか知らないけど、おれが伊藤のいうことに「うん」って肯定すると笑うんだよな。  そこでおれはいいことを思いついたと、伊藤に声をかけた。 「伊藤さ、おれの姉ちゃんと母さんに会ってよ」 「え⁈」 「急なのはわかってるけどすっげえ会って欲しいし、おれも家族に友達紹介したい」  伊藤は嬉しそうな顔をしつつも、申し訳なさそうな顔で「できない」と言った。「お父さんが人の家に行くのを許さないから」って。  母子家庭で見る暇がないからか、うちは結構そう言う部分が緩い家だったけど、逆に伊藤はめちゃくちゃ厳しい家だった。伊藤の家は代々医者になってるとかで、伊藤は重いプレッシャーとかに耐えながら勉強してるんだと思う。あと、交友関係とかにも厳しい。門限なんか塾がある日は二十二時って決まりらしくて、遊びに行くなら(遊びになんて絶対許してくれないらしいけど)十九時だって言われてるらしい。 「そっか…じゃあ仕方ないな。学校に親が来た時紹介するわ」 「うん、ごめんね」  申し訳なさそうに項垂れる伊藤に、おれはいつも通り伊藤の肩を叩く。「気にすんな!」って笑って流すけど、正直一緒に遊びに行けないのに段々耐えられない自分がいた。  子供が友達と遊びに行きたいのに、それを許さない親ってどうなんだよ。しかもそれに対して従いっぱなしの伊藤も…  自分の思うことを全部言えばいいだけなのに。抵抗しないなんて、なんだかムカつく。  今までおれは言ってきたことがなかったけれど、その日は伊藤に一回親に言ってみろって言うことにした。 「おれ、嫌なこととか、納得できなかったら母さんとかに言うよ。伊藤もやってみなよ」  伊藤は目をまあるく見開いて、「そんなの無理だよ」と言った。 「なんで?」 「なんでって…」  伊藤は黙る。何か言いたいけど言葉を選んだりしている時の癖で、伊藤は右の人差し指で右の脚をトントンと叩く。視線は斜め下、自分の靴の横。でもいつもとは違って、なかなか言い出さなかった。  言い訳でも考えてるのか? 「親なんだから、言えばなんとかなるよ。伊藤のとこはおれと違って両親いるから、片方にでも言えればいいじゃん」  伊藤はうん、と言う。納得のいってない、口をキュッと結んだ顔で。伊藤がこんな顔をするのは初めてかもしれない。自分の意思ってのがあんまりないやつだから。  だったら言えばいいのに、おれには「うん」しか言わない。 「まだやったことないのに、諦めるなよ。」  段々おれはイライラしてきて、口調が荒くなってくる。よくないってのはわかってるのに。  伊藤は寂しそうな顔をした。そして、一言空を見るように目線を明後日に向けて、 「いいな」  と言った。小さくて消え入りそうに呟いたけど、おれの耳には入った。 「…どういう意味?」  おれの怒った声色に伊藤はハッとした顔で固まった。伊藤の顔がどんどん青ざめていくのがわかる。冷や汗をかきながら泣きそうな震えた声でもごもごと謝ろうとしているが、おれの怒りは収まらなかった。  伊藤には何度も父さんの話をした。病気で死んじゃった父さんの話を。母さんも姉ちゃんも父さんのことが大好きで、おれは五歳の頃の記憶しか覚えてなくて、それですごく寂しいって話もした。伊藤はいつも穏やかな声と顔で、優しく聞いてくれてた。なのに「いいな」だって? 「厳しい親がいなくていいな、僕も親がいなくならないかなって意味?」  ただただ首を振る伊藤の目が潤んだ。いつもならすぐに謝るおれも、今回だけは言えずに伊藤の思い鞄を地面にどかっと置いた。 「待って、渡辺くん、僕、ごめ、」  消え入りそうな声で言う伊藤の声を無視して、おれは駅内に走った。伊藤の話を聞かなくちゃならないのに、体は駅の中に向かっていく。  わかってくれてるって思ってたのに、なんなんだよ。軽々しく言うなよ。お前を嫌いになりたくないのに。仲良くしてたいのに。  少し涙が出てきて、目が滲んだ。急いでイヤホンを耳につけて、おれは帰りの電車が来たとたんすぐに乗り込んだ。イヤホンでデタラメに音楽を流す。その流れる歌の歌詞を頭で反芻しながら、伊藤のことを頭から一生懸命除いた。  
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