伊藤くんと渡辺くん(仮)

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僕は、重い足取りで家まで帰った。はっきり言って帰りたくなかったけれど、無断で門限を破ればもっと怒られるし。  この地域の中でも一番大きいであろうこの白い建物を前に、僕は足が震えていた。  まさか成績がこんなに落ちてしまうなんて。  渡辺くんを怒らせてしまってから大分たって、定期試験があった。ずっと勉強に手がつかなくて、気がついたら試験の日だった。今まで勉強していた部分は大丈夫だったから順位は変わらなかったけれど、全体的に点数は十点ずつ下がっていた。  今日は絶対に殴られる。そう確信してるのに家に帰ることなんてできない。  でも入らなきゃ。  震える手で玄関の前の鉄のゲートを押す。嫌な音ひとつ立てずにすんなりと開いた門は、入れと言っているみたいだった。この家の中に入れば、自分に味方はいない。  ゆっくりゆっくり、僕は玄関前の階段を登る。玄関のドアを開けると、きっちりと並べられた自分のスリッパと、仁王立ちしたお父さんが立っていた。テストの結果が全て返される日、お父さんは絶対に仕事を入れないで僕の帰りを待っている。点が良くても満点じゃなければそこを責め、悪ければ当たり前のように殴る。自分のストレス発散のために僕を待っているのではと最近は思っていた。  人間は完璧じゃないから、満点を取ることなんてできない。簡単には。だから僕は必ずと言っていいほど殴られるし、怒鳴られる。勉強をして医者になっても、多分一生これは続く。お父さんから逃げられないのを、僕は知ってる。 「…ただいま」  お父さんは何も言わずに手を僕に差し出す。結果の紙を見せろって言ってる。  僕は心を無にした。  お父さんの怒鳴り声、胸ぐらを掴まれてリビングに運ばれる。尻餅をついたあとに、すぐに正座をする。頭をもので叩かれたりしても、それを手で庇っちゃいけない。ただ、時間が過ぎ去るのを待つ。その頃にはもうボロボロになっていたとしても。 「お前は、出来損ないだこのクズ!一家の恥だ!」  怒鳴るお父さんの集中力を削ぐように、僕の携帯電話が鳴り響く。お父さんはそれが入っている学生鞄を蹴り飛ばした。鞄の口から携帯が出てくる。誰からかの着信だった。  渡辺くんならいいなって思った。でも僕のせいで、僕の希望だった渡辺くんはいなくなってしまった。こんなことなら仲良くならなければ良かった。 「すみませーん!」  玄関のドアが叩かれる音と声に、お父さんの殴る手が止まる。胸ぐらをつかむ手だけが、ぎりりと力が入る。声のする玄関の方を見たお父さんは、「玄関の門をきちんと閉めてねえな、このクソガキ」と言って僕を床に投げると、服装を整えて向かった。  声が外に聞こえているわけがない。お父さんはそう言う部分に神経質だから。だったら誰が。 「すみませーん、ちょっといいですかー!」  声の主はドンドンと力強くドアを叩く。お父さんが扉を開けてその相手と話している声が聞こえる。 「そんなに叩かないでください。警察に言いますよ。」 「ええ、いいですよ。あなたの虐待もバレますけどね」  僕は玄関の方を見た。何でそのことを知ってるんだ。お父さんも少し焦ったように声が少し震えていた。  もしかして…いや来るはずがない、あんなに怒らせてしまったのに。 「何を、言っているのかな」 「事実ですけど」  相手の男の人はお父さんにグイグイ突っかかっている。お父さんも語気が少しづつ荒くなって、隠せきれなくなっていた。このままでは相手の人が危ないかもしれない。僕はお父さんの元に向かおうとして、あの日を思い出した。  自分がいじめられなくなったあの日。  よくある校舎裏でいじめられていた。理由は多分、気に食わないとかそんなもの。  殴られるのに慣れきっていた僕は、ただ心を無にして耐えていた。汚く笑う複数の男子学生をお父さんにあてはめながら、「お父さんよりはマシかな」と耐えていた。  そんな時に、渡辺くんはただ一言、二階の教室の窓から顔を出して「おい、やめろ」って言ったんだ。男子学生はすぐにどこかに散らばっていき、僕がお礼を言おうとした時にはもう窓から顔を引っ込めていた。  僕は急いでその教室に向かって走ると、渡辺くんは制服から部活着に着替えている時だった。僕はお礼を言うと、渡辺くんは「いや、まあ、うん」とだけ返して帰ってしまった。  かっこよくて綺麗だった。助けたことなんか当たり前だ、みたいな顔で、僕ができないことを難なくこなしてしまう。仲良くなりたいって思った。あんな強い人だから、クラスどころか学年中に友達がいて、いろんな人に好かれているんだと思った。 「渡辺くん、助けて」  思わず僕はケータイを掴み取り、彼にメールを送った。 「伊藤‼︎いんのか‼︎」  少し経ってから、扉を強く叩く声がそう叫ぶ。 「渡辺く、ん」  玄関の方を僕は見た。優しい茶色のフワッとした髪が、玄関のドアとの隙間から見える。 「渡辺くん!」 「伊藤!」  ドアを閉めようとするお父さんに負けじと渡辺くんはドアをこじ開けようとする。ドアを開けきった渡辺くんはお父さんを押し退けると、荷物をリビングまでの廊下に投げ捨てて僕の元まで走ってくる。  僕は渡辺くんがきたことで安心して座り込んでしまっていたので、それを包み込むように渡辺くんは僕を抱きしめた。糸が切れたように涙が溢れる僕は、自分のセーターの袖で涙を拭う。渡辺くんは抱きしめながら、ごめんと謝り続けていた。 「おれ伊藤のこと何も知ろうとしてなかった。ごめん、伊藤。おれ、失礼なことばっか言ってたよな」 「いいんだよ、渡辺くん、僕が言わなかったのが悪いんだから」  抱きしめ合う時間もすぐに終わって、渡辺くんは靴下を脱いで玄関からゆっくり歩いてくるお父さんの前に対峙した。お父さんの顔は真っ赤だった。 「よその家庭に介入するなって言われたことないのか、このガキ」 「お前こそ子供に手を出すなって言われてねえのかよ」  渡辺くんは僕を庇うように立っていた。戦うつもりなんだろうか。僕は必死にお父さんに止めるように懇願した。でも渡辺くんは僕を安心させて、自分の背後に隠した。  お父さんは渡辺くんの腕を掴んで引き摺り出そうとするが、渡辺くんはそれを避けてお父さんをドンっと押すと、僕の手を掴んで玄関のほうに走った。  お父さんは真っ赤な顔で 「そのクソガキは置いていけ!しつけがいるんだよ!」  と怒鳴りつけながら大股でこっちに向かって歩いてきていた。渡辺くんは玄関のドアを開けて外に出る。僕だけ先に外に押し出されると、渡辺くんは玄関のドアをしっかり全部開けきった。  その途端、たくさんの警察官がお父さんを取り押さえた。キレて荒れ狂ってしまったお父さんは僕の名前を呼んでいた。怒鳴られるような呼ばれ方だけど、お父さんの口から僕の名前が出るのは、すごく久しぶりだった。  ポカンとその様子を見る僕の両肩を二人に叩かれた。少し硬った顔の渡辺くんとリサちゃんだった。二人によると、渡辺くんが僕を連れ出しその隙にリサちゃんが警察を呼んで、来るまで渡辺くんが耐えると言う作戦だったらしい。危ないことしないで、と怒ったら二人には「あんたが言うな!」と怒られた。  数人の警察官が僕や二人から話を聴こうと呼び止め、話を済ませた時にはもう夜だった。三人で一緒にファミレスにでも行ってご飯食べようか、と言うと駅の方面に並んで歩いた。  リサちゃんは僕たちに気を遣ってくれたのか、「本屋に行くから先にご飯食べてに行ってて」と言うと先に走っていってしまった。 「伊藤は、なんでリサには家のこと言ってたの?おれのこと信用できなかった?」  渡辺くんはリサちゃんがいなくなってすぐに僕に質問をしてきた。僕は首を横に振ると、「リサちゃんも同じような境遇だったから。」と言った。渡辺くんは目を見開くと、頭を抱えながら「おれマジでだめだ…」と悲しそうに言った。  僕はその様子を見ながらクスッと笑うと、どう言う意味かを聞いた。渡辺くんはリサちゃんに言われたことを話してくれた。リサちゃんが読んだ本に書いてあったらしくて、僕は何度も聞いていた言葉だった。「幸福な家庭は似ているが、不幸な家庭は様々だ」って言葉。それを理解するのって難しい。特に自分は不幸な家庭にいるって考えている人は特に。  自分の苦労や苦しみに押し潰されて、周りを考えることができなくなってしまう。それを知ることができた渡辺くんは、自分の今までの行動を恥じ、後悔しているようだったけれど、僕も自分の行いに関して渡辺くんに謝った。渡辺くんは謝る僕を見て慌てて言った。 「何で伊藤が、」 「僕だって気安くいいな、なんて言ってしまったし。だからごめんなさいって言わなきゃならないって思ったんだ。」  思ってもないことを言われたのか、渡辺くんは一瞬固まって瞬きをした。その様子がちょっとおかしくて僕は笑ってしまった。それを見た渡辺くんは緊張が切れたようで、ちょっと怒った顔をしながら「何笑ってんだよ」と僕の頭をガシガシと荒く撫でた。その後、真剣な目で 「今度からは全部おれに言って。おれ、伊藤のこと知りたいし頼られたいから。」  と僕を見つめながら言った。自分だけ知らないっていう仲間はずれが嫌だった、ってのもあるかもしれない。でも何より、渡辺くんの目は「おれが守りたい」っていう意志でいっぱいだった。 「ごめんね、渡辺くん」 「おれこそごめん。」  僕らは互いに謝るとハグをした。渡辺くんの体は少し震えていた。
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