夕凪

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(なぎ)さん、この後部屋にいます?  ブドウ山ほど貰っちゃったから二人で分けてくれって、お母さんからメッセージもらって。  了解って返事したら、冷蔵庫から適当に出して凪さんにも届けてくれって。人使いが荒い』  文末から(笑)が聞こえてきそうなメッセージ。  諒介(りょうすけ)からだ。 『このあと外出の予定はないから、待ってます』  簡単な返事を送り、目の前のローテーブルにスマホを置く。  8月下旬、土曜の夕方。一つ息を吐き、夕暮れの色に変わっていく窓の外を見る。  1週間を終えた週末は、仕事の疲れがどっと出る。しかも最近の夏の暑さは、もはや異常レベルだ。  けれど、諒介からのたった一通のメッセージは、重く溶けかかった私の意識をはっきりと冴え返らせた。  部屋を軽く片付け、黒のサマーニットと麻の生成りのロングスカートに着替える。私の気に入りの服だ。  諒介は、今から約11年前、離婚した父親に引きとられた弟だ。  私が14歳、彼が9歳の時。いつも側にあった温かい気配が消え、急にすうすうと風が吹き抜けていくような寂しさが訪れたのを覚えている。それ以来、私は母と二人暮らしだ。  大手の出版社で編集に携わる母は、いつもとんでもなく忙しい。離婚時は私も中学生で部活や塾に忙しく、高校・大学でも部活やらサークルやらで慌ただしい日々を送っていたから、それほど深刻な孤独感には悩まされずに済んだ。それでも、毎晩ひとりで母の作った簡単なおかずを温めて食べる学生時代は寂しかった。  そして、千葉県に住むらしい父と弟のことなど、ほぼ完全に記憶から消えていた。  その父が、2ヶ月前に他界した。  交通事故。即死だった。  現在二十歳、大学2年に在学中でひとり親を突然失った諒介の学費と生活費を全て持つと、母は即座に申し出た。母も仕事に忙殺されてはいるが愛情深い人だ。幼くして手放さざるをえなかった息子のことをずっと思いながらこの年月を過ごしていたのだろう。   諒介は、東京に隣接した千葉県I市のアパートに一人暮らしをしながら大学へ通っている。母のマンションへも、今私が一人暮らしをする賃貸アパートへも、出てこようと思えばすぐの場所だ。  弟と再会したのは、今からひと月半ほど前。  父の死後、私と諒介は唐突に母のマンションに呼び出された。  これからは、昔に戻って、姉弟(きょうだい)仲良くやっていってほしい。そう言って母はなんともナチュラルに私たちを引き合わせた。過去の姉弟の記憶などほとんど流れ去っているのに。  初夏の風が若葉を揺らす眩しい日だった。  11年ぶりに再会した弟を見た瞬間、私の心臓は間違いなく数秒止まった。  諒介へ返信を打って約1時間後。  部屋のインターホンが鳴った。 「こんばんはー。こんな時間に迷惑じゃなかったすか?」  無造作にブドウを詰めたらしいレジ袋を片手に下げ、長身の男がからりとした笑顔で入り口に立っていた。  あの時と、同じだ。  白いTシャツと、洗い晒したジーンズ。逞しく引き締まった体軀。  彫りの深い顔立ち。綺麗に並んだ清潔な白い歯。  少し伸びた髪を後ろで雑に束ね、顔にかかる前髪を長い指が掻き上げた。 「ええ、全然。  上がって。何のおもてなしもできないけどね」 「お姉ちゃんにおもてなししてもらう気は別にないんで」  私の後について廊下を歩く低い声が、優しい明るさを空気に広げていく。  小さなリビングに通し、クッションを勧める。 「ブドウ、ありがとね。  電車で来たよね?  麦茶も、ビールもあるけど」  私は冷蔵庫の前で彼を振り返る。 「あー。じゃビールにしよっかな! 日が沈んでもまだまだ暑いですからね、駅から歩くの思ったよりしんどかったし」 「了解。あ、ちょうどチーズと生ハムもあったなあ」 「うあー。凪さんの部屋でビールとつまみとか、考えてなかったっす!」 「……ねえ。これからも『凪さん』って呼ぶの?   なんだか相変わらず変な敬語だし。お姉ちゃんとか、姉さんとか、そういう呼び方しないの?」 「え……これじゃダメですか? 変えた方がいい?」 「——ううん。今のままがいい」 「じゃあさっきの質問必要ないじゃないですか」  彼は無邪気な笑顔で答えた。  缶ビール二本と、チーズと生ハムを乗せた皿をローテーブルに並べる。  長方形の小さなテーブル。彼と90度の位置にクッションを置いて座る。  彼を真正面から見つめるなど、あまりにも居心地が悪かった。  ロングスカートのスリットが、少し開き過ぎだろうか。内心焦りながら膝の布地をかき合わせる。 「ブドウ、冷やしとくから。後で出すね」  そう言ってビールを一口飲んだ私を、彼は頰杖をついて見つめる。 「……何? 顔になんかついてる?」 「いえ、そうじゃなくて」  諒介もビールを大きく一口呷り、その缶をテーブルに戻しながら、どこか恐々と言葉を繋いだ。 「——俺たち、以前一度会ってますよね?   去年の夏、房総の海で」 「————」  胸が震える。  彼も、私を覚えていた。 「俺、あん時大学1年で、先輩に頼まれて夏の間海の家手伝ってたんですよ。  凪さん、俺たちの店にかき氷買いに来たでしょ?」  私の中で決して消えないあの日が、彼の唇から再生される。  心臓が、ドッドッと抑えようもなく走り始めた。 「ああいうのを、まさに掃き溜めに鶴っていうんでしょうね。すんげえ綺麗な人来たもんだから、店の奴らも客の男たちもみんなざわついちゃって。ほんと男ってしょーもないですよね」 「……」  迅っていた鼓動が、まるで叱責を受けたかのように立ち竦んだ。  彼のその言い方はどこか乾いていて、寧ろどうでもいい他人事のようだった。  ざわついた男たちの中に自分は断じて含まれていない、とでも言いたいような空気を、明らかに感じる。  ——当然だ。  目の前にいる男は、実の弟なのだから。  いつものブレーキを手探りするのに、見つからない。  ビールの缶に手を伸ばし、私はその冷えた液体をぐいと喉に流し込んだ。 「あの時、はしゃいだヤロー集団にぶつかられて、凪さん、うちの店で買ったばっかのイチゴのかき氷胸元にこぼしちゃいましたよね。  綺麗な水色の水着が、赤いシロップで染まっちゃって、慌てましたよ。  ——ってか、あなたはあんな些細な出来事忘れちゃってるんでしょうけど」  缶を握る自分の指に、思わず力が篭る。  小さく笑って次の話題を探そうとするような彼の横顔に、私ははっきりと答えた。 「で、あなたが大慌てで店から走り出してきて、首にかけてた青いタオル貸してくれたのよね。『これで拭いてください』って」  彼は、一瞬虚を突かれたような顔をして私を見た。 「……え。  もしかして、覚えててくれてます? あの時のこと」  忘れたことなどなかった。  けれど、それを明け透けにここで伝えるほど馬鹿ではない。 「だって、私の中でも結構インパクトある場面だったし」  彼は急にきまりの悪そうな苦笑いを浮かべ、長い指で自分の髪をわしわしとかき乱す。 「もーほんとすんません。よく考えればああいう時って未使用のやつ貸すべきですよね。もう自分の汗やらいろいろしみちゃったタオル渡すとか、逆に気持ち悪かっただろうなあって。しかも、返したりはいいんで使ってくださいって、マジ迷惑なゴミでしかない」 「ふふ、全然。私、嬉しかったから」 「……」  思わず笑う私を見て、彼は一瞬ぶわりと頰を染めた。 「……やべ。なんかすげえこっぱずかしい空気になってませんかこれ……どうしたらいいんだこれ」 「そうね。ほんと、こっぱずかしい」  同時に、小さく笑い合う。  浅く笑いながら、私の胸は抑えようもなく波立つ。  今、一瞬染まった頰は、どういう意味なのか。  ただ話の流れで誘引された照れなのか。  それとも。 「——あの時、凪さん、彼氏さんと一緒でしたよね。イケメンの背の高い人。めっちゃ怖い顔で睨まれて、俺ら一瞬震え上がりましたよ。  凪さん、あの人に腕掴まれてグイグイ引っ張っていかれちゃいましたよね。あの後、大丈夫でした?」 「ええ。  あれから間もなく彼とは別れたけど」 「——そうですか」  あの時は、ひどく怒られた。  だから海なんて嫌だったのだと。  お前のせいで、恥をかいたと。  ベッドの上で執拗に責め立てられながら。  ずっと憧れていた会社の先輩だった。  恋が叶った時は、夢のようだった。だから、いくら彼に辛く当たられても、離れたくなかった。  けれど、あの日を境に、彼は私の中から見る間に薄らいだ。  同時に、歳下の男の飾らない温もりが、拭いようもなく心に焼きついた。 「——ったく、ガキじゃねーんだし。  ついひと月前まで赤の他人だったいい歳の男女に、急に『実の姉弟になれ』なんて言われても困りますよね」  先程の頰の紅潮を誤魔化すように、彼は軽く笑いながら缶ビールを呷る。  その姿を、私はまじまじと見つめる。  11年前の小さな男の子の朧げな面影は、どこを探しても見つからない。  白いTシャツから伸びる、健康な血管が浮き出た逞しい腕。それでいて、どこか華奢さを感じさせるしなやかな手首。形良く張った肩、ごつい黒の腕時計。  少し顎を上向けた首から綺麗な鎖骨に向けて、伸びやかな筋が浮き上がる。太陽が好きな人らしい肌の色。  ベースの低音で空気を震わす声帯を納めた喉仏が、液体を飲む毎にぐいぐいと上下する。  あの夏の日に私の目が釘付けになった男の艶やかな細部が、再び私の前に曝される。  ——もしかしたら、この横顔は、遠い記憶の中の父とよく似ているのかもしれない。  この先、私とこの男は、死ぬまで「姉」と「弟」をやっていくのだろうか。  止せと(いさ)める自分の中の呟きを踏み躙り、私は立ち上がった。  窓際の衣装タンスの引き出しを開け、その奥からあるものを取り出すと、クッションに戻りながらそれを膝の上に置いた。  彼は、私の膝に視線を投げた途端、はっとしたように息を呑んだ。 「……え……  それ……」 「そう。  あなたが貸してくれたタオル」 「……」 「だって、捨てられないでしょう?  ——忘れられないでしょう。  引き出しを開けるたびに、いつもこのネイビーブルーが目に入るのだから」    安全な場所には、多分戻れない。  私はもう、崖から一歩を踏み出してしまった。  気持ち悪い女、になっていないだろうか。  もし、彼にそう思われたならば、これで終わりだ。  どっちみち、今更兄弟仲良くなんて、できようができまいが大きな影響などないのだ。  そう。これで、終わりだ。  怖い。  彼が、どんな目で私を見ているのか。  怖くて、顔を上げられない。  沈黙が続く。  今、何秒経ったのか。それとも、もう何分にもなるのか?  彼が話を変えるか。私が空気を切り替えるか。  それすらももう手遅れな生臭い気まずさが、目の前を覆い尽くしているのだろうか? 「凪さん」  彼が、小さく私の名を呼んだ。  その声は、今までには感じさせなかった響きを湛えていた。  伏せた自分の頰が、次第に熱くなっていく。  分別ある大人の女。  そんな仮面は、結局無意味だ。  自分の名を甘く呼ばれた瞬間、どんな仮面もあっという間に粉々になってしまうのだということを、今更のように思い知らされる。  彼が静かに立ち上がる気配を感じた。  洗い晒しのジーンズから突き出したごつい裸足が、私の前へ歩み寄る。  今、どんな顔で弟を見上げたらいいのかなど、わからない。  静かに(ひざまず)いた彼の指が、私の肩にかかった髪にぎこちなく触れた。  そして、その両手がおずおずと肩を包み、腕へと降りながら私を抱き寄せる。  肌をなぞる、彼の指先の感触。  ノースリーブのサマーニットの胸元が破れるんじゃないかと思うほど、心臓が激しく波打つ。  やがて、彼の指が、私の二の腕の柔らかさを味わうように深く食い込んだ。 「——凪さん」  耳元の声が密やかに篭り、熱が混じる。  意を決したような掠れた囁きが、耳の奥へ入り込む。 「俺も、思ってた。  あの日、もしあなたの横にいたのが俺だったら。  俺だったら、あんな風にあなたの腕を掴んだりはしない。絶対に。  あなたの腕に触れるのが、あいつじゃなく、俺だったら。  掻き毟られるような悔しさを、あなたに伝えられたらいいのにって」  私は小さく頭を(もた)げ、私を包む長い腕を見つめた。 「あの時、この腕に手を伸ばせたらよかった、って。  何度もそう思い返したの。  何度も何度も。おかしくなるほど」    彼の両腕に激しい力が篭り、どさりと押し倒された。  スカートのスリットが大きく捲れ、右脚の太腿が露わになる。  恐ろしいほどの強い目が、私を見下ろす。  流される。  流されてしまえ。  このまま、どこまでも。  私は、自分を組み伏せる弟から一番美しく見える形に瞳を見開いた。
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