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私には兄がいた。そう、昨日までは兄だった。確実に。
働き過ぎで頭がおかしくなったのだろうか。元来こんな願望を持っていたとするならば、今までその片鱗すら見せなかったことは称賛に値すると思う。驚き過ぎて、1ヶ月以上一緒に食事をしていなかったのに向かい合って朝食を食べ始めてしまった。
「なに、じっと見て。」
やたら姿勢が良いのは昔から。マネキンみたいな立ち姿が、小さい頃は少し怖いと思っていた。真面目だけが取り柄だったお兄は、昔も今も機械のように日常を送る。同じ時間に起床就寝、家を出る時間も帰宅時間もほぼ一定。夕食こそそれなりにバラエティに富んでいるけれど、朝食はいつも同じホットケーキとココア。今朝もそう。私の前にもお兄の前にもホットケーキとココアが並んでいる。
「···なにって、こっちが聞きたいんだけど。」
最近は会話も減った。昔からそんなに仲が良かったわけでもない。10歳も離れた兄妹だ。そんなものなのだとずっと思っていた。
「何か変?」
平然とした顔でそう言う。その風貌でよくもそんな発言が出来るものだ。
「お兄さ、変態だったの?」
「失礼ね。どんな格好したって‘私’の自由でしょ。」
喋り方まで違う。このまま外に出たらご近所から今後どんな目で見られることか。というか仕事もこれで行くのだろうか。
朝食を済ませたお兄は先に立ち上がり、シンクへ食器を持っていく。その後ろ姿は、昨日までのお兄と全く違う。暗い色のスーツに、黒髪短髪、そしてシンプルな眼鏡。地味な紺色の靴下を履き、黒い仕事用の鞄を持つ。どこからどう見てもその辺にいくらでもいそうな普通のサラリーマンだった。でも今は、ベージュのアンクルパンツに黒のブラウス、ダークブラウンで胸付近まで伸びた髪。眼鏡はいつもと同じに見えるけれど、細く整えられた眉毛にナチュラルだけどしっかり施されたアイメイク。元々華奢な体格だったせいかまったく違和感がない。しかも腹が立つ程無駄に美人に仕上がっている。
「それで仕事行くの?」
聞きたいことは山ほどある。そのそれなりに膨らんだ胸はどうなっているのかとか、下着はどっちなんだとか、服やウィッグはどこで買ったのかとか、自分の趣味で選んだのかとか、微妙に高い声は頑張って裏声を出しているのかとか。でもそれらをなんとか飲み込んで、そう尋ねた。
「そうだけど、悪い?」
私がおかしいことを言っているかのような言い草に、もう言葉が出なかった。
そしてお兄は普段と同じように颯爽と出かけて行った。
*
帰宅したお兄は朝の姿のままだった。
「夕飯、食べるわよ。」
今朝と同じように部屋まで呼びに来たお兄の後について、また私は食卓についてしまう。本当に昨日まで、1ヶ月以上一緒に食事なんてしていなかったのに。それどころか顔すらほぼ合わせていなかった。
「今日、会社で何か言われなかった?」
恐る恐る尋ねるとお兄は黙々と食事をとりながら答える。
「綺麗とか似合うとか言われた。」
「···それだけ?キモいとかヤバいとか言われなかったの?」
「まったく。」
嘘をついているようには見えない。でもアラサーの真面目だけが取り柄のお兄が突然女装して行って、そんな寛容に受け入れてくれる職場なんて存在するのだろうか。
*
一夜明け、今日もお兄はお姉さんだ。昨日とはまた雰囲気が違う。ふんわりとしたスカートを履いて、髪を右側で緩く結んでいる。
「朝食出来たわよ。」
ノックとともに現れたお兄は、その立ち姿もちゃんと女だった。寝起きでスッピン、ジャージの私。まだ起きるつもりはなかったのに、お兄に促されて渋々ベッドから出てしまう。顔を洗って戻ると、先にお兄は座っていた。今日もホットケーキとココアだ。
「お兄さ、毎日同じ朝食で、飽きないの?」
座りながらそう尋ねると、お兄と目が合った。
「別に飽きないわ。遅刻しちゃうから食べるわよ。」
そう言ってフォークを持ったお兄は、黙々とホットケーキを口に運ぶ。まだ寝起きで頭も体も働かない。ボーッとそんなお兄の様子を見ているとあることに気づく。
「お兄さ、眉毛の太さ左右で違うよ。」
お兄の眉毛がピクリと動く。感情をあまり顔には出さないけれど、昔からこんなふうに眉毛が動いてしまう。そしておそらくお兄はその自分の癖に気付いていない。
「···ありがとう。後で直すわ。」
そう言ってまた黙々とホットケーキを口に運ぶ。よくよく見ると太さだけじゃなくて長さも違う。まぁ後で直すなら気が付くだろう。そう思って、それ以上何も言わなかった。
*
トイレから出ると、ちょうど帰宅したお兄と鉢合わせた。
「おかえり。」
「ただいま。」
手には女物のバッグと黒いエコバッグ。夕飯の買い物をして来たようだった。
「今日はハンバーグにするわね。」
そう言ってキッチンへ向かおうとするお兄の顔を見ると、朝とは太さが逆転した左右の眉毛が目に止まった。もちろん長さは直っていない。
「お兄、眉毛さ」
そう言いかけるとお兄は目を見開いて、
「もう眉毛のことはそっとしておいて。」
と言い、いそいそとキッチンへ歩いて行った。初日こそうまく出来ていたけれど、たぶんお兄はまだ化粧に慣れていない。今朝も私に指摘された後で頑張ったのだろうな、と考えたら思わず笑いがこぼれた。
*
お兄が‘お姉さん’になって3日目。私を起こしに来たお兄は、黒いパンツスーツ姿に、髪をハーフアップにしていた。
「あ、今日は眉毛上手にでき」
「顔洗っておいで。」
眉毛に関しては、本当にそっとしておいて欲しいらしい。
朝食の片付けを終えて洗面所へ行こうとすると、お兄が仕事に出掛ける所だった。黒いハイヒールを履いて、バッグを肩に掛ける。
「お兄、いってらっしゃい。」
その背中にそう声を掛けると、私の存在に気付いていなかったお兄が、少し驚いたように振り向いた。
「いってきます。」
目が合ったお兄はそう言う。その目は何か訴えているようだったけれど、それ以上言葉は続かない。私も何も言えない。
お兄が出て行った後、リビングの窓からお兄が道を歩いていく姿を眺めた。マンションの3階の部屋から見えるお兄の後ろ姿は、どう見てもお姉さん。しかも振り向いたら美人かもしれないと期待してしまうような風貌だ。そのお姉さんが、一瞬足をひねったようによろけた。私は思わず窓に額を押し付ける。体勢を立て直したお兄は、ほんの少しその足を庇うようにしながら歩き続け、角を曲がった所で見えなくなった。
*
夜、帰宅したお兄の歩き方はいつもと違う。
「足、痛いの?」
「なんともないわよ。」
お兄は平然とした顔で言う。でもやっぱり歩き方はおかしい。何故か靴箱に隠すように片付けられていたお兄のハイヒール。お兄がお風呂に入っている間にこっそり覗くと、踵の部分に薄っすら血のあとのようなものがあった。おそらく人生で初めて履いたであろうハイヒールに、お兄の足は悲鳴を上げている。でも昨日の眉毛の件といい、お兄は私に口出しされたくないのだろうとは思う。救急箱からありったけの絆創膏と湿布をテーブルの上に出して、私は自分の部屋に戻った。
*
それから2日経ち、お兄は今日も足を引きずるようにしてマンションの前の道を歩いていく。玄関では普通に歩いているお兄。私がこうやってお兄の後ろ姿を眺めていることを知らない。
*
帰宅したお兄は、すぐに靴箱に血の跡がついたハイヒールをしまう。着替えるために自分の部屋に入っていくお兄の足元に目をやると、ストッキングの内側に絆創膏が見えた。踵だけじゃない。両足の小指にも。
靴下を履いてリビングにやって来たお兄は、黙々と夕飯の準備を始める。私はソファからその姿を眺める。お兄が料理をしている姿を見るのは、とても久しぶりだった。いつも当たり前のように用意されていた食事は、お兄が毎日こうやって作ってくれていたのだな、と改めて思う。
「ねぇ、お兄。」
「ん?」
「靴さ、合ってないなら変えた方が良いよ。インソールが柔らかいのとかさ。ハイヒールじゃなくても可愛い靴あるし。」
お兄は一瞬動きを止める。
「···あぁ、うん。」
歯切れの悪い返事をして、再び料理をする手を動かす。
「明日休みでしょ?選びに行ってみたら?」
クッションを抱き締めていた手に力を込める。
「ねぇ、お兄。私にも服、選んでよ。」
お兄は再び動きを止めて、目を見開く。
「明日、隣町のショッピングモール、一緒に行こう。」
さらにぎゅっと拳に力を込める。お兄が一瞬下唇を噛むような仕草をして、いつもと同じ表情に戻る。
「分かった。」
裏声じゃない、久しぶりに聞くお兄の声だった。
*
太陽が、眩しかった。いつの間にかこんなにも夏が近付いてきていた。
お兄は、初めて女装した日と同じ格好をしていた。どんどん上手になっていく化粧。ボロボロの足は痛くてたまらないはずなのに、ハイヒールを履いて歩く姿は様になっていた。
長袖長ズボンに見を包んだ私は、お兄とは比べ物にならない程地味で化粧もしていない。久しぶりに櫛を通した髪はあまりにもボサボサで、仕方なく1つに束ねた。
おしゃれするのは好きだった。就活が始まる前に、一度髪をピンク色にしたいと思っていた。ミニスカートやショートパンツを履くのも好き。お兄が履いているのよりずっと高いハイヒールを履いて堂々と歩く自分が好きだった。
姿勢良く歩くお兄の後ろについて、駅へ向かう。お兄も私も車の免許を持っていない。待つことなく次々と電車やバスがやってくるこの街で暮らすのに車はなくても困らない。でも逆に、電車やバスに乗れなくなった時、私達はこの街の外に簡単に出ることが出来ない。そう、気付いた。
時々お兄が後ろを気にするように、ほんの少し振り返る。カツ、カツとお兄のヒールが鳴る音に、私は必死についていく。前を向いて歩くのと、下を向いて歩くのでは景色が全然違った。もう何年も、何度も通った道なのに、知らない場所へ迷い込んだみたいだった。
人が増え、地下鉄の駅の入口が見えた。最後の信号で止まり、見慣れていたはずの景色をお兄の背中越しに眺める。
たくさんの人、人、人。景色の中をびっしりと埋め尽くす人の波。鼻の奥がツンとして、全身に鳥肌が立った。
信号が青に変わった。お兄が振り返る。私の顔を見たお兄が困ったように笑う。
「今日は、もう帰ろうか?」
私は首を横に振る。そしてお兄の黒いブラウスの裾をそっと掴んだ。手を繋ぐのは恥ずかしい。お兄は何も言わずに一歩踏み出す。引っ張られるように、私の足も前へ進む。
聞き慣れたざわめきと、構内アナウンス。改札を抜け、ホームへ続く階段を下りていく。改札を通る時にお兄のブラウスから離した手は、なんとなく落ち着かないまま自分の太腿あたりを彷徨う。
下り立ったホームにはずらりと並んだたくさんの人。私が立ち止まったことに気が付いて、少し先に進んでしまったお兄が戻ってきた。
「···お兄、」
私はお兄に向かって彷徨っていた右手を伸ばした。お兄の目が、困ったように一瞬泳ぐ。分かっている。例え女装をしていたって、お兄が今の私に触れようとすることはない。
「お兄。手、繋いでて。そしたら、行ける。」
泣きそうだった。怖かった。でもここまで来たら戻れない。戻ってはいけない。私がここに来れるようになるために、お兄がどれ程頑張ったのか。私は知らないわけじゃない。
「分かった。頑張れ。」
鳴り出したアナウンスでお兄の声は聞こえない。でも、口元ははっきりとそう動いた。
骨張ったお兄の手を握って、列の最後尾から扉の開いた電車の中へ吸い込まれるように進んでいく。
乗り込んだ先にはたくさんの人。お兄に導かれるまま、私は扉の近くで足を止めた。ベルが鳴る。扉が閉まる。お兄の手を握る手に、ギュッと力を込める。
ガタン、ガタン、ガタン····ゆっくりと動き出した電車が徐々に速度を上げていく。それに伴うように、鼓動が速くなっていく。
あの日の感情は、今でもはっきりと覚えている。むしろ日に日に折り重なっていく嫌悪や恐怖で、より強いものへと変わってしまった気がする。
ーーー助けて下さい!
怖かった。
ーーー痴漢です、助けて下さい!
その声を出すのにどれ程勇気が必要だったか。
次の駅で犯人は捕まった。駅員さんに連れられて私はホームを歩いた。
ーーーあんな格好してるから
ーーー痴漢に遭うのが嫌なら、あぁいう服装しなきゃいいのに
聞こえてしまった雑音が、耳に残って消えない。
駅員さんが私を見る目も、そう言っているような気がした。その場にいた全ての人が私にそう思っているような気がして、怖くなって、うまく息が出来なかった。駅員さんも、警察官も、全ての男性が、あの痴漢の犯人に見えた。
触られた感触が、下半身から消えない。
私のせいだったの?
私の見た目が原因だったの?
なんとか笑って大学に着いて、笑い話に変えて話してしまおうと思った。
ーーー大丈夫?
ーーー痴漢とかマジ最低
心配してくれる友達。少し安心した。
別教室で講義を受けた後、研究室で一緒に昼食を食べる約束だった。講義が長引いて、私だけ約束の時間に遅れてしまった。急いで研究室に向かい、扉に手を伸ばした。
ーーーこれで服装少しは変わるんじゃない?
ーーー胸とか足とか強調し過ぎだもんね
息が、止まる。
やっぱり私が悪かったのだろうか。私がされたことは、私が招いたことだったのだろうか。
逃げるようにその場から走り去った。ハイヒールの音を鳴らし、息を切らして走り続けた。人混みの中をくぐり抜け、改札を通り、階段を下りる。ホームは朝程混んでいない。前の電車が出発したばかりだったらしく、私は次の電車に乗るため先頭に並ぶ。
足が震えてるのは、久しぶりに走ったから。心臓の音が大きく聞こえるのも、走ったから。指先が驚く程冷たいのは、冷房のせい。だから、違う。怖いからじゃない。私は、あんなことに負けたりしない。
構内アナウンスと共にベルが鳴り響く。電車の音が聞こえる。近付いてくる。音をたてて、近付いてくる。
キィー···
ゆっくりと停車した。目の前にはガラス窓。私が、ぼんやりと映っていた。
大きな胸。ミニスカート。ハイヒール。私の好きな服。私の好きな格好。
ーーー痴漢に遭うのが嫌なら、あぁいう服装しなきゃいいのに
雑音が、頭の中を反芻する。ガラスに映った私の後ろに、今朝の痴漢が見えた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ
それ以上見るのが怖くて目を閉じた。何も聞きたくなくて耳を塞いだ。足がすくんで動けない。怖い。怖くて怖くてたまらない。
ーーーあんな格好してるから
乗れなかった。電車の扉が閉まる前に、私は逃げ出した。下りてきた階段を駆け上り、地上へ出た。分厚い雲がかかった空。午後から雨になると言っていた。それでも私は電車に乗れず、途中で降り出した雨の中を2時間以上歩いて家に帰った。
履き慣れたハイヒールだったはずなのに、両足の踵は血まみれだった。小指の爪も割れかけていた。もう履かない方がいい、そんなふうに言われているみたいだった。
玄関にうずくまったままでいると、後ろで扉が開く音がした。
ーーー何やってんだ?うわ、ずぶ濡れだし足血まみれじゃん
仕事から帰ってきたお兄が驚いた声を出す。帰宅してからもう何時間も経っていた。
ーーー大丈夫か?ほら、中入るぞ
そうお兄は言って、後ろからそっと私の背中に触れた。その瞬間、全身に鳥肌が立って吐き気が襲ってきた。
ーーー嫌、触らないで!
渾身の力で、お兄の手を拒絶した。お兄がどんな顔をしていたのかは分からない。しばらくして、頭の上に降ってきた大きなバスタオルで視界が少し暗くなった。
ーーー凪(なぎ)、1つだけ答えて
優しいけれど真剣なお兄の声。
ーーー警察に行った方が良いことが起こった?
私はバスタオルを被ったまま首を横に振った。そして、自分自身を抱き締めるように腕を掴む手に力を込めた。
ーーー痴漢に遭った。もう犯人は捕まった
お兄は何も言わない。
ーーー私が、こんな格好してたから、かなぁ
震える声を絞り出すようにそう言った。
ーーーごめん、今、お兄の顔見れない。男の人が、怖い
ーーーそうか
ーーーごめん、お兄
ーーー大丈夫。少し休もう、凪
それから1ヶ月以上、私は外に出ずに過ごした。お兄と顔を合わせず、声すら聞かない。用がある時はLINEを送り合うだけ。それでもお兄は毎朝私の分のホットケーキとココアを用意して仕事に行く。昼食と夕飯も、作ってくれる。急かさず、ただ休ませてくれた。
6年前、お兄が就職してすぐの頃に両親が事故に遭って死んだ。私はまだ中学生で、お兄は今より狭いアパートで一人暮らしをしていた。お兄の職場から遠かった我が家は売りに出して、私はお兄のアパートで暮らし始めた。
10歳離れたお兄は、いつもどこか遠い存在で少し怖かった。だから私は気付かなかった。お兄がどれほど私を大切にしてくれていたのか。
毎朝作ってくれるホットケーキとココアは、まだ家族4人で暮らしていた頃の私の大好物だった。
帰りがいつも同じ時間なのは、遅くなることで私を不安にさせないため。買い物に寄って帰ってくる日でさえ同じ時間に帰宅出来るのは、その分早く仕事を終わらせているから。そして深夜、寝に行ったように見せかけて自分の部屋でお兄は仕事をしている。
特に会話はなくても、お兄は一緒にご飯を食べてくれていた。すべて私に合わせて、私が寂しい思いをせずにいられるように。
私はそれらに対して一度もありがとうを
言わず、ずっとお兄の優しさに甘え続けた。今だって、外に出ずにこの甘いシェルターの中にいればこれ以上傷付くことはない。
でも、お兄とすら顔を合わせられない生活を続けていくわけにはいかない。そう思っていた時、お兄は女装をして私の前に現れた。‘男の人が怖い’と言った私のために。ふざけてそういうことをするタイプの人じゃない。ただ、ただ、私を外の世界へ導くために、お兄は女装をし続けた。
目的地の駅につき、電車がゆっくり停車した。お兄と手を繋いだまま、人の波の中を流されるようにしばらく進んだ。人が疎らになったベンチのすぐそばまで来た時、足から力が抜けていくのが分かった。
「凪?」
振り返ったお兄が優しく呼ぶ。その声を聞いたら、その顔を見たら、張り詰めていた緊張の糸がプツンと音をたてて切れてしまった。
「凪?!」
お兄の顔を見たまま、ボロボロと涙をこぼす。慌てた様子のお兄は、ただ困ったように私に向き合うだけ。
「お兄。私、外、出れたよ。電車、乗れたよ。」
泣きながらそう言うと、お兄は黙って、大きく深く一度だけ頷いた。
「お兄、ごめんね。いろいろ、今まで、全部ごめんね。」
私がいたせいで、お兄が失ってしまったものはきっと数え切れない。
「もう、大丈夫。だから元のお兄に戻っても良いよ。」
握ったままの手に、お兄がぎゅっと力を込める。私はその手を強く握り返した。本当はまだ怖い。でも、きっと進んでいける。それは、今電車に乗ることが出来たからではない。お兄が、絶対に味方でいてくれるという確信があるからだ。
「ありがとう、お兄。」
お兄が笑う。悔しいけれど美人だった。たぶんフルメイクで挑んでも勝てないだろう。
「頑張ったな、凪。」
その風貌に似合わない口調と声。たった一週間女装していただけなのに、本来のお兄の声に違和感を感じてしまう自分がおかしくて、泣きながら笑った。
ショッピングモールへ向かいながらふと思う。
「お兄さ、もう女装やめるなら靴探す必要ないんじゃないの?」
お兄は目を丸くする。
「私、女装やめるなんて言った?」
再び口調を女装版にしたお兄の発言に、私も目を丸くする。
「え、やめないの?」
困惑する私を見てお兄は笑う。
「やり始めたら楽しくて。評判も良いし、しばらくこのままでいるわ。」
にっこりと笑ったお兄は、颯爽と歩き出す。
「冗談だよね?!」
私は慌ててその綺麗な後ろ姿を追い掛けた。
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