2話 冬のハエトリグモ

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「こーたさん……?」 ミスジがじわりと俺の胸から離れる。 「……ごめんなさい……。ぼく、また浮かれてしまって……」 ミスジは項垂れると、黒い瞳を伏せて続けた。 「こーたさん、は、お嫌でした……よ、ね……」 俺の背に回されていた白い手が、ミスジの顔を覆う。 泣いてるのか……? 「いっ、嫌とかそんなんじゃない」 思わず口から出た言葉に、ミスジがチラと指の間から俺を覗く。 なんだ? 嘘泣きかよ。 ぽた。とこぼれた雫は、自分の頬を伝った物だった。 ああ、俺そういや泣いてたわ。 ……ほんと、かっこ悪いよな……。 俺は握ったままだったタオルの袋を開けて、中のタオルで顔を拭く。 タオルはちょうど良い温度で、じんわりと俺を落ち着かせてくれた。 俺は顔にタオルを押し当てたまま口を開いた。 「ミスジ、お前に話がある」 「はっ、はい。なんでしょ……ぅ……」 不意に揺れて滲んだ言葉尻。 見れば、ミスジはポロポロと涙を零していた。 「ご、っごめんなさ、ぃ。ぼく……。……ぅ……っ……」 「お、おい。別に俺は叱ろうとかそんなんじゃ……」 「ぅ……ぼく……こーたさん、に、嫌われ……っ……」 俺の膝の上で、ミスジは身を縮めて肩を震わせて泣いている。 俺に嫌われたと思って。 こんなの、抱き寄せるしかないだろ。 「落ち着けって。俺はお前を嫌ったりしてないから」 片腕で胸元に抱き寄せて、もう片方の手で顔を拭いてやる。 今俺が使ったばかりのタオルだが、まあ文句を言うような奴じゃないだろ。 「ほ……、ほ、ほんとですか……?」 「本当だよ。嫌いどころか――……」 っと、何を言うつもりだ自分は。待て待て。順序が違うだろ。 「どころか……?」 「その前に教えてくれ。ミスジは、本当に俺の事が好きなのか?」 「は、はいっ」 オレンジの頭がぴょこんと頷く。 「それは、俺のことを命の恩人だと思ってるからじゃないのか?」 「……?」 「だから……、もし、お前を助けたのが俺じゃなかったら……。お前は……」 「ぼくを助けてくれたのは、こーたさんです」 「それはそ……」 「こーたさんじゃなければ、ぼくはあの時に死んでいました」 真剣に俺を見つめる黒い瞳。その目尻にはまだ涙が滲んでいる。 「いや、それは、水のかかり方次第で、生きてたかも知れな……」 「っ! こーたさんは、どうしていつもそんな風に仰るんですか……?」 「……それは……」 それは俺が……、俺が、お前との関係を変えたくなくて。……勇気が出ないまま。お前と一緒の時間を、ただ引き伸ばそうとしてるんだろうな……。 「はっきり仰ってくださいっ。こーたさんは、ぼくの気持ちがご迷惑ですか?」 「い、いや、そんなことは無いけど……」 「けど……?」 「えーと……」 ……ん? なんか俺の方が問い詰められてないか? 「こーたさんは、ぼくの事嫌いじゃないって仰いましたよね?」 「あ、ああ……」 じり、とミスジが俺の胸元から顔へと迫る。 「最初の日、ちょっとは好きだって言ってくださいましたよね?」 「ぇ、あ、ああ……」 ミスジの細い腕が、俺の両肩から後頭部へと回される。 「今は、あの時より、もっと好きになってもらえましたか……?」 「ちょっ、近い近い近いっ!!」 「ぼくはもっと……こーたさんに近付きたいんです……」 か、顔に、息が、かかってるんだがっ!? 「……ぼくとひとつになってください」 「……っ!?」 耳元で囁かれた甘い声に、ぞくりと肌が粟立つ。 「こーたさんが欲しいんです……」 初めて感じる、ぬるりと温かな感触。 「ぅぁっ」 思わず肩を揺らしてから、耳たぶを舐められたのだと遅れて理解する。 「ちょ、待て、ミスジ……!?」 「ぼくはもう、沢山待ちましたよ?」 ぅ。そ、そうだよな……。 もうミスジと過ごすようになって二か月近い。 一年で死ぬかも知れないような生き物にとって、それはものすごく長い時間だったのだろう。 「こーたさん……ぼくに、許していただけますか……?」 眼前に迫る黒い瞳に請われて、俺は思わず頷く。 途端、ぱあっと音がしそうなほどにミスジが破顔した。 ああ、やっぱりこいつの笑った顔は本当に可愛い。 「こーたさんっ。嬉しいですっ!」 ちゅっ。と音を立てて、唇に何か柔らかいものが触れて離れる。 ……ん? 今のってもしかして、俺のファーストなんたらとかそういう……。 「ぼく、こーたさんをいっぱい気持ちよくしますねっ」 ふわりと微笑むミスジの眼鏡が、コンロから届く僅かな明かりで怪しく輝いた。 ……ちょっと待て? 今から、何をどうするって……? ミスジの両腕に頭を優しく引き寄せられる。 もう一度唇に触れてきたそれは、今度は簡単には離れなかった。
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