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2話 冬のハエトリグモ
「ただいまー」
と口にしながら玄関ドアに鍵をかける。
一人暮らしをするようになってからは久々だな、なんて感じてた挨拶もそろそろ馴染んできた。
トトト、と軽い足音が駆け寄ってくる。
靴を揃えて振り返れば、明るいオレンジ色の髪が目の前にあった。
「こーたさんっ、お帰りなさい♪♪」
なんだか主人を出迎える犬みたいだな。
黒縁眼鏡の奥から俺を慕う艶々した瞳。
もしこいつに尻尾が生えてたらブンブン千切れんばかりに振ってるだろうな。なんて思いながら、その頭をもふもふと撫でる。
「おう、ただいま。いい子にしてたか?」
青年は嬉しそうに目を細めながら答えた。
「はい。いい子にしてました」
なんつー受け答えだよ。お前は小学生か。と思いながらも、その素直な言葉が実に可愛いと思ってしまうなんて、俺ももうダメかも知れない。
「なんかいい匂いするな」
「あ、こーたさんが美味しいって言ってくれたビーフシチュー、また作ってみました。今度はちょっとレシピを変えてみたんです」
部屋に入れば床に一つきりの折り畳みローテーブルには、二人分の食事の準備がされていた。
あー……。やっぱいいよな。
家に帰ると誰かが待ってて、ご飯が用意されてるって。最高だよ。
これが男じゃなくて……いや、せめて人間ならもっと良かったんだけどな。
上着をかけながらチラリと見れば、居候の青年は俺に撫でられた後の頭を嬉しそうに両手で撫でながらにこにこしている。
「えへへ……」
そうかそうか。俺に撫でられたのがそんなに嬉しいか。
男二人で1Kに暮らす生活は、思っていたほど悪くは無かった。
……いや、正直に言おう。
良い。
……かなり良い。
うっかりすると『もう男でも蜘蛛でもいいか』という気になってしまいそうだ。
これは人としてまずい。それはわかっているんだが、毎日が楽しい。
青年は、はじめこそ慣れない火に怯えてコンロの扱いに悪戦苦闘していたが、一週間もする頃には火をそこまで過剰には怖がらなくなり、今では俺のために料理を作って待っていてくれるほどになった。
まだやっぱり怖いものは怖いようだが、それでも俺のためにと頑張っている姿が健気で、こう、胸にグッとくるモノがある。
『こんなに頑張ってくれてるんだし、たとえ炭が出てきても食べよう』と決意していた俺を良い意味で裏切り、こいつの作る料理は美味かった。
こいつの素直で真面目な性格からレシピに忠実に作っている事にプラスして、どうやら神様の自動翻訳機能が「少々」とか「パラパラと」なんていう曖昧な量の表現や焼き加減の記述をこいつに正確に伝えているらしい。
掃除機はまだ使えなかったが拭き掃除で掃除機以上に部屋はピカピカだし、洗濯機もようやく回せるようになった。
箸も難しいようだが、スプーンとフォークで懸命に食べる姿も可愛い。
こんなに毎日俺のためにと頑張る姿に、絆されるなと言う方が無理だろう。
一緒に生活する事になってようやく名を尋ねてみれば、この青年には名前がなかった。
まあ蜘蛛の一匹ずつに名前がついてる方がおかしいか。
いやおかしいと言うならこの現実の方がよっぽどおかしいんだけどな。
「呼び名が必要でしたら、こーたさんがお好きに呼んでください」
と言われて、俺は悩んだ。
だって実家にいる犬はラブラドールで名前がラブだぞ。
何を隠そう俺が名付けた。
となると名付けにあたって、まずはこいつの蜘蛛としての種類が知りたい。
聞いてみれば、こいつはやっぱり俺が声をかけてたハエトリグモらしい。パソコンで人の家によく出る蜘蛛の写真一覧を見せると「あ。ぼくはこれです」とそのうちの一匹をすんなり指差した。
「へぇ、お前ミスジハエトリグモって言うのか」
「そうみたいですね」
「ああ、確かにお前の頭こんな色してるよな」
「そうなんですか?」
「ほらそこの鏡で見てみろよ」
姿見の前に立たせてヒゲ抜き用の手鏡を持たせれば、後ろを見ようと悪戦苦闘している様子がまた可愛い。
「ミスジハエトリグモか……。じゃあとりあえず、うちにいる間はミスジって呼ばせてもらうかな」
俺の言葉に、青年は弾けんばかりの笑顔で「はいっ」と振り返った。
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