2話 冬のハエトリグモ

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トイレから出て来れば、食器を洗うミスジが楽しそうに歌を歌っていた。 「♪ぼぉーくはミッスジー、ハエトリぃーグモーぉ♪ こーたさんにもーらぁった、なっまえーですーぅ♪」 何だその歌詞は。 俺に名前をつけられたのがまだそんなに嬉しいのか。 ドアノブに手をかけて、引っ込める。 ……もしかして、これって、俺に聞かれてないと思って歌ってんじゃないか? 今までのミスジの行動を振り返ってみても、俺の前で堂々と歌っているような姿は見た事がなかった。 そういや洗濯物を畳みながら鼻歌を歌いかけて、俺に気付いてやめたことならあったな……。 1Kの部屋にひとつきりの、玄関と風呂とトイレのある廊下と部屋を仕切っているドアの手前で悩んでいるうちに水音が止む。 「あれ? こーたさんまだトイレなのかな……?」 よし、今だ。 俺は極力いつもと変わらぬようにドアを開けた。 「あ、こーたさんっ。お帰りなさいー」 「おう、ただいま……って、トイレから戻っただけでこの挨拶必要か?」 「ふふっ。ぼく、こーたさんにおかえりなさいって言うの大好きなんです」 くそう、なんだそれは。 また可愛い顔して可愛いことを言いよってからに。 「あと何回言えるかなぁ……」 そう呟いてミスジが俯く。黒目がちな瞳に憂いの色が混じって、俺は内心焦った。 「な、何回でも言えばいいだろ?」 「そうですね……。何回でも言えたらいいですよね」 時々、ミスジはこんな風に俺と一緒の時間を惜しむ様子を見せる。 あまり考えたくはなかったが、やはり神様とやらの力を借りていられる時間には限度があるんだろうな……。 こいつが人間の姿になっていられる期間は後どれほどなんだろうか。 昔話だとか地域の伝承だとかを検索してみれば、助けた動物やらが恩返しにくる話はそれこそ山のようにあった。 どうやら俺が今まで知らなかっただけで、世の中ではわりとあることらしい。 その中では、恩返しにきた動物が帰る描写も多い。 『ずっと幸せに暮らしました』なんて話も無くは無いが、それは極々稀だった。 そうだよな……。 いつまでもこんな、夢みたいな生活が続くわけないんだよな……。 訪問販売で買ったばかりの商品が良い品だと思っていられる時間が有限なのと同じ事なんだろうか。そのうちハッと気付くんだ。……自分が騙されていた事に。 「それにしても、お湯ってあったかいですね〜」 のほほんとしたミスジの言葉に視線を向ければ、お湯で洗った食器を拭きながらにこにこしていた。 水の冷たさに震えていたミスジに、最初に教えたのが電気給湯器の使い方だ。 まあ、スイッチを一つ押すだけなんだけどな。 「お湯があれば、ぼく、冬を越せそうな気がします」 …………ん? 「まさか……ハエトリグモって、冬を越さないもんなのか!?」 「そうですね。暮らしている環境にも依りますが、冬に力尽きる個体は少なくないです」 俺の疑問に、ミスジはあっさり頷いた。 「だからぼく、冬が来る前にこーたさんに恩返しをしたいと思って、神様にお願いに行ったんです……」 冬……。 勢いよく壁に貼られたカレンダーを振り返る。 今日は十一月の二週目の金曜。ミスジが来たのは十月の後半。もう三週間も経っている。 冬には死ぬかもなんて、そんなの……。 もう世間は今月に入ってからクリスマス準備ムードになりつつあるってのに。 感覚的には既に『冬』に片足突っ込んでるだろ!? 「……こーたさん……?」 カレンダーを睨んだままの俺に、ミスジが心配そうに声をかける。 「――っ、何で、そんな大事なこと早く言わないんだよ!」 苛立ちから荒げてしまった俺の声に、ミスジはびくりと身をすくめた。 俺を真っ直ぐ見つめる黒い瞳。 違うだろ。別にミスジのせいじゃない。 俺が……、その可能性には気付いてたのに、確認しないでいただけだ。 急に怒鳴ってしまった事を謝ろうと口を開きかけた俺の足元に、ポツリと呟きが落ちた。
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