2話 冬のハエトリグモ

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靴を脱ぎ捨てて部屋に駆け込む。 廊下と部屋を仕切る戸を開けても、肌に触れる室温に大差はなかった。 その事実に愕然としながら暗い室内にオレンジ頭を探す。 二時間足らずで、こんなに冷え切ってしまったなんて。 いや、俺が気付かなかっただけでこの家はバイト先より先に停電していた可能性だってある。 ベッドにミスジの姿は無い。ベッドの上にあったはずの布団もない。 どこだ。まさか部屋を出た……? いや、外の方がもっと寒いはずだ。 けれどトイレにも風呂場にもミスジの姿はない。 キッチンと部屋には区切りもなく、見渡してしまえば、もうそれきりだった。 ……まさか……力尽きてしまって、人の姿でなくなってしまったのか……。 ガクンと膝から崩れて、部屋にへたり込む。 ああ、何度も転んだからか、ズボンも服もべしょべしょだ。 ダメだ。ミスジが毎日綺麗に掃除してくれた部屋が……汚れてしまう……。 手足はまだ冷たく重く。体のあちこちが痛んでいた。 それでも、重い体を引き摺るようにしてゆっくり立ち上がる。 頭が、考えることを全て拒否しているかのように、何もかもが空っぽだった。 俺は何も考えられないまま、ただ、濡れた服を着替えようとクローゼットを開けた。 クローゼットの中には、布団がぎゅうぎゅうに詰まっていた。 暗闇の中、白い布団だけがぼんやりと光っているようだ。 布団の奥が小さく動いたように見えて、ハッとする。 そうだ。冬籠もりをする蜘蛛達はこんな風に狭い場所で白い糸に包まれるようにしていた。 「ミスジ!? ここにいるのか!?」 布団を剥がせばここに篭った僅かな温度も失われてしまうだろうか。 自分の手は冷え切っていて、こんな手を布団に突っ込むのも躊躇われる。 「ミスジ!!」 余裕の無い俺の声に、布団の奥がもぞりと動いた。 「こー……た、さん……」 生きてた!! まだ、この布団の中にあいつがいる!! 「ぼく……家にいたんです、けど……寒くなっ……」 途切れ途切れの声は、耳を澄ましても聞き取るのがやっとだ。 「ごめん! こんな状況を俺が想定してなかったから……っ、停電で電気が途絶えて、暖房機器が使えなくなったんだ!!」 「恩返し……できなくて、ごめ、なさ……」 掠れた声が俺に謝る。 お前が謝る事なんて何一つ無い! 悪いのは、お前を引き止めて、こんな部屋にずっと閉じ込めていた俺だ!! 「おい! 諦めるな!! 今温めてやるから!!!」 布団の奥から、黒い瞳がひとつだけ覗いた。 死にそうなのはお前なのに。俺をじっと見つめる瞳はまるで俺を励ますようだった。 「……ぼ……く……。こーた、さん、に……会えて、よかっ……」 ふ。と瞼が下りて、黒い瞳が隠される。 「おい!! ミスジ!! ミスジっっ!?」 それきり、ミスジは沈黙した。 震える手を伸ばしかけて、引っ込める。 こんな冷たい手じゃダメだ。 何かミスジを温める方法……っ。 そうだ! ガスなら使えるんじゃないか!? スマホの明かりを頼りに手探りでコンロの点火スイッチを回す。 カチチチという音の後で、炎の粒が踊りながら円を描いた。 二口だけのコンロに、水を張った鍋とフライパンをかける。 給湯器も電気式だったのでお湯は出なかった。 こんな事なら電気ポットくらい買っておけばよかった。 そうすりゃお湯だけはしばらく残ったはずなのに……。 火力を最大にして、蓋をした鍋とフライパンを睨みつけながら、俺は後悔を繰り返す。 なんで俺はこんなに気が回らないんだ! 帰りにコンビニでカイロでも買って来ればよかったのに!! 温かい飲み物が買えたかも知れないのに!! この水がお湯になるまでに……ミスジが死んでしまったら……。 そう思ってしまうたび、居てもたってもいられなくなる。 何か……何か他にできることはないのか……。 焦りにじわりと滲んだ額の汗を拭う。 ミスジは冷え切っているのに、俺はこんなにカッカとして……。 ……そうだ。俺だ。 手足こそ冷えているが、ここまでずっと歩いてきて、体はぽかぽかしている。 この部屋で、今一番温かいのは俺の体だ。 フライパンであたたまり始めていた水に手を突っ込む。まだぬるいが、俺の手を温めるくらいは出来る。 汗ばんだ服を脱ぎ捨てて、体をタオルで拭き上げる。 俺の汗で気化熱なんて起こせば逆効果だ。 「ミスジ、触れるぞ」 布団の塊の前でひとこと断る。 返事はやはり無い。 閉じた瞼に触れれば、それは驚くほど冷たかった。 「ミスジっ!」 布団の中に飛び込むようにして、ミスジの体を掻き抱く。 精一杯厚着をしたのか、俺の服まで何枚も着て。 それでもミスジの体は冷え切っていた。
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