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3 崑崙山への道
崑崙山には村の伝説によれば、仙人が住んでいるという。
村から少なくとも40里はあるとされているのに、どこからでも天を衝く威容が眺められる超弩級の山岳だ。標高は2万尺とも3万尺に達するともいわれ、当然頂に到達した者はいない。
啓一郎は着のみ着のままで出発した。もとより生きて帰るつもりはなかった。村人たちは心臓が動いていないため、村からは生涯にわたって出られない。よその地域では物理現象と彼らの主観時間が齟齬をきたすからだ。
しかし啓一郎はちがう。村にとどまっている必要はないのだ。それを幸運であると思うことにした。
崑崙山のふもとまでは、100里はゆうに超えていた。
彼は畑から失敬してきた食糧を3日で食べ尽くしてしまった。水は街道の横手を流れる沢からいくらでも手に入ったけれど、育ち盛りの身空で飯抜きは堪える。
足元もおぼつかない彼を助け起こしてくれたのは、雪乃と名乗る年若い女子であった。彼女は街道に隣接して営業する旅籠の雑用係で、たまたま打ち水をしているところに通りかかった啓一郎を認めたのであった。
「ちょっとアンタ、大丈夫?」
啓一郎は目を瞬いた。彼は音声言語を習得できずじまいだったのだ。筆を取り出し、手の甲に〈腹減った〉と認める。たったこれだけのやり取りで、彼女は事情を察してしまった。
「驚いた。アンタ那智村の出身なの?」雪乃は少年の胸に耳を寄せた。「……なるほど、心臓が動いてるから追い出されたのね」
啓一郎はわけもわからず、〈腹減った〉をくり返すばかりであった。
「どこいくつもりか知らないけど、今日はウチに泊まっていきな」
啓一郎は結果的に、1年間旅籠で働くことになった。旅には路銀が必要であり、それは汗水流して手に入れるものだと教えられたからだった。
持ち前の献身的な性格が幸いし、言葉を話せない点はさほど問題にされなかった。それどころか遅まきながらではあるが、彼は旅籠の人びとと交流するうちにみるみる言語を習得していった。働き始めて1か月が経つころには、なに不自由なく言葉を操るまでになっていた。
「今日で旅籠を辞める?」雪乃は目を見開いた。「なんでまた」
「俺は崑崙山に登るって決めてたやんか。路銀も貯まった。明日には発つつもりなんやて」
「女将が啓一郎はよく働くいい子だって褒めてたけど」
「みんなにはでらお世話になった」
雪乃はため息をついた。「なんで崑崙にいきたいの」
「俺は那智村の出身やん。那智村で心臓の動く鬼の子として生まれたことには、なんか意味があると思っとる」
「そんなのないって」
彼の決意は固かった。「雪乃、でら感謝しとる」
「あ、そ。好きにしたら」
翌日の朝、雪乃は枕元に千鳥格子の小さな箱が置いてあるのに気づいた。寝ぼけ眼のまま、そっと開けてみる。きめ細やかな細工の、美しい紅色のかんざしが入っていた。箱の底には紙切れが敷いてあり、なにやら文字が書いてある。
〈雪乃へ 啓一郎より〉
彼女はかんざしを優しく握り、そっと胸に押し当てた。目には涙が光っていた。
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