4 崑崙山への登攀

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4 崑崙山への登攀

 崑崙山の登山口には、見上げるばかりの巨大な鳥居が鎮座ましましていた。 「もし、旅の人」鳥居を支える主柱のそばには宮司が影のように控えていた。「崑崙山を登るおつもりか?」 「そうや」 「山頂に到達した者は誰もおらん。それでもいくのか?」 「いく」  宮司は無言でお辞儀をした。啓一郎は鳥居をまたぎ、崑崙山へと踏み込んだ。  旅は熾烈を極めた。  草鞋(わらじ)は何度も切れ、いけどもいけども終わりは見えず、食料はすぐに底を尽きた。水だけは困らなかった。岩がちな尾根から少し山腹を巻けばいつでも、透き通った水の流れる沢があったからだ。  標高1万尺に達したところで、啓一郎は山小屋があるのに気づいた。建物は高級なヒノキで組まれており、新築同様であった。  なぜこんなところに立派な山小屋があるのか不思議に思いながら扉を開けてみる。内部は整然と片づいており、囲炉裏にはいままさに誰かがいたかのように、ぐつぐつと煮えている鍋がかけられていた。 「誰かおるかあ?」啓一郎は声を張り上げた。「邪魔するぞ」  誰もいないようであった。彼はありがたく鍋をいただき、おあつらえ向きに敷いてあった布団に潜り込んだ。  小屋には運びきれないほどの食糧が備蓄されていたので、当面はこれで凌げそうだった。頭陀袋に詰め込めるだけ詰め込み、少年は小屋をあとにした。  標高2万尺までの道のりは、ひたすら氷河を辿る道であった。差し渡し1里はあろうかと思うような巨大な沢を一面氷河が覆っており、それがはるか上でひとつの点に収斂している。  啓一郎は草鞋を脱いで、小屋にあったかんじきに履き替えた。単調な登りではあるものの、転倒すれば千尺下の氷河下端まで一直線である。雑な動作は禁物だ。  やがて日没を迎えるも、傾斜の厳しい氷河の上で寝るわけにもいかず、彼は随所で休みながら夜通し歩き続けた。  夜が明け、つるべ落としのように陽が沈んでいった。啓一郎はその間ずっと歩き続けた。休憩できる場所にいずれはたどり着くはずだ。それがいまこの場でないことだけは確かだった。  不眠不休の氷河越えが始まって3日めの朝、彼はついに平坦な場所へ乗り越した。朝陽にけぶる靄のなか、またもやヒノキ造りの立派な山小屋が姿を現した。2万尺地点に着いたのだ。  少年は四の五の考えることは後にとっておくことにした。なかへ転がり込むと、ぐつぐつと煮えている餅鍋をぺろりと平らげ、敷いてあった布団に潜り込んだ。彼はまる48時間、一度も目を覚まさなかった。  ここから上が容易ならざる道のりなのは、火を見るより明らかであった。  2万尺より上は切り立った崖になっており、その斜度は平均で65度はありそうだった。さらにこの大岩壁は見上げる限り上空まで続いており、晴れ渡った碧空に吸い込まれている。この難所が何尺あるのかすらわからない。  啓一郎は荷物をすべて捨て、壁に取りかかった。食糧が必要ないことは直感的にわかっていた。あたりを漂う靄が栄養分になるはずだ。なにせ崑崙山には仙人が住むのだから、霞が食べられないはずはない。  彼は一手ずつ着実に、歩を進めていった。一度でもミスをすれば、死は免れないだろう。が、不思議と恐怖心はなかった。山頂に彼が拍動者として生まれた理由がある。そんな気がするのだった。  崑崙山は蓮っ葉な女子のようであった。区切りごとに山小屋を用意しているかと思えば、フリーソロで岩壁をよじ登らせたりする。天候も荒れに荒れた。しょっちゅう雹が降り、暴風が吹き荒れ、啓一郎は目をつむって壁にしがみついて凌いだものだった。  もはや身体を横たえて眠れるような場所はどこにもなかった。2尺ほどのでっぱりを見つけては腰かけ、身体を休めることくらいが関の山であった。眠ることは許されなかった。腰かけた状態で目を閉じれば、身じろぎして真っ逆さまに落ちることはわかり切っていた。  不眠不休で壁を登り続けて5日め、彼はついに音を上げた。もうこれ以上眠らずにいるのは無理だ。岩にしがみついたまま、うつらうつらと舟を漕ぐ。右手から力が抜けそうになるたび、一時的に目を覚ましてホールドするものの、あくまで一時的にすぎなかった。もう限界だった。  脳裏に雪乃の顔がちらついた。自分を助けてくれた母の顔も。俺はなんで崑崙を目指したんや? 俺がいきたい言うたからやんか。えか、啓一郎、しゃんとせえ!  貼りつこうとする瞼を無理やりこじ開け、充血した目で彼は登攀を再開した。心臓はかつてないほどに脈打っている。鬼の子の心臓がだ。主観時間はさらに加速し、周りの動きがほとんど止まった。厄介な暴風も、雹も止まった。  啓一郎は持てる力のすべてを傾注し、一気に岩壁をよじ登った。体力を使い果たしてもなお山頂に着かなければ、そのときは諦めよう。そのまま落ちて死ねばよい。  心臓の拍動が弱まって時間がもとに戻りかけたそのとき、啓一郎はこれ以上掴むべき岩がないのを知った。両手を岩の縁に引っかけ、渾身の力を込めて身体を引き上げる。  崑崙山の山頂に着いたのだ。
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