こころの哲学

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 それがまさか、よりにもよって彼女を好きになるなんて。  優しくて、明るくて、可愛らしくて。  でも、私は女で、あの人も女の人で。    違う。    私の好意は純粋なもので、間違っても恋なんかじゃないと、脳みそに必死に言い聞かせた。    脳みそはそれで一時大人しくなった。  しかし、心臓は止めようがなかった。    純粋に私を好いてくれている彼女にこんな感情を抱いているなんてと、自分が嫌で仕方なかった。    彼女に一度、それを勘ぐられたことがあった。  二人で遊びに行って、少し公園のベンチで休んでいた時のこと。 「……何か、私に隠し事をしてはいませんか?」  彼女はタピオカミルクティーを飲みながら、気軽な雰囲気で聞いてきた。 「し、してません……」  動揺が伝わったらしく、彼女は笑って言う。 「ふふ、隠し事が下手ですね。……知っていますか? 口の硬い人というのは、言葉を忘れたり思い出したりする操作がすごく上手なのです。あなたは不器用ですから、あまり隠し事を作らないようにした方がよろしいでしょうね」  いつの間にかタピオカミルクティーを飲み切っていたことにふと気づきながら、彼女は続けた。 「言いたくないなら、詮索はしませんけどね」    私は非常に肝を冷やしたのち、その一言で非常に安堵した。  なんだか翻弄されているようでむず痒かった。    それから幾月か経った後、料理を教えてもらいに、彼女の家に行くことになった。  それで、久しぶりに刃物を近くに見た。彼女と出会ってからは自傷行為どころではなく、料理もしなかったから、ギラりと光る包丁の魔力に懐かしさを覚えた。  隣り合って作業していると、心臓がうるさかった。  だから、彼女が切らしていた調味料を買いに行った隙に、そっと包丁を胸に向けた。  ……この心臓さえ取り除けば、私は楽になれる。  でも、彼女はそれを望まないだろう。家の中で人が死んでいたら、誰だって嫌だろうし。  ——でも、  これは、恋なんかしてしまった私への罰だし、もしこの気持ちを打ち明けたら、彼女は家に死体があったとき以上に不快感を覚えるかもしれない。  そうだ。  死のう。  いや、先に彼女に殺人罪がかからないよう、遺書を書く必要があるだろうか。    胸に刃を向けたまま迷っているうちに、誰かが私のその腕を掴んだ。    背後に立って止めたのは、彼女だった。  どうやら私は無自覚のうちに随分長いこと考えていたらしい。もう帰ってきたなんて。 「——何してるんですか……?」  不安げで悲しげな表情。途端に罪悪感が湧く。 「ご、ごめんなさい。……あ、あの、これは別に、死のうとしたとかじゃ——」  彼女は私の目元を掬った。  いつの間にか涙が溢れていた。  彼女は言った。 「言葉が液体になったものを、人は涙と呼ぶのです。  言葉を呑み込み過ぎると、人間の体内で液体となり、やがて目から溢れ出すのですよ。  ——もし、あなたがどうしても話したくないなら、その代わりに泣けるだけ泣いてください。私は傍にいますから」  私の頭は言葉でいっぱいになって、ただ涙するばかりだった。    お見苦しところを彼女に晒した後、妙に安心した心地がして、気づいたら言っていた。 「……私、あなたのことが好きなんです」 「それは、どういう意味で?」  彼女は優しい声でそっと聞いた。私は答える。 「——恋を、しているんです。……あなたに。ずっと認めたくなかったのですが。……ごめんなさい」  私は俯いていた。顔を見れなかった。  彼女は少し間を開けてから、私の肩にそっと手を置いた。 「どうか謝らないでください。恋情というのは、人間にとって最も抑えがたい感情なのですから」 「でも。ずっと友達として一緒に居たのに……」 「そんなことは関係ありませんよ。私も、勝手にあなたに友人としての感情を向けていた。なんら変わりはありません」 「……でも、でも——」  こんな私を、彼女は黙って抱き締めた。 「私はまだ、あなたと同じ意味で好きになることはできません。……ですが、きっといつかそう思える日が来ますよ。あなたはとても優しくて、一緒に居ると安心できる。……間違ってもこれしきのことで離れたいとは思いません」  私はまた、涙を止められなかった。  嬉しくて、安心して、でもまだ少し申し訳なくて。言葉が溢れて何も言えなかった。      ——数年後の春。  私と彼女は花見に来ていた。  暖かい風と、揺れる薄桃色の花弁。透き通った空に浮かぶ雲はいっそう白く、悠々としていた。  レジャーシートの上で彼女の手料理をいただく。私も少し手伝ったが、卵焼きの味は微妙だった。……食べられる水準に達したのだからまあ成長はしたのだろうが。  それと言うのに彼女はびっくりするほど美味しそうに私作の卵焼きを頬張った。 「……まずいでしょう?」  私は聞いた。 「いいえ、まずくなどありませんよ。あなたの作った料理ですから」  私は存外にその言葉が嬉しくて、少し照れた。それを隠そうと、彼女の料理を口にする。  相変わらずどれも美味しい。  黙ってしばらく食べていると、彼女がじっと私を見ていた。 「……な、なに?」 「いえ、どうしてそんなに幸せそうなのに、何も言わないのかしらと思いまして」 「え」 「良い言葉は良い空気を作るのですよ。言葉は気体ですからね。——だから、そんなに嬉しいなら理由を私に教えてはくれませんか?」  少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。  回りくどい言い方をよくするけれど、彼女の望みは至ってシンプルなものだ。 「——ああ、ごめんなさい。  すごく美味しいです。ありがとう」  彼女は満足げに笑った。  褒めて欲しかったのだ。 「……それにしても、あなたは随分と変わりましたね。——懐かしい。あれから二年経つんですね」  桜を見上げながら彼女は言う。 「『あれ』って?」 「あなたが包丁を胸に向けていたあの日から、ですよ」 「うわ……もうあんなの早いこと忘れてください……」 「そうもいきませんよ。私は言わなければならないのですから」 「何を?」    ——桜より美しいものを、これまで私は見たことがなかった。  太く、強く、だというのに上品で。  私はただ、見上げるだけだった。  でも、今は違う。    この世のどんなものよりも美しく笑った彼女は、私の頬にそっと口付けをした。  その後彼女が放った言葉に、涙が止まらなかった。    いつか、二人で映画を見に行ったとき、彼女は感動して泣いていた。 「よくそんなに泣けるね」  と私が苦笑すると、彼女は言った。 「感動したときに涙が出るのは、言い表せないくらいの言葉たちが一気に蓄積され、溢れ出すからです。  もしいつか、あなたもそんな涙を目から零してくれたのなら、私にとってそれ以上のことはありませんよ」  と。
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