こころの哲学

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 胸の中に、どうしようもなく疼くような、塊がある。  それを本当にどうしようもできなかったとき、人は少しおかしくなる。  それによって起こす行動は人それぞれあると思うが、自分の場合は自傷行為だった。    不思議なものだった。  他人を傷つけることは身が裂かれるように痛くて苦しいものだったが、自分を傷つける時は黒い安心感に包まれて心地よかった。  ……嗚呼、自分はいつか、自分の手によって死ぬのだろうか。  ——夢のような浮遊感。  きっとそれをしたとき、私は本当の救済を得るのだ。    自分の口許に、歪んだ微笑が刻まれるのを自覚しながら、ボロボロの身体は人気のない路上に倒れ伏した。  ああ、先程やったとき、血管を切ったらしい。  暗くなっていく視界。太陽の没する空を思わせた。  でも、もう自分には、次の朝は訪れない。    ——と、そう思っていた自分とは裏腹に、暗転した視界は少しやりすぎなくらいに再び明転した。   「——あ、やっと起きたんですね! 大丈夫ですか?」  そう言って顔を覗き込んできた女性は、眩しいくらいに美しかった。  それに対して自分はただどもるばかりだった。  死んだはずなのにと、戸惑った。  一瞬、ここが天国なのかしれないとの考えがよぎったが、彼女の口ぶりと、自分が横たわっているベッドの人工的な柔らかさから考えて、どうやらそうではないらしいとわかる。  悔しい。  その感情は、戸惑いをあっという間に呑み込んだ。  自分は俯きながら、助けてくれたらしいこの女性に勝手な苛立ちを覚えた。  ……しかし、『助ける』という行為は、傷つけることよりもずっと難しく勇気の要ることだ。  それをしてくれた彼女に不義理な態度は取れない。  自分はなんとか喉から声を絞り出した。 「——あ、あの、助けてくれてありがとうございます……」 「いえいえ、人として当然のことをしたまでですよ」  そして彼女は、またもや眩しい笑顔でそう言うのだった。  その太陽は、ずっと日陰か自室から出なかった自分の目を焼くようだった。  彼女は少し笑顔を曇らせ、心配そうにこう言った。 「……血がいっぱい出てましたけど、どうなされたのですか」  自分は彼女の純粋で常識的な質問に、内心酷く怯えた。  それを隠しながら、どうにか笑って答える。 「大したことじゃないんです。ただちょっと転んだ時に尖った物が刺さったみたいで……」 「そうですか」 「ええ」  ……少しの間沈黙が流れた。  病院の無機的な白さと消毒の匂いは、少し苦手だった。  それを紛らわしてくれる相手というのを、自分はいつも探していたのだった。   「——いいんですか」    不意に彼女は、恐る恐るといった様子で言った。  何かを見通した目をしていた。  「何がですか」とか「いいんですよ」とか「良くないです」とか、そういう返答は何故か思いつかず、自分はまるで親に叱られた子供のようにじっと目を伏せて黙った。  彼女は返答を待つように暫し閉口していた。  ……多分、リストカットの跡を見られたのだ。  重苦しい空気が流れる。  空気を変えるためには、言葉が必要だ。……何か言わなければ。  思えば思うほどに焦って、体がすくんで、喉が塞がったように苦しくなる。  それに耐えかねて、自分は伏せ目を彼女にチラリと向けた。  怒っているわけでは無さそうだった。  ——ただ、どうしようもなく悲しそうだった。  その顔を見て、自分はどうにかやっと、言葉を紡ぎ出せた。   「……わかりません」    ようやく出た言葉なのに——わざわざ相手を待たせてから聞かせた言葉なのに——酷く情けなく、つまらなく、役立たずだった。  彼女はさらに悲しそうな顔をして見ていた。  少し慌てて、言葉を続ける。少しでも、この気持ちが伝わるようにと。——どうしてそう思ったのかはわからなかった。 「もちろん、いいことをしているだなんて、思いません。ですが、誰にも迷惑をかけないので、悪いことをしているとも、思えないのです」  彼女は、悲しそうに笑っていた。  胸を締め付けられるような、優しい、優しい笑顔だった。 「……そうですか。私は自傷行為をしたことがないのでよくわかりません。でも、もし私の言葉に耳を傾けてくれるのでしたら——どうか——一刻も早くそれをやめてください」    少しの間入院することになった。輸血パックに繋がれてぼーっとするだけでも、やっぱり病院は嫌いだった。  両親は何度か来てくれた。そういえば、自分はまだ高校生なのだったと、それでやっと思い出した。  自分たち親子はお互いほとんど喋らない人間なので、病院の静寂を破るのにあまり適さなかった。  そして、例の彼女は、毎日自分のところに来ては他愛ない会話をして、気まぐれな時間に帰った。いつも両親の来る時間とは被らなかった。自傷行為に関連するようなことを言ってきたことはその間一度もなく、ただ純粋に自分との会話を楽しんでくれているようだった。  前述の通り、自分はあまり話が上手くはなかったが、聞き手としてはそれなりだったらしく、彼女は、 「あなたと話しているとたくさん喋ってしまいますね」  と苦笑していた。  そんな調子で、退院する頃にはかなり仲が深まっていた。  自分の中に僅かだけ残っていた勇気を振り絞って、連絡先を聞いた。彼女は快くそれを承諾してくれた。  退院してからも、メッセンジャーアプリでやり取りして、たまに会った。プロフィール欄で本名がわかるかと思ったが、本名かどうか断定しにくい名前だったので、いい加減に直接聞いてみた。  ——「こころ」と言うらしい。  彼女自身も名乗り忘れたことに驚いていたようだった。  ……可愛らしい名前。  話せば話す程に、自分は彼女に好意を寄せるようになっていった。  その好意の種類は完全に恋だった。  少し、認めるのが難しかった。  恋なんてしたことなかったし、一生することもないと思っていた。  ……だって『私』には、“自分”がなかったから。    中学時代は、ほとんどずっと独りだった。昔から体が弱くて、病みがちで、入院していることがほとんどだった。  学校に来ることが少なかったから、友達作りに失敗した。  それで、学校に居るときは大体誰かに傷つけられていた。  口汚い罵倒、容赦のない暴力。  親とか先生とかに言う気は起きなかった。  私にとって大人は、全員信用ならないものだった。  先生も私を傷つけたから。  親は無口で怖かったから。  人間という人間が全員恐ろしくて仕方なかった。  誰も私を助けてくれない。  私という存在はこの世に必要ない。  私は、自分はここにはいない。  誰にも、自分にも、私自身を見つけることはできない。  誰か、私を見つけて欲しい。  ——誰か、だれか……。    きり、きり、きり。    カッターナイフがハを見せて笑う。  痛みが体を笑わせる。    ああ、私はここに居るのだ。  私だ、私が、ちゃんとここに居る。  自分にはそれがわかる。自分は、私を見つけられる。   「はは、っははは」    引きつった笑み。  腕についた傷口に、涙がしみた。    私が泣いたのは、腕が痛かったからなのか、心が痛かったからなのか、よくわからなかった。    もう未来なんてないし、要らないと思った。    
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