息をひそめて

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息をひそめて

「息子さんの死因は細い紐状のもので首を絞められたことによる窒息死で、他に目立つ外傷はありませんでした。ただ…抵抗した跡があり、首にいくつかひっかき傷がありました」 階段でも警察官の声はよく聞こえた。 「状態からして事故や自殺の可能性はまずないと考えています。なので他殺だと断定しています」 俺は気づかれないように息を吐いて、目をつぶる。 「胃の内容物の消化具合からして、亡くなられたのは十七時半頃と思われます」 「……大丈夫ですか?」 説明していた男性警察官とは別の女性警察官の労る声が聞こえる。だれに言ったんだろう。母さんだろうか。 「どんな小さなことでもいいです。怪しげな人物が家の周りを歩いていたとか、不審な車がずっと同じ場所に停まっていたとか、なんでも。なにか身近で変わったことはありませんでしたか?」 「一つだけ。夏頃になると、なぜか車のバンパーが壊されていたり、ポストにゴミを入れられたり、ナンバープレートをへし折られていたり、そういう小さな嫌がらせをされるんです」 警察官の問いに答えたのは、お義父さんだった。 「嫌がらせ…それはいつ頃から?」 「三年前くらいからです。それ以外には特に変わったことはなかったと思います」 「そうですか…」 そこから少し間を静寂が繋いだ。 母さんの声は未だに聞こえなかった。 俺は階段の手すりに頭を預け、真っ白な壁に足裏を押し付ける。 「前に聞いたとき、息子さんの持ち物で無くなっていたものは……」 「魚のルーペです」 またお義父さんが答えた。 「その一点だけ?魚のルーペだけが無くなっているので間違いないですか?」 「はい」 お義父さんが力強くそう言い切ると、また短い沈黙が落ちた。 「最後に申し訳ないのですが……念のためご家族全員の指紋を取らせて頂けないでしょうか?」 「……どういうことですか?」 お義父さんが怪訝な声で聞き返す。 「息子さんの網にですね、指紋がいくつか付着しておりまして……住民の方、特に息子さんと関係があった方にご協力をお願いしているんです」 「家族の指紋がついてるのは当たり前じゃないですか…!」 やっと聞こえたと思った声は、前触れもなく張り上げられた。 「ああなる前にも、たくさん、触れ…」 震えた声で、言葉を詰まらせる母さんに、俺の身体は階段の真ん中で石のように固まる。息も、しづらくなる。 「……考えさせてください。今は…その、いろいろ、敏感になって、何が何だか…混乱しているので…落ち着いてから」 混乱した心を取り繕うことなく、実直にお義父さんが言う。 俺は壁に押し付けた足をずるずると下へ落としていく。もちろん音は出さずに、だ。 声も、息遣いも、あらゆる音を忍ばせていた。だれにも気づかれないように。 「…わかりました」 警察官は渋々といった感じだった。 それから話し声はなくなり、ガサガサとかすかな物音が続いた。それでも耳を澄ましたままでいれば、警察の人たちが帰る気配を察知した。 玄関へ流れ出し溢れる足音に、俺はヒッと呼吸を止めて慌ててだけど音を立てないように注意を払いながら階段を駆け上がって自分の部屋のドアノブに手をかけた。 誰かが階段を上がってくる気配はなかったが、俺は息を止めたままドアノブを押し下げて部屋に入り、もし人が来ても何事もなかったかのように取り繕おうと思っていた。 だけどドアを半分開きかけた所で、ふと俺は後ろを振り返って、“ひろと”という名前と星や飛行機の飾りが主張してくる、ネームプレートが掛けられた紘斗の部屋のドアを、俺はじっと見つめた。 あの星も、飛行機も、何がそんなに楽しいのか母さんと一緒にはしゃぎながら貼り付けていた。 いつも開けっ広げで何をしてるのか丸見えだった、紘斗の部屋のドアは、あの日から開いていない。そして、これからも開くことはないだろう。 幼稚園にあるような明るく柔らかいパステルカラーで構成されたネームプレートだって、俺のネームプレートのように成熟で落ち着いたダークカラーに変わることも、もうない。
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