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なぐさめ隊と窒息の香煙
―――家中どこもかしこも、線香の匂いがする。
下に行けば匂いは強くなるんだろうけど、喉の渇きには抗うことなんてできない。先延ばしすることはできるけど。そんなことを階段の真ん中で棒立ちになりながらずっと一人考えてる。
こんな風に躊躇っていたって早かれ遅かれいつかは下りなくちゃいけないんだ。そう自分に言い聞かせて、俺は優柔不断な心を引き連れて、階段を下り、リビングのドアを開けた。
リビングは、やっぱりむせ返るような線香の匂いが充満していた。そして、母さんが紘斗の遺影と骨壷の前で座り込んでいた。
俺が部屋に入ってきたことなんて気づいていないし、眼中にもないみたいだ。
目を半ば開いている沈痛な面持ちで、母さんは遺影の紘斗の顔を指先でそっと撫でた。一回だけじゃなく、なんども撫でた。
変わったようで、変わらない。
あの日から家の中は容易に息をするのも許してもらえないような重苦しい空気が支配していた。
そこに不思議と涙はなかった。母さんもお義父さんも常時悲愴な顔をしていたけど、泣きはしなかった。
だけど、それぞれが胸に抱えた、言い尽くせない深い悲しみ、やり切れない苦しみ、死ぬまで癒えることのない傷、取り返しがつかない堂々巡りの後悔、それらが目に見えない形で、でも確実に、俺を圧縮していた。自分の部屋にいる時だけが、唯一少しだけそれらから逃れることができた。
なにもかもが嫌になって誰かに何かに当たり散らしたい、そんな衝動の火種が自分の胸の中でついたのを自覚しかけた時、部屋にインターホンの音が鳴り響いた。瞬時に俺の火種は吹き消され、母さんもそこでやっと俺に気づいた。
「慧人…」
やつれた顔についた悲嘆に沈んた母さんの眼が、インターホンが鳴らされた玄関方に飛んでからドアの前で佇んでいた俺を捉える。
「いいよ、俺が出る」
あの日から来訪に対応するのは、今日市役所の仕事に復帰したお義父さんの役割だった。
とぼとぼ歩いて、力なく玄関を開けると―――そこにいたのは、戦慄な体験を共有してしまった、あの日のメンバーだった。
「よう」
外の乾いた熱風と突き刺す日差しを浴びせられながら、目を瞬かせてきょとんとしてる俺に、健輔が片手をあげる。
「……だい、じょぶ?」
そう聞かなくちゃいけないのは俺の方なのに、首を縮め、気遣わしげな顔で、コバが俺の様子を窺う。
「あ…」
「これプリントと荷物」
間抜けな声でしか反応できないでいる俺に、涼介が心配げな面持ちで俺を見ながら、持ってきてくれたプリントが入ったファイルと教科書や上履きが入った袋を渡してくれた。その後ろで瑞希か同じような心配げな顔で俺を見ていた。
「……あ、ありがと…」
「ちゃんと眠れてんのかよ?」
「え?」
「クマすごいぞ」
眉間に皺を浮かばせたやまぶーの指摘に、俺は自分の目の下に指を這わせる。
「そうか…?」
「あぁ。前そんな目の下黒かった?」
「いや…普通だったと思うけど……」
「大丈夫かよ?」
「大丈夫大丈夫」
あらかじめ決められていた台本のように俺がそう返すと、沈黙が落ちた。腑に落ちない曇った顔を、みんな黙って俺に向けてくる。俺は針で風船を割るみたいに、はっと頬を持ち上げて笑った。
「なんだよ、お前ら」
「嘘つくんじゃねぇよ。大丈夫じゃねーだろ、どう見ても」
偽りも飾りも取り繕ったりもしない直情的な、健輔のまっすぐで正直な眼が、俺に届く。誰かのために作られていた数々の言葉が唾と共に喉の奥へ仕舞われていく。目頭が少しだけ熱くなった。
「あ」
そのとき、コバが何かを見つけたような声を上げる。
その声に誘われコバの視線の先に行くと、玄関の門扉の前で小さな花束を抱えた芦北がいた。自分の存在に気づいた俺たちに芦北はちょこんと頭を下げる。
「そんなとこいないで入ってくれば」
涼介が玄関の前で立ったままでいる芦北に声をかける。それでも芦北は足踏みするように瞳をこっちに向けたり落としたりしてこっちの様子を窺うばかりで入って来なかった。
「入ってきなよ」
俺は芦北に向かって軽く手をあげて大雑把に手招きした。
そこでやっと決心がついたのか、芦北はおそるおそるといった感じで敷地に足を踏み入れ、俺たちがいる玄関までやってきた。そして「これ…」と遠慮がちに花束を手渡してくる。
「ありがとな」
俺はお礼を言い、その小さな花束を受け取った。
それからなんとなく俺はその花束に目を落としていた。生まれたばかりの紘斗もこんな感じで小さかったと、なんでだろう病院から母さんと一緒に家に帰ってきた赤ちゃんの時の紘斗を思い出してしまった。
「おれも……花もってくればよかった」
そうつぶやくコバの声に、俺は花束から目を離して浮上させる。コバは俺の手の中にいる小さな花束を後悔を滲ませた目で見ていた。
その後、不自然に俺たちは沈黙した。口を開くのも憚られるような、深入りを避けるような、静寂(しじま)が俺たちを囲う。
「……だれがあんなことしたんだよ」
厭わず口を開いたのは、健輔だった。
静寂(しじま)がずしりと重くなったのを肩で感じ取る。
「事故じゃねーんだろ?」
警察以外で初めて踏み込んで来た健輔に、俺は力なく頷いた。
「みんな、言ってた。ただの事故じゃあんな警察は来ないって」
やまぶーがぼそりと付け足すように言う。
「犯人が……この町の人間じゃないかって、のも…」
舌の上で尻込みしながら吐き出されたやまぶーの言葉に、杏奈、瑞希、涼介、コバが俯かせていた頭をよりいっそう下げ、茶色く汚れたタイルと向き合う。
「あーこんなとこでごちゃごちゃ俺らが言ってても何も解決しねーだろ!」
と、健輔は自分の頭を手荒く撫で回すように掻き乱した。
「とりあえずさ、」
健輔は頭を掻いていた手をばたんと下ろし、俺の目を、その切れ長な目で貫いてくる。
「なんかあったら言えよ。な?俺らがなんとかすっから。お前はひとりじゃねーからな、慧人」
不意をつかれた、俺にだけの、熱い、心のこもった言葉に、俺の胸の奥からも熱いものが込み上げてくる。滅入っていた俺の心が、少しだけ晴れていく。
自分の内側で起こってることをこのまま表に出してしまうのはなんかみっともなくて、恥ずかしくて、自分の中だけでなんとか抑えて取り繕うとしていた時。
「なに急にそのかっこいい路線」
心揺さぶられた俺に反してコバが怪訝な眼を健輔に向けていた。
「主人公を慰める友情に熱い脇役Bみたいなこと言ってやがるな」
やまぶーも少し白けた顔をしていた。
「ドラマか」
同じような顔で涼介が冷たく吐き捨てた。
その三人の後ろにいる瑞希も芦北もなんだか複雑な表情を浮かべて健輔を見ていて――あれ、みんな胸にズドンと来なかったのか。それになんだが少し寂しい思いを持ったが、一瞬にしてその考えを変える。
そりゃあそうか。置かれてる環境も、心の状態も、みんな違うもんな。言葉の響き方も、感じ方も、捉え方も、違うだろう。
「うっせいうっせい!!」
指摘されたことを自分でも思っていて急に恥ずかしさが込み上げてきたのか、健輔は手を振り動かして批判的な空気とさっきの格好つけた自分追い払ってから、ブッブッブッ、と小学生の悪ガキのようにやまぶーたちに唾をかけていった。汚ねぇ!とやまぶーたちは腕をかざしたり身をひねったりしてガードする。傍若無人な暴君、健輔くんも案外可愛いとこがある。
他人の家の玄関で唾飛ばしをひとしきり気が済むまでやった後、健輔はくるっと体を俺の方へ向き直す。
「とりあえず!なんかあったら俺らに言ってこい!何できるかわかんねーけど話ぐらいは聞くから!だって――おれら慧人なぐさめ隊だからよ!」
と言って、健輔は俺に向かって力強く親指を突き立てた。
「いや、何そのネーミングとちっさい親指」
そう健輔にすかさず突っ込んだのは冷ややかな目に顔を引き攣らせたコバだった。今日のコバはやけに辛辣だった。
「だっさ。懲りずにまたやったよ」
やまぶーもコバの辛辣に乗っかる。
「クラスのスローガン決めのときもネーミングセンスが酷かったな、そういや」
涼介が憐れみを含ませ最後に追い打ちをかけた。
「てかいつそんな隊をつくった?」
間を空けず、涼介は容赦なく付き足す。瑞希が控えめだが同意するようにうんうんと小さくうなずいている。
懲りずに何回も何故か格好つける健輔、辛辣なほど批判的なコバたち。両者が織り成すその一連の様子が芸人のコントを見ているようで面白くて俺は笑ってしまった。
「うっせぇな黙れ黙れ!!とりあえずッ!また来るわ!そんとき気晴らしに遊びにでも行こうぜ!」
「いや、今行くわ」
えっ?と素っ頓狂な声を上げた口を半開きのまま、健輔はいきなりビンタでも食らわされたような顔で俺を見る。やまぶーやコバもそんな感じで、涼介や瑞希や芦北は、眉間に皺を作って俺を案じる顔をしていた。
「ずっと家にいてもつまんないし。都合悪い?」
「いや…べつに悪くわねぇけど…」
健輔は珍しく歯切れが悪かった。が、やがて思い切ったように言った。
「じゃ駄菓子屋でも行って菓子でも食うか!」
「だな」
「そうと決まればレッツゴ。お前らも行くか?」
親指で玄関の門扉を指したまま、健輔はやまぶーとコバに訊く。
「行くに決まってんだろ」
「…うん」
即答とやや即答だった。
「オマエぜってぇ菓子目当てだろ」
「ちげぇわ」
健輔の野次をやまぶーが即否定する。
そこで不意に涼介と瑞希と芦北、三人と目が合う。
「慧人に付き合うよ」
涼介が言った。その後ろで瑞希が頭をコクコクと頷き、その大きく丸い瞳で行く意思を伝えてくる。
「慧人にってなんだよ。慧人にって」
すかさず健輔がいちゃもんをつけてくる。
「行って…いいなら」
俺の顔色を窺いながら芦北が言った。
「行っていいよ別に」
「なんだよ行っていいならって、陰気くせぇな」
ここでも健輔はいちゃもんをつけた。
「じゃ行くべ」
時折健輔から出てくる口調を真似て、俺は家から飛び出た。
理由はなんだってよかった。
ただただ、息ができないこの家から一刻も早く出たかった。
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