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「えっと…ペペロンチーノと焼きそばとうどんとブタメンだな!」
「ぜんぶ麺類ばっかじゃねぇか!」
指を折って買うものを数えていたやまぶーの尻を健輔が足蹴りする。いつも通りの何気ないやり取りに俺はちょっと笑ってしまう。
外は俺の家とは真逆で快晴だった。
何日かぶりの太陽の光熱が惜しみなく頭から俺の中へ流れ込んでくる。まだ突き刺すような明るさにも、過熱された暑さにも、不慣れな俺の目は瞬きを繰り返し、体はあと数分歩いたらうだってしまいそうだった。
何気なく空を仰ぎ見ると、空中の青い海に浮かぶソフトクリームみたいな雲が一番に目に飛び込んできた。巨大な入道雲だった。それはもくもくと他の雲を凌いで上の方へ伸びている。あれが本当にソフトクリームなら濃厚バニラでおいしいだろうな。小学生みたいなことを馬鹿みたいに考える。
綺麗に生え揃った緑輝く田園住みのカエルの鳴き声としみ入ることなくどこまでも反響していく蝉の鳴き声が絶え間なく聴覚を埋め尽くしてくる。
どれもが繊細なんてもんはなく、ただただ大胆に、鮮麗に、生命力を誇示してくる。それは思うようにいかない日々に塞ぎ込み失っていく人間の活力を補ってくれる。俺も補われた内の一人だ。
身体に不足したビタミンが満たされていくのを感じながら坂を下っていくと、
「慧ちゃん…!」
こっちに片手をあげて俺を呼ぶ女の人の姿があった。
近づいていくと、夏にいつも親戚から送られてくるスイカをお裾分けしてくれる二軒隣の笹島おばさんだった。今年もくれるだろうか。
「こんちは」
俺は少し顎を突き出すように会釈する。
「こんにちは。お友達たくさんで……どっか、行くの?」
「駄菓子屋に行こうと思って」
「そう…思ったより元気そうでよかったわ」
どこを見てそう思ったのか、笹島おばさんは俺の眼を見て安堵を滲ませそう言った。
「お母さんは…どう?」
矢継ぎ早に訊かれ、反射的に鼻や頬に力が入り、俺はたぶん顔の中央をくしゃくしゃと険しく皺立て、力なく首を横に振った。
「そう…そうよね。お父さんとは朝会ったんだけど…憔悴しきった顔してたわ。……でも、仕事しなくちゃお母さんや慧ちゃん、食べさせていけないもんねぇ」
お義父さんの愁いた心情を分かち合ったみたいな、悲愴漂わせる笹島おばさんの顔から、俺は視線を斜め下に投げ捨てた。
「慧ちゃん、しっかりね。これから大変なこと辛いこといっぱいあるかもしれないけど、紘ちゃんの分まで一生懸命生きなきゃ、ね?」
じわじわと伏せた顔を笹島おばさんに覗き込まれる。
「ん…」
僅かに弾き飛ばした眉と聞こえるか聞こえないかの声量で、俺は返事を返した。
「じゃ、行くね」
そしてすぐ別れの挨拶をして、俺はまた坂を下り出した。
そうして歩いていると、今度は軽トラックの近くで昼休憩していた農家のおじさんたち二人が俺に気づいた。
「守沢さん家の…」
「おぉ…」
「がんばれよ」
「お母さんとお父さん、しっかり支えてやれぇ」
とまた無責任にそう声をかけられた。そのまま前を走り去ってやりたかった。だけど俺は軽く頭を下げて通り過ぎた。
それからずっと、犬の散歩中のお姉さん、水鉄砲で遊ぶ親子、友人とはしゃぐ同級生、井戸端会議のような主婦の群れ、誰も彼もがすれ違うたびに憐れみや好奇な目で俺をジロジロと見てきた。
俺は自分が軽んじられているように思えた。
がんばれって何をどう頑張ればいいんだ。
紘斗の分まで生きろって、背負えってことか?
なんでこんな風にまだ苦しまなくちゃいけないんだ。
蓄積した叫びが胸の奥から込み上がってくる。
それでも、それが口から突き破ることはないし、出したところで答えも慰めも与えてはもらえないだろう。
どうせその場限りの、押しつけられる優しさから、お節介に向けられる目から、逃れたくて、俺は歩調を速め町の人たちの前を通り過ぎ、ぐっと激情を胸に堪(こら)えながら一目散に駄菓子屋へ向かった。
「なっんだよ、アイツらァ。人の顔ジロジロ見てきやがって!」
健輔の声だ。
後ろで、俺のせいで、みんな駆け足になってる。
いつも現実は思い通りにはいかない――救い求めた駄菓子屋に着いても、やっぱり俺は逃れることができなかった。
涼を求めてなだれ込んで来た群れの中に俺を見つけると、駄菓子屋のおばあちゃんはあっといった感じで僅かに目を見開いた。
その見開いた目を少し静めると、
「……大変だったろう?」
俺の顔を覗き込むように見て、ゆったりとした口調でおばあちゃんが訊いてきた。
大変だった。
そう言うのもなんか違う気がして、かと言って何て答えるのが正しいのかわからなくて、俺は目を逸らして、あてもなく視線を漂わせた。みんながお菓子を選ぶの控えて俺を見守っている姿が隅で見えた。
「そんな落ち込んでても、亡くなった人は帰ってこないしなぁ…」
おばあちゃんは、俺に独り言のように言った。
「忘れる。ひと時だけでもいい。悲しいことも、楽しいことも、忘れる。それが人生をうまく生きるコツだよ」
餅のようにもったりと、やわらかく、一言一句、俺の体に染み渡らせるように助言をひとつくれる。
だけどその助言は餅のようだったから、厭わしいほど粘り気があって、家にいる時より、俺の気管辺りを塞いで、息がしづらくて、俺は窒息死しそうだった。
なんでそんなこと俺に言うんだ。元気な姿をずっと見てきた。この世に未練を残した、あの惨たらしい死に顔を見てしまった。それをすべて忘れろなんて、忘れたくても、そんな簡単に忘れられるわけないだろ。
ぶつけることもできない、言葉にすることもできない、ただ渦巻くだけの苛立ちを胸の中だけでどうにか解消しようと努める。絶え間なく息を吸い込みながら、なんとか。けど──その時。
ドンッという鈍い音が俺の耳を突いた。
「お会計、お願いします」
うなだれていた顔を上げると、おばあちゃんの前にあるレジ台に可愛らしいピンクのカゴを置いている涼介がいた。カゴの中は詰め放題でもしたのかと言いたくなるほど、お菓子が山盛りだった。カゴからいくつか地面へお菓子が滑り落ちたが、それもすぐ拾い、涼介はまたおばあちゃんと真正面に向き合う。
「あぁ…はいはい」
おばあちゃんは気迫負けしたようにお菓子たちを一つ一つカゴから取り出して計算をし始めた。その間、涼介はくるりと後ろをふりかえって、「早く選んで会計済ませろよ」と空っぽのカゴを持ったままの健輔たちに声をかけた。
「……っお前に言われなくてもやるわ!」
健輔は息を吹き返したようにそう言い返すと、やまぶーやコバたちとそれを二つ買うならこっちを一つ買え、麺ばっか選ぶな、とごちゃごちゃ言い合いながらお菓子選びを開始した。
そんな健輔がレジに向かう気配を見せた頃、
「慧人、行こう」
涼介にそう声をかけられた。そのまま駄菓子屋を出ていく涼介に、俺は連れ出されるように重い足を動かして駄菓子屋を出た。
頭上の太陽が待ってましたと言わんばかりに俺を迎え、その容赦ない光線で俺を焦がしにかかってくる。バーベキューで強火で焼かれるポークウインナーの気持ちが今ならわかる気がする。
「オイッ!!ちょっと待てよ!まだ会計終わってねぇぞ!」
という健輔の声が背後から飛んできたが、お菓子を詰め込んだ大きな袋を持った涼介が足を止めることはなかった。健輔のことだ、どうせ走ってすぐ追いつくと俺も足を止めず涼介についていった。
「涼介、どこに行くんだよ」
「川。あそこなら人いないでしょ」
ぶっきらぼうな言い方だったが、そこにはちゃんと優しさがあった。
「ありがとな、涼介」
「なにが?俺なにもしてないけど」
感謝されるとどこか素っ気なくなるのはいつものこと。
これ以上言うとうざかられるのを知っているから、感謝するのはこれでやめておく。あとは心の中で礼をいうことにする。
そんな涼介との懐かしいやり取りを久しぶりにしていると、「待てや!コノヤロォ!!」健輔たちが追いついてきた。
「待てって言ってんのが聞こえねぇのか!?耳悪ぃんか!!クソを取れ!!クソを!!」
「あー悪かった悪かった。つか何それ」
唾を飛ばし灼熱の太陽と同等なくらい猛炎に怒る健輔を適当に宥めていた最中、健輔がカップラーメンを持っていることに気づいた。
「ブタメン」
「いやそれは知ってる。こんな暑い中でなんでそんなん食べの?」
「暑い日に熱いラーメンを食べるのがうめぇんだろうが!」
「いやいやいや、それはクーラが効いてる中でのことでしょ?つかお前らも?」
健輔の後ろでやまぶー、芦北、コバ、瑞希が、同じようにブタメンを手に持っている。芦北と瑞希に限っては二つも。でも二つなんて可愛いもんだ。やまぶーなんて、両手で器用に三つもブタメンを抱えてる。
「暑い日に暑いラーメン食うのが――」
「あぁあぁ同じこと言うな言うなやまぶー。バカに見えっから」
そんなに手にしてるのは、たぶん俺と涼介の分もあるのだろう。
「ありがとな」
そう思って俺はやまぶーからブタメンを受け取ろうとした。が、ブタメンを抱える腕が素早く引っ込められる。
「え?」
「コレ俺の。慧人のはアッチ」
とやまぶーにたぷたぷと揺れる二重顎で示された先には、ブタメンを二つ持った芦北。
「オマエ三つも食うの?」
「三つで一つじゃん」
「常識でしょみたいに言うのやめてくんない?だったらもうブタメンやめてデカいの一つ買えよ」
やまぶーに文句を言いながら、俺は芦北からブタメンを一つ貰う。
「茅野のは瑞希」
涼介のは?と訊く前にやまぶーが言ってきた。俺は瑞希から涼介の分のブタメンも受け取って、こんな暑い中でラーメンを食べるコイツらに、三つも食べようとしている食い意地を張ったやまぶーに、呆れながらも渓谷に向かって歩き出した。歩いているだけなのに、首筋や脇や背中からとめどなく汗が吹き出して肌をなぞる様に滑り落ちていった。
* * *
ずぅーずぅー。
ズルズル。
ずぅーずぅー。
ズルズル。
張り合うような蝉の声。
青空を映す渓川のちゃぽちゃぽと小気味が良く可愛らしいせせらぎ。
目も覚めるような盛夏の華やかな緑の集塊が放つさやさやと揺れる葉の音。
渓谷で織り成されるそれらに、俺たちのラーメンをすする音が合わさる。
ミーンミーン。
ズルズル。
ちゃぽちゃぽ。
ズルズル。
さやさや。
ズルズル。
「――暑いわッ!!暑すぎるわッ!!殺す気かッ!!」
俺はたまらず空になったブタメンを投げ捨て、立ち上がった。
「なんだよ急に」
真正面に座っていたやまぶーが麺を口に含みながら上目遣いで俺を面倒くさそうに見る。
「ちゃんとゴミ袋に捨てなきゃ怒られるよ」
日差しに目を細めながらコバが俺に言う。
「全部食べたんだ」
砂利の上で転がっている空のブタメンを涼介が冷ややかに思える目で見つめる。
「バカだなおめぇは!!ハッ!!暑い中で食う!!これが夏のだいごってやつだろうが!!」
あはははは、と健輔は額を伝い流れ目に入ってくる汗を避けるように高速で瞼をしばたかせながら、わざとらしい高笑いする。
「無理すんな。汗が滝みたいに流れてんぞ。マンガじゃねぇか。あとだいごじゃなくて醍醐味な」
健輔に白けた目をやり、俺はさっき座っていた角が取れた丸い石にまた尻を落とした。
「この暑さどうにかなんねぇ?」
ぐいぐいと、水分を欲しがる喉に涼介が買ってくれていた生ぬるい水を気休めに通していく。その間も俺の背中をじりじりと陽光が照りつけてくる。本気で俺の背中で目玉焼きが作れると思うくらい。
時々ひんやりと気持ちいい冷気が渓流から流れてきて俺たちを助けてくれる。それのおかげで暑い暑いと文句を言う程度に抑えられてる気がする。
そんな恵みの冷気に浴びながら俺の正面でいまだに麺をすすっているやまぶーをなんとなく見ていれば、やまぶーが食べているブタメンが俺が食べていた赤色のブタメンじゃないことに気づいた。
「それなに?赤じゃねぇじゃん」
やまぶーの手にあるのは見慣れた赤と黄色のビビットカラーのブタメンではなく、黒と黄色の洒落たブタメンだった。
「期間限定のうま辛とんこつ味」
「そんなのあったんだ。辛い?」
「ちょっとピリってくる」
ふ〜んと返事し期間限定のブタメンを眺める俺に向かって、いきなりやまぶーが眉を寄せキリッとした表情を作った。
「男は黙ってうま辛とんこつ味だよ」
「やかましいわ、さっさと食べろ。眉ピクピクさせんな」
やまぶーは憑依した霊が抜けたようにストンと白けた顔になって、顔の近くに持っていったブタメンもストンと下ろした。
「八つ当たりじゃねぇか」
「八つ当たりもしたくなるだろ。こんなクソ暑い中でそのウザ顔にクソ熱いラーメン食わされたら!」
「完食したけどな」
涼介は俺の矛盾を冷静に指摘しながら、俺が投げ捨てた空のブタメンをゴミ袋に入れる。
「なんだよコバ。辛気くせぇ顔して」
そんな中、健輔の声につられコバを見てみると、物思いに沈んだ顔で首をうなだれさせていた。
「いや……なんか、いつもみたいだなぁって…。なにも……、なかった、みたいだなぁって……」
ぶつ切れのコバの言葉に、みんな動かしていた口をぴたりと止めて、さっきまでの五月蝿さが嘘みたいに黙り込んだ。
「あー辛気くせぇ辛気くせぇ!梅雨明けたって言うのによ!」
健輔はまた俺たちを覆った憂鬱な雲を手を動かして振り払う。
「そういや、学校のセンコーたちも事情聴取されたらしいよな。俺の家にも来たけど…」
みんなの顔色を窺いながらやまぶーが言い出す。
「俺ん家にも来たわ。そしたらなんか指紋を取らせてくださいとか言われてよ、ババアとジジイが“何でですか!?何で取らなくちゃいけないんですか!?”とかデケェ声で玄関で揉めてたわ」
指紋を拒否したババアとジジイの真似をしながら、健輔は心底面倒くさそうに耳をほじくった。
「ほとんどの人が拒否したらしいよ、指紋取るの。……お母さんが言ってた」
コバが控えめに言った。
「お前ん家も拒否ったの?」
健輔が訊いた。
「俺のとこは…指紋取った。家族みんな……協力するのが、この町に育ててもらった人間の義務、だって…」
へぇ〜と健輔は何となく冷めたような目つきでコバを見やった。
「俺ん家もやった」
コバに続いてそう答えたやまぶーに、えっ、と健輔が少し目を見開いて驚く。
「俺の家も取ったよ。俺のお母さん、慧人のお母さんと仲良いから協力的だった」
と涼介が俺を見る。そして尋ねてくる。
「慧人の家も一応取られた?」
「俺ん家は拒否みたいな感じ……っていうか、指紋を取るとかそんな余裕がないってかんじ。母さんが」
「そりゃそうだよね」
涼介が同調してくれる。
「瑞希とテメェはどうなんだよ?取ったのかよ?指紋」
どうしてそんな聞き方をするのか、健輔に追い詰められるようにそう聞かれた瑞希は力なく頭を振った。瑞希ん家は、そうだと思った。
「……わからない」
芦北は小さな声でたったそれだけ言って、すぐ口をつぐんだ。
「わからないってなんだよ」
「…たぶん……取ってない…」
「取ってないなら取ってないって最初から言えよ」
健輔はいちゃもんつけるようにいちいち芦北に突っかかったが、押し黙ったまま反応のない芦北につまんなくなったのか舌打ちを一つして攻撃はすぐに終わった。
「やっぱり…犯人はこの町の人間なのかなぁ」
やまぶーがつぶやくように言った。
蝉の鳴き声が、少しだけ遠ざかった。
「警察のヤツら教えてくんなかったんだけど、死んだ原因?はなんだったんだよ」
「死因」
涼介はすかざす健輔の言葉を訂正した。
健輔がまた何かしら反撃に出る前に、俺は親と警察が話してたのを盗み聞きしただけだから詳しいことは分からないけどと紘斗の死因をみんなに説明した。
死亡推定時刻は十七時三十分頃。
死因は首を絞められたことによる窒息死。
細い紐状のものによる絞殺。
凶器はなかった。
ルアーもなかった。
「なんか急にリアルぅ」
健輔が冷やかすみたいに言った。
「そのルアーは持ち去られたってことか?」
「らしい」
俺は頭をニワトリみたいに軽く動かし、やまぶーに向かって頷いた。
「そのルアーを持ってるやつが犯人だ!」
「当たり前のこと言うなよ」
健輔に俺は呆れた目を向ける。
「……弟くんの首にしっかり絞められた跡がついてた」
「え?マジ?ついてた?」
俺は眉を顰めた顔で涼介に聞き返す。
「ついてた。俺、弟くんの顔の前にいたからよく見えたんだ」
涼介は俺の目を見て言った。だけど言い終わるのと同時に、あの時の光景を思い出してしまったのか、視線を力なく落としていった。
「あんなはっきり首に跡がつくのは、弱い子供の力じゃつかないって本で読んだことがある。つくのは、強い大人の力だって」
「本の受け売りで探偵みたいな推理しやがって」
こんなこと言いたくないけどといったしんみり口調でそう言った涼介に、健輔が習慣的に無神経に突っかかっていく。
「人を殺したこともなければ、検視官でもない俺がそれ以外でどこから知識を集めて考察しろと?そんなこと言うなら自分が推理してみれば?経験も受け売りもなく」
何事も冷静に対処する涼介にしては珍しく体を少しだけど前のめりにして声を荒らげ、挑発混じりに健輔に言い返した。これは派手な一悶着が起きそうだ、そう思った時。
「ピィィィー!!」
瑞希が笛を甲高く響かせた。
「ッなんだよ…!いきなり!」
反撃体勢だった健輔は不愉快一色に顰めた顔で一番被害を受けた片耳を塞ぐ。瑞希はそんな健輔を何だか力が入った顔でじっと見つめる。
「どうした?瑞希」
代わりに俺が尋ねると、
「ピピピーピピ、ピピ、ピピピー、ピピーピー、ピピーピーピ、ピピーピピーピー、ピピーピー、ピーピーピピーピ、ピーピピーピピ、ピーピピーピ。ピーピ、ピピ、ピーピーピー、ピピーピピ、ピピピーピピ」
暑さのせいだろうか、必死に何かを訴えかけてる瑞希の笛が、ぐわんぐわんとまるで耳鳴りのように耳朶に響いた。
「わっかんねぇよ!何言ってるか!長ぇし!」
少し同情できる健輔の苛立ちだった。
「涼介、瑞希は何て言ってんだ?」
涼介は力んだ目をした瑞希を一瞥し、黒目を左右に振りながら瞬きを三、四回して、瑞希が笛で言ったことを教えてくれた。
「どうやって…屋敷にって」
それだけ通訳すると、涼介はぴたっと口を閉じた。それから涼介は何かを取っ払うように前髪を掻き上げた。額に汗がびっしりと滲み出ているのが見えて、涼介もこの暑さにやられてしまっているのかもしれない、と思った。
だけど、解釈するには少し足らないなぁと物足りなさを感じている所に、予想外な、瑞希同様控えめにいた芦北が出てきた。
「……弟くんが、どうやって屋敷まで…行ったんだろうって…?」
芦北は補足するようにそう言いながら、瑞希が伝えたい意図を汲み取った上での自分の解釈が間違っていないかやんわり確認した。瑞希は一瞬躊躇うような間があったが、うんうんと激しく頷いた。
「そんなん歩いてだろ?」
健輔は至極当然に言った。
「…そうじゃ、なくて……」
「あぁ?」
健輔に睨まれて、芦北が亀のように首をひっこめ萎縮する。
「今、芦北が話してんだからちょっと黙ってろよ」
「はい出た〜芦北びいき〜」
そうすぐ不満そうに口を尖らせたが、健輔はちゃんと黙った。俺は芦北に話の続きを促す。
「私は…転校生だから、行き方も知らなかったし、どこが入り口かもわからなかった、けど……弟くんは、知ってたのかなって……行き方も、草木に覆われてた、あそこが、屋敷の、入り口だって…ことも」
「知ってたんじゃねぇの。だから屋敷で死んでたんだろうが」
「いや、知らないと思う。たぶん」
健輔が言った可能性をぶった斬る俺の発言に、みんなの視線が一斉に俺に向く。
「屋敷が山の中にあることは知ってるけど、基本すごく怖がりだから……前にトイレにオバケが住んでるんだって話を冗談で母さんがしたら、それからしばらくトイレに一人で行けなくて漏らし続けたことがあるんだ。」
「お漏らしなんて、コバじゃん」
健輔が馬鹿にするように笑う。コバが微かにむっと眉を顰めるのが見えた。だけど何も言い返すわけでもなく、それだけだったので、俺も話を続けることにした。
「とりあえず…それくらい怖がりのヤツだったから屋敷の話なんてしなかったし、する奴でもなかった。知ってても近づくこともできない気がする」
俺がそう言うと、うーんとやまぶーが腕を組んで唸り声を上げる。
「たしかにやや一方通行だっていっても少し入り組んでるし、屋敷に行ける道も草木で隠れてわかりずらいし、誰かに手前から何本目の木の下の間…とか口で教えてもらってもわかんねぇ気がする。俺らは茅野と一緒に行って教えてもらったから分かったけど。小学一年生が、たとえば誰かに教えてもらったとしても、一人で行けるかどうか…」
「…私たちと同じように……誰かと一緒なら、屋敷まで、行けるよね……弟くんも」
芦北の言葉に、みんな視線が芦北に集まる。芦北の体が怯えたように縮まる。
「そうか。なんで一人って思ってたんだろ。犯人に連れて行かれたっていう可能性の方がヤバいくらいあるよな!」
やまぶーが世紀の発見でもしたかのように少し興奮気味に言った。瑞希がそうだそうだと眉間に力を入れ頷いている。
浮上してきた可能性にコバは動揺したように瞳を不安げにゆらし、涼介はいつの間にか食べていたクッキーを口元で止めて考え込むように目を伏せた。
「で、その犯人ってだれだよ」
健輔が突っかかるようにやまぶーに訊く。
「それは……わっかんねぇけど少なくとも大人しくついていってるってことは知らない人じゃないだろ」
やまぶーの言葉を聞いた健輔が弾かれたように俺の方を向く。
「どっか行くとか誰かに会うとか言ってなかったのかよ?弟はよ」
「言ってなかった。つか話してない」
「瑞希。お前の弟と直前まで遊んでたんだから、なんか聞いてねぇのかよ?」
健輔が訊くと瑞希は申し訳なさそうに首を横に振った。
「早く帰っちまう慧人の弟に何で?どうして?とも聞かずバイバイしたのかよ、テメェの弟は。変だって思わなかったのか?」
健輔に責めるように言われ、瑞希は心苦しそうに目を伏せた。
「一緒にいなかった瑞希が分かるわけねぇよ。瑞希の弟たちだってまだ低学年だから」
そう俺が言っても、瑞希は目を持ち上げることはなかった。
「川から屋敷までは四十五分くらい。瑞希の弟と十六時二十分頃別れたんだとしたら、屋敷に着くのはちょうど十七時。殺されるまで三十分もあるな…。何してたんだろう」
俺は頭の中で計算して出た疑問を口にする。
「なんか寄り道でもしてたら殺された時間近くに屋敷に着くだろ。お前が計算した通りきっちりになんて着かねぇよ。みんな」
健輔がひとつの可能性を示してくれる。
「瑞希の弟たちと別れて、待ち合わせした犯人と合流して、屋敷に一緒に行った。その線が一番濃厚だ」
やまぶーが鼻息荒く主張する。
「濃厚って…。まぁそれが一番わかりやすくて一番可能性が高いよな。待ち合わせ場所に行くために早く瑞希の弟と別れて犯人と一緒に屋敷に…ってのが」
そう俺が他人事のように言うと、そこから一瞬の沈黙が落ち、芦北がまた口を開いた。
「…どこかで、待ち合わせの約束をして…屋敷まで連れ去って……あんなことをしたってこと…?そんなこと、できるの…かな…。人を殺めるような、変な人と一緒にいたら……目立たない、かな…」
「一緒に歩いてても不自然じゃない人間なら、目立たないし、できんじゃね」
芦北の疑問にやまぶーがアンサーを差し出す。
「あと大人しくついていっちゃう顔見知り」
やまぶーのに付け足す形で俺がつぶやく。
「そうとなれば絞られてくんな。隣で歩いてても不自然じゃなくて、慧人の弟と顔見知り――家族か、毎日通ってた学校の奴らか、町の奴らか、だな」
「確かにその中なら隣にいてもおかしいと思わないし、怪しまれないな」
と述べた俺に健輔がクイクイと眉を弾かせたしたり顔で頷いた。
「よし!ここまで推理できたら、あとは足を使って捜査するのみだな!特に大人を!」
健輔は膝をパンっと叩いて立ち上がる。俺が出す前にコバが「えっ?」という声を吐息のように漏らした。
「さっさと犯人捕まえてこんな辛気くせぇのを追い払おうぜ!な、慧人」
と健輔は勢いよく叩きつけるように俺の肩に手を置いた。それが負傷していた二の腕の方で、電気が走ったみたいな痛みが駆け抜けた。
「いってぇ…!」
「あ、なんだまだ治ってねぇのか」
「あの日オマエに掴まれたから余計悪化してんだよ」
俺は腕を固定して痛みが抜けていくのを待った。
「まずはセンコーどもだな。学校に行くか」
健輔は悪びれる様子もなく、切り替え早く、勢い込んで猪突猛進に捜査しに行くことにもう意識が傾いていた。
そんな健輔をみんな様々な表情で、殆どが消極的に見上げていた。それに健輔も気づく。
「おいおい!なんだよそのやる気のねぇ顔!なんで乗る気じゃねぇんだよ!!」
「俺たちが犯人探ししたってたかが知れてるって」
やまぶーが苦渋の表情を浮べ言った。
「なんでやる前から決めつけんだよ!!見つけられるかもしれねぇじゃん!!警察より早くよ!!だろ!?コバ!?」
名指しされたコバは逃げ場を求めるように黒目をぎょろぎょろ泳がせる。
「……おれも……警察に任せた方が、いいと思う…。その道のプロ…だし…俺たちより……」
「お前は関わりたくねぇだけだろ!」
健輔はなんとか免れようとする気持ちが明白なコバに腹を立て、いきなり鋭くなじった。
「お前はいつもそうだよ。すぐ逃げる」
そうしてコバに非難的に細めた目を投げ、呆れ果てたように吐き捨てた。それから健輔はみんなの方に険しい皺だらけの顔を向ける。
「友達が、慧人が、こんなに落ち込んでんだぞ?早く犯人捕まえて早くカタをつけて、またいつもみたいにしてやろうってそんなことも思わねぇのか!?心配してるとか口だけか!?だったら最低だわ、おめぇら」
ずばずばと、ひとりひとりの躊躇う心に容赦なく釘を打ち込こんでいく健輔の尖った声には失望が混じっていた。
そんな声を浴びせられた俺以外のみんなは、良心や現実にちくちくとする自分の内側と静かに戦っているみたいに、自由自在に散らばっている石ころに目を落としたまま黙り込んでいた。
「もういいわ!お前らは家で警察が犯人を捕まえるのを大人しく待ってろよ。薄情野郎どもが」
健輔はみんなが俯かせた睫毛を持ち上げるのを待たずみんなをそう斬り捨てて、もういいよと言う機会を伺っている俺の方に息巻く瞳を向ける。
「慧人、行くぞ!学校でセンコーどもに聞き込みだ!」
健輔は鼻息荒く勢い込んで俺に声をかけた。
「無駄足だからやめたら?」
「あぁ?」
そこに水を差すような声が飛んできた。
健輔はすぐ目尻に黒目を持っていって、その声の主を睨みつける。長い時間口を開かなかった涼介だった。
「こんな事があったから弔い意味で先生たちはここ何日か定時の十七時に帰るようになってんだよ。あと少ししたら学校はもぬけの殻。明日から夏祭りの準備を再開するから先生も親も子供も学校に集まるらしいけど」
「だったら明日の方がいいな」
やまぶーは清々しいほど涼介の肩を持った。
健輔は納得いかない顔で舌打ちを繰り返した。ライターの車輪状のヤスリを親指で回転させた時に出るのような、チッチッチッという音が散らばる。
無駄足にならずに済んだ有り難い涼介の助言を受け、健輔と俺は次の日に学校へ行くことになった。
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