紫の吐露と茶の秘め

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紫の吐露と茶の秘め

「遅くね?」 俺は学校の前で佇む俺を嘲笑うようにアスファルトと草木がくねくねとぼやけながら歪む南の道を睨みつける。 来る気配は、ない。人の姿も、ない。 俺は僅かに出てきた唾という水分で乾いた舌を潤し、飲み込んで体内にも分け与える。 「もう行こうぜ」 南の道から目を外して東の道へ進もうとする俺の前に瞬間移動でもしたかのような速さでやまぶーの巨体が立ち塞がる。 「もうちょっと待ってみようぜ」 「お前そればっかじゃねぇか」 「このやり取りも五回目」 コバが俺とやまぶーをうんざりとした目つきで見上げてくる。 その視線によって、俺のげんなりする気持ちは強まり、効果はないとわかっているが慰めに深いため息を吐き、Tシャツの襟の内側で目まで流れてくる顔の汗を拭った。 今日はいつにも増して日差しが鋭く激しい。日陰に逃げても日差しと変わらない烈火と化した熱気が取り囲んでくる。俺の周りで透明人間が焚き火でもしてるんじゃないかと錯覚してくる。地上にある水分をすべて枯れさせる勢いだ。特に今の時間帯、昼間はカツアゲ並みに獰猛で、ほぼ水で出てきている俺たち人間の命といっても過言ではない水分を根こそぎ奪っていく。もちろん家を出るまで漲っていた体力、気力もだ。 「渓谷に行けばマシになんのに。あー水浴びしてー」 俺は髪をクシャクシャに掻き乱して、渓谷の、あのどんなに町が熱に浸されていようが負けない辺り一面を包み込む冷気とひんやりと澄んだ川の水に恋焦がれる。その間もジリジリと日差しが俺の皮膚を焼いてくる。 「もう迎えに行こうぜ!そっちの方が早い。絶対早い。絶対いい」 我慢ならない暑さにそう訴える俺に、 「でもあんま家に来られんの嫌がんだよね。アイツ」 やまぶーが苦渋の表情で首を捻る。 「先に行ってた方が……まだいいんじゃない?」 コバは眉を顰めて、俺が提案した家直行をやんわりと拒否してくる。 正直そんな嫌がられるような提案なんだろうか、と俺は内心少し戸惑った。 「あと何時間待たされるかわかんねぇぞ。耐えられないっ。そんなことしてたら涼介たちも来ちまう。先に行ってるって言ってんのに。どうせ家に着く前に道の途中でバッタリ会うだろ」 それでも、一歩、二歩、俺は南の道に歩を進めた。 「まだ十五分しか経ってないけど……」 背後でコバの小言が聞こえたが構わず足を動かし続けた。 こんな暑さの中じっと動かず待つのは拷問でしかなくて、もう耐えられなかった。 「飲みもん買ってから行こう」 まだ迷っているコバとやまぶーにそう一声かけ、俺は自動販売機で買ったお茶や水で自然の熱光線に対抗しながら、煮え切らない二人を連れて、遅刻魔の健輔の家に向かった。 南の方には俺の記憶が正しければ一度も来たことがなかったと思う。 中学に上がるまで友達は全員北側に住んでるヤツしかいなくて、遊ぶなら小学校の校庭か、家、東の方にある渓谷、スーパーだったから、友達がいない南の方に行く理由がなかった。それに加えて、家庭でも学校でもスーパーでも“南の方は何もない”とみんな口を揃えて言うほど遊ぶ場所もお店もなかったから、俺も面白くないとこっていうそういう印象しかなくて、南の方に行きたいと思うこともなければ、大した関心もなかった。 ——だから、南の方がこんな感じなんて知らなかった。 最初の方から新築と見間違う建物ばかりの北や東と違って年季が入ってる建物が目についた。進めば進むほど、雨に削れたように色褪せ、錆び。火事にあったように黒く煤け、汚れ。地震に見舞われたように剥がれ、崩れ。誰か住んでいる家なのか、もう誰も住んでいない空き家なのか、ただの物置なのか、潰れてそのまま放置されたお店なのか、それとも営業してるお店なのか、一目では判別できない腐蝕した建物ばかりになっていって、異世界に迷い込んだみたいにきょろきょろとしきりなしに左右に首を振る俺とコバをそれらは両脇からジロジロと見てくるようだった。 なんかの儀式みたいに水の入ったペットボトルが多数並べられていたり、捨てればいいのに魚が入っていたような発泡スチロールやスーパーの買い物カゴが転がっていたり、直せばいいいのに割れた窓ガラスに新聞紙を貼り付けて応急処置したままだったり、俺には理解できない光景ばかり広がっている。なにより、どこから放たれてるのか出所が掴めない、猫なのか、人間なのか、おしっこのような匂いが俺を悩ませた。抜け出せたかと思ったらまた鼻を塞いできて、陰湿に俺のメンタルと鼻を虐めた。 太陽は変わらず真上にあるが、少し遠かったように思えた。 中間地点の学校前にいたときより、空も町も薄く鼠色の膜が覆ったみたいにワントーンぐらい暗くなった気がした。 南は、お世辞にも綺麗とは言い難い場所だった。長居したいと思えるほど居心地が良いとも言えなかった。 「あそこが健輔の家?」 俺が訊くと、やまぶーは複雑な表情を浮かべながら頷いた。横でコバが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。 健輔の家はやさぐれたように雑草が蔓延る空き地の隣で、気まぐれに降る雨が染み込んだまま黒ずんだようなしみったれたブロック塀に囲まれていた。 くすんだクリーム色の外壁の所々が火事で焦げたみたいに真っ黒に汚れ、頼りないトタン板の庇に守られた小さなベランダの手すりが赤く錆びれ、ブロック塀を越えたたぶんリビングに面してる窓の上部に貼られた新聞紙がやけに目立っている木造平屋建ての家だったが、ここまで見てきた家の中で比較的に軽い地震なら耐えられそうなしっかりしてる家だった。 やまぶーが指差して健輔の家を教えてくれる前から聞こえていていた女の人と男の人が怒鳴り合うような声が、家の全貌お披露目に近づくたびに比例して大きくなり、黒ずんだブロック塀の前でやまぶーが躊躇いがちに足を止めたことで、俺は声の発生元が健輔の家だと知った。 「だから払うって言ってるじゃない!」 「なんだその言い方!え!?あんた三ヶ月も家賃払ってないんだぞ!」 「まとめて一週間後にお支払いしますって電話したよね!?苦しいから!その日にならないと払うのは厳しいって!アンタそれでいいよって言ったじゃない!!」 どうしてそこに置かれているのか理解できないゴミ箱と片付ければいいのに用無しの植木鉢が転がっている玄関のすりガラスの引き戸を開けて身を突き出した、ボサボサの髪とよれた寝巻き姿を人の目に晒すことを気にもしない様子で腕を組んで険しい顔をしている中年女性と後ろ姿しか見えないが白髪頭でやや腰が曲がったお爺さんが少し感情的になって言い合っていた。 状況が状況なだけに入りづらく、月並みの正義感で仲裁に入ってうまくおさめられる気もしなくて、俺たちは倒壊しかかってるブロック塀の間で立ち尽くして様子を窺うことしかできなかった。 するとふいに腕を組んで徹底抗戦状態の中年女性の後ろから健輔の顔がひょこっと現れて、パッチリと目が合った。健輔は驚いたように目を見開き、そのまま一瞬固まったが、すぐ中年女性と似たような険しい顔つきに変わった。そして健輔は言い合いをする二人の横を空気のようにすり抜けて、俺たちを蹴るような足取りで俺たちのとこにやって来ると、 「なんでここにいんだよ」 一息つくこともなく荒々しく眉を顰め言ってきた。 「やまぶーに教えてもらって」 俺が親指でやまぶーをさすと、健輔の眉間の皺が何本か増えた。 そのやまぶーと重なって隠れていたいたコバが後ろから恐る恐る顔を出すと、健輔の眉間の皺は濃く深まった。 「勝手に来んじゃねぇよ」 健輔は凄むように俺たちを睨みつけてきた。 「来んじゃねぇよって、オマエがなかなか来ねぇから迎えに来たんだろうが。わざわざ」 「頼んでねぇよっ。そんなこと!」 予想外の怒号と剣幕に、俺は驚き、一瞬硬直しかけたが、 「っなんだよ、急にデケェ声出して。そんな怒ることか?」 すぐ半笑いで茶化すように返せば、 「いいから帰れよ!」 と巻き舌ではねつけられた。 そしてさっきよりも理不尽に、さっきりよりも荒んだ目で睨みつけられ、その目のあまりの鋭さに俺は頬の辺りでも切りつけられたような感じがした。 「っ……今日どうすんだよ?渓こ——」 「あとで行くから早く帰れよ!」 悠然を取り繕いながら食らいついても、健輔は家まで来た俺たちを歓迎することもなければ、待ち合わせに遅れた謝罪もなく、しっしっと乱暴に手を払い、頑なに追い返そうとする。 「帰れ!」 俺たちが汗を流しながら歩いてきた道を指差して、同じ言葉で追い打ちをかけるように怒鳴られた俺たちは呆れと困惑に帯びた顔を見合わせて、健輔の望み通りに家を離れた。 「あんな怒ることか?勝手に家に来られることが!」 来た道を後戻りしながら文句を垂れ、怒りなのか、熱中症なのか、どっちかわからないが軽くめまいを起こした俺を宥めるように、 「家に友達を呼ぶのも連れてくんのも嫌がるんだよ、健輔」 やまぶーは健輔の家に向かう前に言っていたことを繰り返し言った。 「状況もアレだったし……」 「それを考慮したとしてもひどくねぇか?」 「俺も来たからじゃない?」 コバが横から意味ありげな視線を放り投げてくる。 それに呼応するようにやまぶーと俺は視線の理由を尋ねる視線を返す。 「俺のママ、健輔のお母さんとなんか仲良くないみたいだから」 「なんで?」 「知らない」 情報提供をした本人にそう言われてしまえば、知る由もない俺たちはその情報を手放すしか無かった。 「まぁお前のおっとりお母さん、あのカンジの人とは合わなそうだもんな」 まだ微かに怒号が聞こえる背後を親指でさせば、コバは口をひん曲げて同意するように首を縦に振った。
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