前触れの夏

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この坂道をもう少し登った先に家があるコバとはいつものように俺の家の前でお別れをし、重い玄関のドアを開けた。 途端、外の熱気よりはるかに冷たい空気が俺を纏う。 「いい?ちゃんと五時にはお家に帰ってくるのよ」 「わかってるよ。短いはりが五のとこで、長いはりがいちばん上にきたらかえるんでしょ?」 「そう。長い針が十二のとこに来る前にお家に帰ってこなくちゃダメ。川の中にも入っちゃダメ。あぶないから」 「うん」 一瞬、ただいまと言おうか迷った。が、ただいまとぼそっと言った。 踵を踏みつけるように靴を脱いで、そこで気づいた茶色く汚れた靴下を隠しながら、母さんに帽子を深く被せられてる異父弟の紘斗に背を向けて避け、通り過ぎ、俺は玄関を上がって左手側のリビングルームに通ずるドアではなく、二階への階段の方へ向かった。 「二階上がる前に手洗いうがいしなさいよ」 だけど途中で母さんに捕まってしまった。不覚にも従順に止まる、俺の足。 「まさかあんた寝るつもりじゃないよね?」 「寝ねぇよ。たぶん」 「寝ないでよね。夜眠れなくなるでしょ」 なんで睡眠のことまで指図されなくちゃいけないんだ、と思いつつも、今寝てしまうと夜眠れなくなるのは事実だったので俺は何も言い返せなかった。 「遊びでも行ってきなさいよ。いい天気なんだから」 「めんどくさい」 「え、なに?仲間はずれでもされてんの?」 「誘われたけど断った。なんか幽霊屋敷に行くって張り切ってた、健輔」 耳の穴をほじくりそう言えば、母さんは紘斗の帽子の紐のねじれを直していた手を一瞬止めて、呆れ返った表情で深いため息を吐きながら首を振った。 「…ったく、なんであんなとこ行きたがるんだろう。あんたは行かないでよ。慧人」 「行かねーよ」 「呪われたらこわいもんね」 「ちげぇわ。こわくねぇわ。あんなもん」 すぐさま否定すると母さんは弟の方を向きながら、あははと笑った。 「今からあたし夏祭りの準備で学校に行かなくちゃいけないから。帰ってくるの遅くなるかもしれないから今日は来々軒で出前とっておいて」 「何食べんの?」 「いつもの。醤油ラーメンと手羽先と高菜チャーハン」 「ん」 それなら紙に書かなくても大丈夫だなと、俺は何時に頼もうかと時間を逆算しながら考えていた。 敷地面積が広いという単純な理由で毎年俺が通ってる森川中学校の運動場で地域と学校によって開催されている夏祭りは、四方町きっての夏の一大イベントで、転校してきた年からずっと俺も足を運んでいる。地元である母さんが生まれたときから続いている祭りらしく、今年PTAの会長になり、めでたくその祭りの提供者側になった母さんは七月に入ってからずっと学校に通う日々を送っている。 「よし、おっけ。気をつけて遊んでらっしゃい」 「うんっ!」 元気よく返事をした紘斗の手には小さな釣竿と玉網があり、東側にある渓谷の川に釣りにでもいくんだなと聞かなくとも推理できた。そのとき。 「おーい、またやられてるよ!」 唐突に玄関のドアが開き、間延びした声を出しながら黒縁眼鏡をかけたお義父さんが慌てた様子で入ってきた。 「また?」 思わず俺は声を出してしまった。 母さんが応えるべきとこなのに。 「そうなんだよぉ、今年はバンパー。夏休みに入ったらすぐ家族みんなで旅行に行こうと思ってたのになぁ……酷いよなぁ、慧人」 「…あ…うん…」 俺はぎこちない返事になって、首を傾けのぞき込むようにこっちを見るお義父さんの柔和な顔から廊下の床へ視線を落とす。 「去年はサイドミラー。なんで車ばっかやってくんだろ?そんなにおれたちの車気に食わないのかな?デカいから?それにこんな修理するのもツラい夏に毎年……はぁ……夏がよっぽど好きなんだなぁ」 宙へ視線を漂わせ、お義父さんは半ばひとりごとのように言っていく。ところどころ、天然発言があったような気がするが、スルーしていこう。 「いいかげん警察に被害届け出さなきゃね、ママ。三年連続だからね」 「そうね」 母さんは膝を鳴らして立ち上がる。 「おれが出しにいくよ。どうせ暇だし」 「あたしがやるから」 母さんはお義父さんの顔を見ず申し出を断り、 何かを待つように玄関のドアに視線を合わせた。 ここに来た当初は掛けていなかった鍵も、最近はしっかりと閉めている。理由はもちろん毎年この夏に起きる不審な襲撃があったからだ。三年前から突如始まって、誰が、いつ、なんでこんなことをするのか、未だにわかっていない。車に大きな傷をつけられたり、サイドミラーにペンキが塗られていたり、車に被害があるだけでそれ以外のことは何も起きていないからと、いまのところ被害届を出してはいない。でも、俺はもうそろそろ出した方がいいんじゃないかと思っていた。だって不気味すぎるし、やすやすと夜も寝てられない。特に夏は。 そのとき、ピンポーンとインターホンが鳴り、はーいとすぐ返事をして母さんが玄関のドアを開けると、紘斗の友達が二人いた。 その顔には見覚えがもちろんあって、どちらとも瑞希の弟たちだ。樹希(いつき)と陽希(はるき)だ。あそこはみんな名前の最後が“き”で終わるから覚えやすい。樹希は俺より二個下の小学五年生で大人しい瑞希とは正反対のやんちゃなわんぱく少年で紘斗と同じ小学一年生の陽希は少し瑞希と似ていて人見知りをする内気な感じがあるが、こちらも負けず劣らずのわんぱく少年だ。 「今日もうちの紘斗よろしくね」 「はーい。紘斗行こうぜ」 母さんに背中を押され、「行ってきまーす」と紘斗が家を出ていく。その姿を見ていたお義父さんが紘斗に声をかける。 「なんだ釣りに行ってくるのか?」 「うん。パパからもらったお魚つれていくの」 「お魚?……あ、ルアーか」 やり取りを見ていた俺に気づいたお義父さんが、「あ、慧人。おまえのもあるぞぉ。今、取ってくるからな…!」と張り切ったように言い、ついでに汚れた手も洗ってこようという申告を俺になぜかしてお義父さんは奥の部屋に走っていった。 お義父さんや紘斗と違って母さん同様釣りはあまり好きじゃないし、いらないと思ったのだけれど、走っていくお義父さんの少し小太りな背中を見ていたら俺は言えなかった。と、そのとき。 「お兄ちゃん行こう!釣り!」 異父弟の紘斗から誘いを受けた。 あまりにも純真な笑顔を向けてくるから、俺は落ち着かなくなって、目をそらしたくなった。というか、そらした。廊下の床が、また俺を迎える。 「行かない。つかれてるし」 自分が想像していたより、少しぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。 「なんで!?なんで!?なんで行かないのッ!?行こうよ!!」 紘斗は玉網の棒の先を玄関の床タイルに叩きつけ、体を揺さぶり、俺を責める。 その幼くて無邪気な姿は、少しばかり俺を苛立たせた。加えて、こうも責められる。 「さいきんお兄ちゃんヘンだよ!!」 「ハイハイお兄ちゃんはつかれてるの。遊んでもらえる時に遊んでもらおうね。ほらほらお友達待たせちゃ悪いでしょ」 早口でまくしたてて母さんは俺を責める紘斗を押し出すように外へやると、遊ぶ場所や遊ぶ友達を念入りに確認して、瑞希の弟たちと遊びに行く紘斗を送り出した。 俺は母さんがこっちへ振り向く前に二階へ上がろうと身体を反転させて駆け出そうとしたら、階段の下に置いてあるカラーボックスに二の腕を思いっきりぶつけてしまった。しかもぶつけたのが一度なにかで負傷し痛みがあった部分で俺は痛みの上にさらに痛みが重なるという激痛というには痛みが足りないが動きを封じ込められるほどの痛みに悶え苦しんだ。が、すぐに切り替え、なんとか二階へ階段を駆け上がっていった。 サボり気味の空手着を蹴り、鞄を放り投げ、俺はそのままベットに倒れ込む。クーラをつけっぱなしにしていたせいか、布団が冷たい。俺はその冷たさになされるがまま浸されていく。 なにもしたくないし、なにも見たくないし、なにもしゃべりたくもない。でもやらなくちゃいけないことはあるし、目をつぶってしまうと寝てしまいそうだし、いつかは、打ち明けてしまいたい気持ちもある。だけど――俺は干からびたミミズのようにうつぶせのまま動けなかった。 しばらくして、母さんの「行ってくるからねー。出前頼んどいてよー」という声が聞こえてきた。返事はしなかった。というかする気力がなかった。だけど代わりにお義父さんが返事をしていた。 それから少し経った後、今度はお義父さんの「慧人ー、ルアーが見つからなかったーごめーん。帰ってきてからまた探すなー。ちょっとまた仕事場に戻るから戸締りだけよろしくー。あ、冷蔵庫にスイカあるからってママが言ってたよー。食べなー」という穏やかさに満ちた声が耳に入ってきた。それにも俺は返事をしなかった。きっと寝てるって思ってくれるだろう。 玄関のドアが閉まる音が聞こえて、母さんに反抗するように俺は本格的に夢の世界へ向かおうと目を閉じた。だけど、蝉の声が近づいたり遠ざかったりするだけで、向こうにはなかなか行けなかった。 バチッと目を開けて、鼻から吐き出しても吐き出しきれない体を駆け巡るやるせない気持ちに背を押される形で俺はベッドから起き上がって、寝ることをすっぱり諦めた。 そしてなんの考えもなく、部屋の窓を開けた。学校からも見えていた田園風景がここでも見えていた。夏風に吹かれ揺れる鮮やかな緑の波はまるでアニメのワンシーンにでも出てきそうだ。この町ではおなじみの田園風景。そこから放たれるつんとした青臭い草の匂いは、おれにさみしさを感じさせる。どうしようもない、さみしさ。 誰かが言ってた。この青臭い草の匂いは、葉が傷つけられたとき、その切り口から発生させるものだって。痛みの香り、なんだって。身を守る香り、なんだって。助けを求める叫び声、なんだって。 しばらくそれらにさらされつづけて、何気なく視線を動かせば、山積みの本らしきものを抱え歩く涼介の姿を見つけた。 「涼介!」 思わず声をかければ、涼介は声の出どころを探して視線をさ迷わせる。そして窓から身を出している俺を捉えた。 「なにしてんの?」 俺は少し声を張って尋ねる。 「ゴミ捨て」 涼介も少し声を張って答えてくれた。 「お前家の近くにゴミ捨て場あるだろ。なんでわざわざこっちへ?」 「なんとなく」 表情を変えず、淡々とそう返してきた涼介だけど、俺にはなんとなくな感じはしなかった。でも追求はしない。 「こっちのゴミ捨て場、紐で縛らないと怒られるぞ。近所のおばさんがうるさいんだ」 そう教えると、涼介は相変わらず眉ひとつ動かさなかったけど、どうしたらいいのか、というような途方に暮れたような目をした。 「ちょっと待ってろ」 そんな涼介を放っておけず、俺は階段をすぐ駆け下り、玄関の下駄箱の中に置いてあったハサミと本をまとめる赤色の麻紐を持って、涼介のもとへ走った。 すると涼介は家の門の前まで来ていた。 「これで縛れよ。太いから崩れにくいよ。ちょっと赤で派手だけど、ほい」 「…ありがとう」 涼介は抱えていた山積みの本をアスファルトの上へ下ろすと俺からハサミと麻紐を受け取った。 「一人で持っていけんの?」 「ん。大丈夫」 涼介は慣れた手さばきで本を束ねていく。よく見てみると、“特進クラスの数学”“五科集中ワーク”“入試対策模擬試験”と書かれてある教材だった。 「ありがとう」 「おう」 俺は束ねられた教材からスっと視線を上げ、涼介からハサミと麻紐を受け取る。そうして束ねた教材を、涼介はまたひとりで抱えた。が、紐の縛りが甘かったのか涼介の腕の中で教材が傾いた。この様子だと紐が解けて教材が熱い地面に散らばるのは時間の問題だろう。 涼介がゴミ捨て場に持っていく前に教材をぶちまけることを心配した俺は、「おい、涼介!」そのままゴミ捨て場に向かおうとする涼介を呼び止め、少し長めに切った麻紐を教材を抱えることで出来た、教材と手のひらの小さな空洞に強引に押し込んだ。 「持ってけよ」 「…あ、あぁ、ありがとう」 俺の強引さに戸惑いながらも涼介は紐を受け取り、近くのゴミ捨て場へ、しっかりとした足取りで歩いていった。 涼介を見届けてから俺は用事もないのに誰もいないリビングに入って、ソファーにダイブする。こんな身勝手なおれをソファーは抱きとめてくれる。それからしばらく俺は死体のようにそこから動かなかった。テレビの斜め上にある時計を目だけ動かして見ると、午後十五時五十五分で、あと少しで十六時かとひとり思った。テレビのノイズ音をマイルドにしたようなクーラーの規則的な音だけが部屋の中で唸る。 そこで俺はふと冷蔵庫にスイカがあることを思い出した。金縛りから解かれたかのように体がソファーから起き上がる。ついでにと制服から近くに畳んであった自分の服に着替え、汗が染み込んだ制服をそこら辺に脱ぎ捨てる。そして欲望のままに俺は冷蔵庫のスイカを取りに行き、六つに切られたスイカの一つを食べながら、なんとなくテレビをつけた。 学校の怪談、か。夏休みが近づいているからか、テレビでは子供向けのホラー映画がやっていた。小学生の頃見たことがあるやつで内容を知っているから面白さは半減するけど、なんだかんだ見入っちゃうもんだ。幽霊に追いかけられたり、閉じ込められたり、とこれから面白くなっていくみたいな展開だったので、本格的に見るか、と俺はソファーに寝っ転がった。 スイカをもうひとつ口に放り込み、皮を皿へ投げ捨て、口を動かして動かしてスイカを味わう。それから腕で作った枕に頭を預け映画をずっと見ていたら、なんだかまぶたが重たくなってきた。そう自覚してから何分もしない内に、母親との約束を破り、俺は夢の世界へ落ちていった。
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