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翌朝、晴也の熱はまだ下がっていなかったが、子供ならまだしも、夫の熱を理由に仕事を休むのもどうかと思い、梨花は出勤の準備をしていた。
「行ってくるね」
まだベッドの中の晴也に声を掛けると、晴也は子供のように不服そうな顔をしていた。
梨花は後ろ髪を引かれる思いで玄関を出た。
鍵を閉めたその瞬間、梨花の意識が向かう先は、晴也から別の人へと移っていた。
梨花は彼の来店を心待ちにしていた。
そしてまたいつもの時間に彼が現れる。
「おはよう」
今日も爽やかな笑顔を梨花に向ける。
トレーにはパンが2つとカフェオレ。
そして今日もポケットから1000円札を出した。
「490円のお返……」
言い終える前に彼の手の平が梨花の視界に入った。梨花は緊張で震える手に気付かれないように素早く釣りを彼の手の平にのせると、彼は梨花の指をぎゅっと握った。そして言った。
「行ってきます」
頬が火照り、身体まで熱くなった。
「い、いってらっしゃい」
手を握ったのか、釣りを握っただけなのか……。
梨花はぼんやり彼の後ろ姿を見送った。
彼は梨花の密かな想いに気付いているのだろうか。気付いていて、からかっているのだろうか。
仕事の帰り道、突然目の前を車が横切り、梨花は冷や汗をかいた。
赤信号に気付かないくらい、梨花の心は浮わついていた。
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