七章 聖女の帰還

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 大きな屋敷の中、集まっていた侍女達の騒がしい声が玄関まで届いていた。 「本当に旦那様がご結婚なさるの? という事は近い内にここに奥様がいらっしゃるという事よね!」  ルグラン家の使用人達は色めき立ちながら、玄関から入ってすぐの大広間の掃除をしていた。 「だって旦那様ったらあまりこのお屋敷にはお戻りになられないじゃない? だから公爵家なのに来客もここへはほとんどないし、せっかくピカピカに磨いていても誰にも見てもらえないんだもの。だから奥様が来たらとっても素敵よね」 「でも凄く嫌な奥様だったらどうするの。何度も掃除をし直せをおっしゃるかもしれないし、真夜中に呼び起こされるかもしれないわよ」  すると、扉の装飾を一つ一つ丁寧に拭いていた侍女はあからさまに溜息を吐いた。 「あのね、二人共! 旦那様がそんな性悪女に捕まる訳がないでしょう! きっと旦那様に似合いの、お優しくて美しい奥様がいらっしゃるのよ」  ぎゅっと布巾を握り締めた侍女の後ろに目をやった侍女達は、一気に口を噤んだ。布巾を握り締めたまま恐る恐る上を見上げた侍女は、小さな悲鳴を上げた。 「あの、決して、さぼっていた訳ではございません!」  眼鏡の奥から鋭い視線が落ちてくる。侍女は思わず後退すると、それとは反対に思い切り腰に手を回された。何が起きたのか分からずにギュッと目を瞑った途端、整った顔から呆れたような溜息が溢れた。 「後ろをご覧なさい。そのまま下がれば、そのバケツを足で蹴飛ばすところでしたよ。掃除をしておいて汚すつもりですか」  とっさに振り返ると、汚れた水が入ったバケツに踵がギリギリ当たらない位置で止まっていた 。「……バケツですか。そうですよね、バケツがあったから」  その途端、玄関が勢いよく開く音がする。入ってきたのはこの家の当主ダニ・ルグランだった。侍女は自分を抱きしめている者越しにその姿と視線がかち合った。 「……私の事は気にしなくていいぞ」  そう言うとダニはスタスタと階段を上がって行ってしまう。そしてすれ違いざまに小さく笑った。 「まあ、なんだ。シモンの事を宜しく頼むよ」  侍女は顔を真っ赤にすると抱き締められている腕の中から飛び出そうと身体を動かした。その瞬間、乾いた音と共に、侍女達の呆れたような声が上がった。バケツは後ろに倒れ、水は絨毯に染み出している。その瞬間、拘束されていた身体がぱっと離され自由になった。上を見る事は恐ろし過ぎて、侍女はスカートを握り締めたまま俯いていた。 「もう抑える必要なないようですね。早く片付けてしまいなさい。それと、屋敷内だからとはいえ迂闊な噂話はしないように。お前達もですよ」  凍ってしまうような静かな声が頭上から落ちてくる。そして足音はあっという間に遠ざかって行ってしまった。 「今日の執事長も……素敵よね。ああ! 私がそこに立っていれば良かった!」  シモンがいなくなった途端、歓声が湧き上がる。シモンは再び遠くから聞こえてきた侍女達の声にこめかみを押さえると小さく頭を振った。 「失礼致します。事前にご連絡頂けましたらお迎えに上がりましたのに。もしやまた神殿から王城まで馬を飛ばされたのではないでしょうね?」  家紋の入ったカフス釦を外しながら振り向いたダニは、悪びれる事なく頷いた。 「テスラに乗った方が早いのにわざわざ馬車を使う必要があるのか?」 「大ありです。公爵家当主が王城に単騎で乗り付けるなど聞いた事がありません。それに従者の仕事を奪わないでいただきたい。それに馬も走らせなくては運動不足になってしまいます。それに! 愛馬に女性の名前を付けるのはお止めくださいと再三申し上げているのに、やはりご変更なさらないのですね」  冷静に捲し立ててくるシモンを気にも止めずダニは更に首元のタイも緩めた。 「しかしなあ、テスラもすでにその名前で自分の事を認識しているようだし、今更変えるのも可哀相だろう?」 「テスラは利口なので問題ないかと存じます。それに、馬に女性の名前を付けるような男性はモテませんよ。知られたら最後、きっと引かれます。間違いないです」 「そういうものか。祖母の名前だから大切にしたかったんだがな」 「……お祖母様を偲んでというのは十分に承知しておりますが、お祖母様もご自分の名前を馬に付けていると知ったらどうお思いになるのでしょうか」 「いつも呼べる愛する物に付けたんだ。きっと喜んでくださるさ。とは言っても祖母の記憶はないから実際は分からないがな」  あっけらかんとしたダニに軽い目眩を覚えながら、目の前に近寄った。 「旦那様のご婚約について、もう噂が流れております。人の口に戸は建てられないものですね」 「そのようだな。しかし十中八九向こうが流したんだろう」 「ジュブワ辺境伯ですか。ご息女のルイーズ様は教養高く、大変お美しいとのお噂でございますが、でも不思議と今まで縁談の話は持ち上がらなかった……。だからこの機会を逃したくないという事でしょうか」 「それは私にも分からない所だな。なにせジュブワ領はかなり閉鎖的だからな。私もまだ会った事はないし、向こうも王城の夜会には毎回不参加だったから、容姿については噂程度に受け取っておくさ。縁談の話がなかったのかも実際の所はわからないし、今日も返事を持って王城に来ていたのは当主の代わりにと長男のヴィクトル殿だけだった」 「まさかこのままお会いしないでご婚約を決められるのですか? それはあまりに無謀な気も致します。仮にも公爵家の奥方となられるお方ですよ」  それにはダニも深い息を吐いた。 「それは流石に避けたいが、このままではそうなるかもしれないな。向こうはどうあってもルイーズ嬢を連れて来たくないらしい。距離的な問題でそう言っているのならいいが、仮にルイーズ嬢がこの婚約を承諾してないのであれば申し訳ないと思ってな」 「全く、あなたはどこまで人がいいんですか。旦那様のお年ならばもうとっくに三、四人お子がいてもおかしくはないというのに。確かルイーズ様は二十六歳でございましたね。少々適齢期は過ぎておられますが、お子はまだまだ産めるでしょう。あとは旦那様の体力の方が心配です」 「俺はまだ三十四歳だ! 体力を心配されるような年じゃない」 「しかしもし本当に承諾していないとしてそのまま結婚し、ルイーズ様が子作りを拒否されたら? まあ愛妾を持つのも良いでしょうが多忙で不器用な旦那様にそれが出来るとも思えませんしね」 「私は愛妾は持つつもりはない。もしルイーズ嬢が嫁いできてくれるのなら、生涯女は妻だけだ」 「崇高なお考えですが、もしお子が出来ない場合には? あなたはルグラン家のご当主なのです。そしてご兄弟はおられないのですよ。ルイーズ様がどんな理由であれ、お子を生まない場合には愛妾も考えて頂きます」 「……まだ婚約もしていないのに話が飛躍し過ぎだ」  シモンはさも当然と言わんばかりに言いながら、眼鏡を押しながら今度は難しい顔をした。 「また少しお会いしない間にお痩せになられましたね。ちゃんとお食事は召し上がっていますか? マルクは確か料理が苦手でしたし、公務が不規則な旦那様が食事を抜いてやしないかと心配しておりました」 「マルクもちゃんと気に掛けてくれているよ。先日も真夜中だというのに私が起きた時の為にと食べれる軽食を……しまった! ちゃんと料理長に話したのか確認していなかった」 「何をです?」  ダニはソファに深く座ると背もたれに寄り掛かった。 「いやなに、最近入った使用人の中で火が苦手な者がいたようで、配慮するように伝えようと思っていたんだ。まあマルクが言ってくれると思うから問題はないだろうがな」 「使用人の一人一人にまであなたが心を砕いていたらそれこそ倒れてしまいます! そういう事はマルクに任せてください。それはそうと、火が苦手だなんてなんだかネリーを思い出しますね」  ダニの表情が明らかに固まる。シモンもはっとしたがもう遅かった。 「そうだな。ネリーは今頃どうしているだろうか。元気であればいいが。あれももう二十歳を越えている年なのだから、少しは落ち着いていればいいが」 「全く勝手なものです。突然行方不明になってしまって。あの性格ですからどこかで元気にやっています。きっとそうに違いありません」  ダニは噛みしめるように頷いた。 「私もそうだと思っているよ。それじゃあ婚約の話はこのまま進めていく。とはいっても私はほとんど神殿か視察に出ているから、ルイーズ嬢がここの女主人になる訳だ。お前には色々負担を掛けると思うが宜しく頼むぞ」 「承知しております。使用人達も来るかもしれない奥様に色めき立っております。きっと代わり映えのしない毎日に飽き飽きなのでしょうね。飾り立てる女性がいないので、そういった楽しみもないのでしょう」 「それもそうだな。婚約が決まったら、ここに商人達を招いてルイーズ嬢への贈り物でも選ぶとしようか」 「それはよいお考えですね。それにしても、またどうして重い腰を上げる気になったのですか? 正直、旦那様は親族から養子でも取られるのかと思っておりました」  シモンの良さはこうした繊細な話も遠慮なく言葉にする所だった。それはマルクにも言える事だが、実際こうした者は少ない。だからこそ、神殿でも公爵家でも人材には恵まれていると痛感していた。 「もうそろそろ果たすべき責任から逃げ回る事も出来なくなって来ただけだよ。別に結婚がしたくなかった訳でもないしな」 「でもそうお考えになるきっかけがあったはずです。違いますか?」 「お前はいつも鋭いな」  シモンは言葉の続きを待つようにじっとこちらを伺っている。本当は流して終わりにするつもりだったが、たった今ネリーについて話した事で、口が滑りやすくなっていた。 「結婚しなくてはとはずっと考えていたが、最近祈りの最中によくブリジット様を視るようになったんだ」 「……私に祈りの最中に起きる現象については分かりかねますが、それは珍しい事なのでしょうか?」 「珍しいと思う。この八年間で初めてだ。夢で視る事はたまにあっても、祈りの最中のように起きている時にそのお姿を拝見するのは妙な気分なんだよ」 「それは精霊の啓示か何かなのでしょうか?」  ダニはおもむろに首を振った。 「きっとこの心が未熟なのだろう。視なければならない事は他にあるのに、それが視えずに自分が望んだものが視えている。それでもその姿をずっと追ってしまうんだ。それの何が祈りだと思う? ただ幸せな妄想の中にいたいだけなんだよ」 「でも、それがどうして妄想だと言えるのでしょうか?」  祈りの最中に起きる事を説明するのは難しい。それは人それぞれ感じ方が違うからだ。何か映像を視る者もいれば、音を聞く者もいる。または匂いを嗅ぐ者や、全体的な情景を感じ取る者もいる。精霊からの啓示は同じ内容であっても、受け取る側によって様々な解釈が得られるものだった。 「妄想だろう。視えるブリジット様はあの頃のお姿のままなのだから」 「八年前のまま、という事ですか?」 「そうだ。たまに共に出てくるネリーもあの頃のままだよ。もし啓示として今のブリジット様を視せて下さっているなら、姿はもっと変わっているはずだろう?」  シモンは最もな言葉に頷くしかなかった。  その時、部屋の扉が叩かれた。 「なんの用です?」  シモンが少しだけ扉を開くと、侍女が困ったように立っていた。 「旦那様にお客様です。フランドルと名乗る男性なのですが、旦那様とは知り合いだから会わせて欲しいと申しております。いかが致しましょうか」 「ああフランドルか。来ると思っていたから大丈夫だ。ここへ通してくれ」  フランドルが到着する前に貴族の衣装から神官の衣装へと着替えると、心の持ちようも変わってくる。つい先程までは自身の結婚で頭が一杯だったというのに、今はもう神官長としてフランドルから受けた相談事が頭を占めている。若干気が重いが、この感情はフランドルの頼みを受けた時から避けられないものだった。勢いよく入ってきたフランドルの顔は一週間前に会った時よりもずっと痩せてしまったように見えた。  進展がない事は毎日遣いを出して知らせていた。そしてこれ以上の協力は出来ないという趣旨の手紙を送ったのは昨日の事だった。  フランドルは部屋に入ってくるなり、どんどん近づいてくる。シモンが押さえなければ目前まで迫る勢いだった。執事の制服を着ているシモンはどちらかというと薄い身体のようにも見えるが、実はかなり身体を鍛えている。フランドルは軽々と押さえられて少し暴れたが、観念したように動きと止めた。 「手紙は受け取ったようだな?」  フランドルの手には見覚えのある封筒が握り締められている。秘密のやり取りである以上、手紙は呼んだら燃やすように最後の一文に書き加えていたが、手紙は燃やされてはいないようだった。しかし今は追求せずにじっとフランドルからの言葉を待った。憔悴し、一気に老け込んで見えるが正直あまり同情する気にはなれなかった。祈りと同時進行で調べた内容によれば、リアムは約束通りフランドルの商会に多額の寄付をしていた。その金で商会が潤ったのは事実だし、実際他国との貿易に向けて動き出しているという情報も掴んでいる。それなのに商会の頭であるフランドル自身が今にも倒れそうになっているのは一体どういう事なのか。若干の苛立ちを飲み込むと、痺れを切らして先に口を開いてしまった。 「手紙を読んだのにわざわざここまで出向くとは、用件はなんだ?」  手紙を握っていた手に力が籠もる。それを視線の端にとらえていると、シモンが僅かに警戒を強めたのが分かった。  「……どうして神官長ともあろうお方が娘を見つけられないのですか。精霊は我々庶民は助けてくれないんですか?」 「身分は関係ない。それに最初に言ったはずだぞ。神殿は人探しをする場所ではないから期待しないでほしいと」 「ですが! ですがなんの罪もない娘が連れ去られたかもしれないのにあんまりです!」 「フランドル殿」 「なんでしょうか」 「この国で年間どのくらいの失踪者がいるか知っているか?」  フランドルは言葉の意味を捉えきれずに黙っていた。 「私が把握しているだけでも四百人以上の人々がある日突然姿を消しているんだ。邪気がない今でもそれだけの人数が消えているんだよ」 「だから娘一人どうでもいいと?」 「違う! だが探し出すのは難しいと言っているんだ。私が今回あなたからの申し出を受けたのは、あのままではあなたが殿下に殺されてしまう可能性があったからだ」 「私がですか? 娘ではなく?」 「当然だろう! 王族を人殺し扱いしようとしたんだぞ。どんな理由があれ、本来なら捉えられてしまう内容だ。それにリアム殿下は約束を反故にするようなお方ではない」 「それなら娘は諦めろというのですね」 「だから私兵に手がかりを探させている所だ。こちらはもう少し継続してみよう」  その時、フランドルの目から大粒の涙が溢れ出した。 「自業自得だとお思いでしょうな。娘を差し出し、売ったも同然です。でも私は沢山の者達の生活を預かっています。あのままではいずれ商会はなくなっていたでしょう。派手に儲けているように見せていても、あの時は危機的な状況でした」 「私には何も言えないが、少なくともあなたの娘が無事に帰って来る事を祈っているよ」
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