一章 国に安寧をもたらした後は……

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一章 国に安寧をもたらした後は……

 目の前には禍々しい邪気の塊が形を成し、漆黒の煙を吐き出しながら人の形を取って迫っていた。  邪気が最初に現れたのはもう遥か昔。  世界にはまだ明確な国境はなく、あちこちで争いが起きている頃だった。突然現れた邪気は蠢く黒い虫のように物凄い速さで大地を這い、全てを飲み込み蹂躙しようとしていた。  その時現れたのは四人の聖女。四大精霊の加護を受けし聖女達は背を預け、四方に向かって精霊の力を使い、大地を浄化した。四人の聖女はその場で力尽き、やがてそこに聖木が生えた。四本の蔦が捻じり合うように伸びたその幹は太く硬く強固な物となり、大樹となった。 「まさかこの大樹の周りにも邪気が集まり始めてしまっていたとは……驚きでした」  肩で息をして最後の邪竜を斬った聖騎士団長は最前線に立つ女性を見ながら声を掛けた。たった今斬ったのは大型の邪竜から派生した小物に過ぎない。それでも教団から派遣された聖騎士達ではその小物を倒すのが精一杯だった。目の前の女性が相手にしていたのはこの何十倍もの大きさの邪竜=邪気の本体。輝く水が女性の手から光の粒のように降り注ぎ、邪竜は大気を貫くような奇声を上げて消え失せていた。辺りに立ち込めていた重苦しい空気は雨粒と共に清められていく。 「聖女様? ブリジット様?」  聖騎士団長は幾分楽になった呼吸を整えながら重たい足を前に進めた。声を掛けた背は全く反応しない。血の気が引いていく身体を必死に動かしながら数十歩先の背中に手を伸ばした。  指先が触れた瞬間、赤銅の長い髪がふわりと動き、小柄な身体が倒れてくる。半ば無意識に、気絶していたブリジットを受け止めていた。 「……ん」 「気がつかれましたか?」 「……ダニ様?」  ブリジットは差し込む眩しさに目を細めたまま、目の前で祈りを捧げていた聖騎士団長を見つけて微笑んだ。 「具合いはどうですか? 今医師を呼んで参りますが何か欲しい物はありますか?」 「水を」  するとダニは準備していたとばかりにすぐに水差しを取り、逞しい腕で軽々と、それでいて繊細に半身を起こしてくれた。 「私に寄りかかっていてください。その方がお楽でしょうから」  そう言いながら水差しの飲み口を向けてくれる。ブリジットはこくりと飲み込むと、激しく咳き込んでしまった。 「大丈夫ですか? 気管に入りましたか?」  大きく熱い手が何度も優しく背中を擦ってくれる。咳き込みが落ち着いてから、もう一度口に含む程度に水を飲むと、ダニは背中の部分にクッションを差し込み起きていられるようにしてくれた。心配そうに何度も振り向きながら部屋を出ていく背を見送ってから深く息を吐いた。  正直、体力はほとんど無くなっていた。辛うじて動かせるのは指先と瞬き。それ以外は酷く億劫で、背中にあるクッションに沈んだまま目を瞑った。  この国から不浄なものは消え去った。  その手応えはあった。  聖女になってから三年。今までも浄化はしてきたし、今回の旅では半年もの間、国中を回って浄化をしてきた。しかしその全ては本体の残穢のようなものだったのだろう。大樹の前で本体と対峙した時、そこで初めて本当の邪気を見た気がした。身体の底から侵食してくるような恐怖は闇そのもの。飲まれてしまえばそこに身体があるのか見えなくなってしまいそうな程の深淵の闇。本当はすぐにでも逃げ出してしまいたかった。それでもその恐怖から逃れずにいられたのは、他でもないダニ達聖騎士団が背後にいたからだった。逃げてしまえばダニ達が確実に死ぬ。それだけがあの時、足を地面に縫い留めていた理由だった。  水神を祀る神殿に仕える神官達の一部は聖女には程遠いが、邪気を払う事が可能だった。信仰心を水神に認められた者はその神力の片鱗を授かる事が出来るのだ。そしてその力を得られた者達は聖騎士団として邪気の浄化に奔走する。そうしなければ水神によって与えられた力はまた、その力は奪われてしまうのだった。  「ブリジット様? いかが致しました!」 「大丈夫です。少し目を瞑っていただけですから」  微笑んで見せると、戻ってきたダニは力が抜けたように後ろを見た。 「宜しく頼む」  ダニの連れてきた医師は女性。もちろんそれは王太子への配慮だと分かる。白髪交じりの医師は幾分強張った表情で身体に触れてくる。そして僅かな触診と簡単な質問をすると診察を終えたようだった。 「して、ブリジット様のご様態は?」 「身体の異常はございません。数日療養すれば歩けるようになりましょう」  医師の言った“身体の”という部分が引っ掛かったのか、ダニは大きな体で詰めようるように一歩近づいた。 「異常無しと国王様に報告してよいか?」  国王という言葉に医師の肩が僅かに揺れる。ブリジットは小さく息をはくと、ダニを真っ直ぐに見上げた。  「少し先生と二人にしてもらえませんか?」 「何か心配事があるのなら……」 「月のものの相談を先生にしたいのです」  するとダニはかっと顔を赤くしてそそくさと部屋を出て行く。二人きりになった部屋の中でブリジットは今だ表情の硬い医師を見つめた。 「これで二人きりです。お話にくい事があるのですよね? 私に伝えておいてくださればあなたが隠し事をしたという事にはなりませんからご安心下さい」  すると医師はここへ来て初めて顔を歪めた。 「やはり聖女様となると人間性も出来ていらっしゃるのでしょうか」 「そんな事ありませんよ。さあご遠慮なさらずにお話下さい」 「……私は月の妖精の血を引いております。とはいっても大昔の先祖の話ですし、聖女様や聖騎士団様のような力がある訳でもございません。ですが、視えるのです」 「視える?」 「聖なる力を宿す者が、です」  ブリジットは息を飲んだ。医師は淡々と続けた。 「ここは国境付近なので王都に比べれば邪気の影響を受けてきました。ですから子供の頃に聖騎士団の方々が浄化に来ると、誰がどのくらいお強いのか視て分かってしまうのがとても恐ろしかったのです。だからこそ、きっとお戻りになられないだろうと分かるお方の事も……。そしてこの年になり、始めて聖女様を拝見した時には眩しくて、正直私にはどんなお姿をされているのかが分かりませんでした。皆は可愛らしい女性だと嬉しそうに興奮して話していましたが、今はその通りだと思います」  ブリジットは小さく頷くと医師の言おうとしている事を口にした。それをこの医師の口から言わせるのは酷な事のように思えた。 「私の中にはもう聖女の力がないという事でしょうか」  医師はぐっと唇を噛み締めながら、小さく頷いた。 「そうだと思います。私も何も感じないんです。目覚める前まではあれだけ当たり前に感じていた力が枯れてしまったのだと、ぼんやりと考えていました」  医師は申し訳なさそうに俯いていた。 「私から王都に戻り次第陛下に直接申し上げます。もちろんあなたから聞いたとは言いません。だって、そんな事が出来ると知られたら面倒な事になりますからね」  努めて笑って見せると、顔を上げた医師の目には涙が浮かんでいた。 「聖女様程の娘がおります。そうして頂けると助かります」  医師はおでこがシーツに付くほど頭を下げていた。 「お話は終わったのですか?」  医師が出ていくやいなや部屋の中を心配そうに覗いてきたダニは、入室してよいものか決めかねているようだった。 「お待たせしました。ちゃんと先生に相談出来てよかったです。内容もダニ様にお伝えした方がよろしいでしょうか?」  するとダニは大きな手を振った。 「結構です! 女性の繊細な話だったとは知らずご無礼をお許し下さい」 「ダニ様、もう浄化の旅は終わりました。役目を終えた今の私達に必要なのは休息だと思いませんか? 皆さんも、私も」 「そうですね、ごゆっくりとお休み下さい。私達も休息を頂きます。……この国から邪気が消えたのはブリジット様のおかげです。感謝してもしきれません。ありがとうございました」 「私の方こそありがとうございます。皆様のおかげで水神様から授かったお役目を無事果たす事が出来ました。でも世界から邪気が消えた訳ではありませんから、それが心残りですね」 「それはたった一人に背負えるものではありませんよ。他の国にもそれぞれの精霊神達の加護を受けた聖女と聖騎士達がおりますし、今はいなくとも必要であればいずれ現れます。私達は私達の出来る事を成したのです。過分に背負うのはお止め下さい」 「すみません、ありがとうございます」  笑ってみせると、ダニは膝を着いてきた。 「こちらこそ申し訳ございません。そのようなお顔をさせるつもりはありませんでした。ただ、ブリジット様はお優し過ぎるのです。ご十分お役目は果たされたと思っております。それにリアム殿下とのご婚約式は戻られてからすぐに執り行われるでしょうからきっと忙しくなります。今はもう少しここで療養されてから王都へと帰りましょう」 「そうですね。早くリアム様にお会いしたいです」 「報告の為に移動できる者達は先に帰しますが、殿下にはお疲れのブリジット様のご体調を考慮して、数日遅れて戻るとご連絡を入れておきますのでご安心ください」 「何から何まですみません」 「リアム様はきっと待ちくたびれている事でしょうね。本来ならご自分がこの遠征の指揮を執りたいと陛下に申し出る程だったのですから」  二人で顔を見合わせ頬を緩ませると、懐かしい王都を思い出していた。 「長い遠征でしたね。過ぎてしまえばあっという間の気もしますが、殿下とブリジット様にはお辛い時期だっと拝察致します」 「ありがとうござます。でもこの遠征には浄化の力がなくてはそれこそ命を落としてしまっていたでしょうし、リアム様もきっと分かっていらしゃいます」 「そうですね。ご聡明でご立派なお方です。では陛下並びに殿下がご安心されますように早急に早馬を出します」  ダニの退室と共に、ブリジットの顔からは笑みが消えていた。 ーー聖女の力がないのは医師に言われる前から分かっていた。  聖女の力は国の平和に関わる重大な事。でももう邪気の心配はないのだから必要がないと言い切れないのが難しい所だった。  本来はもういらない力。  それは祓った自分にだから分かるもの。でもその感覚は自分以外の国民には分からないだろう。ふとした時に、例えば悪い事や不幸が続いた時、もしからしたら邪気のせいかと心配になってしまうかもしれない。旅に出た夫や、遊びに出た子供の帰りが遅い時には邪気に飲まれたのではと怯えるかもしれない。その時、聖女がいるといないでは心の持ちようが違うだろう。もう使う事はないにしろ、力がなくなったという事実をどう伝えてよいものか考えれば考える程、気分は重たくなるのだった。 「団長、出発の準備が整いました。ダニ団長?」  ダニは部下に呼ばれて我に返った。見つめていたのは一週間世話になった町の宿の店主に礼を言っているブリジットの姿。礼を言われた方の店主は酷く恐縮し、ブリジット以上に頭を下げている。するとブリジットも負けじと再び頭を下げるのだった。微笑ましく見つめていると驚いた顔で聖騎士団副団長のカールは切れ長な目を瞬いていた。 「どうかなさいましたか?」 「いや、出発の準備ご苦労だったな。さあ行こうか」 「ああブリジット様でしたか。あれだけ礼を言う必要なないのですがね。聖女様がご宿泊なさったというだけで聖地巡礼のような大繁盛の恩恵に預かれるのですがら、むしろこの宿としてはお礼を払いたいくらいでしょうに」 「そこがブリジット様の良いところじゃないか」 「でもまあブリジット様は平民のお生まれですからね。ああしてしまうお気持ちも同じ平民出身としてはよく分かります」  カールは腰の剣の柄に触れながら先に行っています、というと部屋を出ていく。ダニは窓からもう一度ブリジットの姿を見ると部屋を出た。 「あ、ダニ様! 遅いですよ、置いていっちゃいますからね!」  宿屋の玄関を出た所ですでに馬車の近くに立っていたブリジットが大手を振ってくる。そういった仕草は貴族出身のダニからすれば珍しいものだったが、実際は好ましく感じていた。 「お待たせしました。そのご様子なら王都までの長旅も耐えられそうですね。でもいいですか、途中で具合いが悪くなったら我慢せずすぐに教えて下さいよ」 「私は信用ないみたいですね。大丈夫です、ちゃんとお伝えしますから」 「言いましたね?」 「言いました」  馬車で向かい合わせに座ったダニを目を合わせると、思わず吹き出してしまった。 「聖女様の御身に何かあれば私は悔やんでも悔やみきれませんし、なにより殿下が悲しまれます」 「私に何があるっていうんです? でも、確かにリアム様の悲しむお顔は見たくないですね」 「聖女様にそこまで思われるなんて、殿下はお幸せ者です」  ブリジットは恥ずかしくなってしまい俯いた。  リアムとは聖女になったからこそ知り合えた王子様だった。そうでなければ素敵なあのお顔を近くで拝見する事も、その素晴らしい性格を知る事もなかった。そしてその唇も。 「聖女様? お顔が真っ赤ですが」 「大丈夫です! これはそういうんじゃありません! そういうんじゃないというか、別に怪しいものではありませんので大丈夫です!」  慌てておかしくなってしまった語彙力を総動員しても立て直す事が出来なかった言い訳でも、ダニは少し心配そうに微笑むだけだった。ダニは大きな身体なのに圧迫感がないのは、きっと意図的に警戒を緩めているからなのだろう。晴れ渡った空を見上げながらブリジットの胸には期待と不安が入り混じっていた。馬車がゆっくりと動き出す。すると外では数人の若い女性達が若干騒がしくなった。とっさにダニは警戒するように窓の外を覗くと、小さな悲鳴が上がった。 「……何も異常はないようですね」 「手を振って差し上げたら?」 「手をですか? 私が? ブリジット様ではなく?」 「あの女性達はおそらく団長様を見に来られたのかと」 「ご冗談を。ありえませんよ」 「ふふ、団長様はお仕事は大変優秀でいらっしゃるのに、女性の事には疎くていらっしゃいますよね。行く先々で団長様は人気がありましたよ?」 「私は神官でもありますからそういった事はよいのです」  少し照れて珍しくぶっきらぼうに言うダニが新鮮で顔を覗き込んだ。 「でも神官様もご結婚は出来ますよね?」 「している者もおりますが、私には無縁です」 「そうでしたか。余計な事を申しました」 「私などよりも最後にブリジット様のお顔を皆に見せて差し上げてください。もうこのような辺境の町には来る事もないでしょうから」  言われるままに窓から顔を覗かせると、集まった小さな町の人々は歓声を上げながら頭を下げたり、手を振ったりしてくれる。この町は邪気の影響を強く受けていた場所の一つでもあった。来た時には町全体が生気を失ったようで、活気などどこにもなかった。それが今はこんなにも明るい顔を見せてくれている。邪気に飲まれて失った大切な人々がいただろう。失った大地も財産も。それでも人は前を向こうと懸命に生きていける。今回の遠征は人の儚さと強さを同時に知った旅でもあった。気恥ずかしさに顔を引っ込めたくなりダニを見ると、満面の笑みで首を振られる。その顔に頷くと、町を出るまで窓から顔を出して手を振り続けた。  聖女の力を失ったと知った時、国民は元聖女を王太子の妃として受け入れてくれるだろうか。リアムの愛を疑ってはいない。それでももし国民が受け入れてくれなければ、リアムには大きな負担を掛けてしまう事になるだろう。それでも今は、もうすぐリアムに会えると思うだけで胸が激しく高鳴った。
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