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——その日の午後のオフィス内。
カタカタカタカタ……
その指はパソコンのキーボードを打ち鳴らし、その目はディスプレイを流れていく文字列を追う。しかし、その頭の中には……内容など、ひとつも入ってはこない。
『私、今でも葵くんのことが好きだし、必ずまた振り向かせてみせますから!』
そう強く言い放った光里。
それは、その葵と今付き合っている自分に対する宣戦布告であり、略奪の意思すらはっきりと感じ取れるものだった。
「(……そんなこと、とっくにわかってた。だから私は、あなたのことがずっと気になってたの。誰もが可愛いと思うような、一人の女として魅力的なあなたのことを……)」
そして——。
『私がちょっとでも他の男の人と仲良くしてたりすると物凄く嫉妬されちゃったりして、疲れちゃったんです』
光里の言っていたことすべてが今、重くのしかかってくる。
「(……そう、私に対するのと同じように葵が嫉妬心を燃やしたっていうあなたのことを……ただの元カノだなんて思えなかった)」
『葵くんって……エッチうまいですよね』
「(……どうしてあなたがそう思うの?)」
頭の中で、涼しげな笑みを浮かべる光里に問いかける。
「(……ああ、葵と何度もエッチしたからだったね。元カノだもん、知ってて当然だもんね)」
そして行き着くのは、虚しい納得。
葵がするセックスは、自分だけのものじゃなかった——。
『苦しいぐらいドキドキしてるのは俺も同じってこと』
……そう言って底なしの安心を与えてくれた、ひたすら甘くて優しかったあの時間。
思考力が頭の中から消えてしまえばいいのに、とこんなにも強く願ったことはない。何も考えず、ただ目の前にある幸せだけを見つめていられたら、どれほど楽だろう。
そう、だからもう何も考えなくていい。
何も……。
カタカタと打ちつけるキーボードの音が不快な音となって外から鼓膜を叩く。ディスプレイを流れる意味不明な文字列は、見ているだけで目眩がしそうだ。
そんなフワフワとした意識の中、唐突に神経質っぽい不快な声が綾乃の耳をつんざいた。
「……あら? なに、この書類。ちょっと! 藤崎さん!!」
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