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なんでこうなった
上條舞琴、26歳、お一人様。
ただし離婚してくれない別居中の夫あり。つまり既婚者。子供は居ない。
若くして結婚した舞琴は、日頃から男は金輪際ごめん被りたい、男とは関わりたくない、もう懲り懲りだと思っている。
だからそれが一夜限りのことだとしても、男性を求めない自信があった。それなのに、だ。
「嘘、でしょ」
カーテンの隙間から漏れる7月下旬の夏の日差し、淡いグレーのシーツの掛け布団。視界の端に観葉植物と、天井にはシーリングファンライトがぐるぐると回転している。
そんな見慣れた景色に飛び込んできたのは、どう考えても自宅で見掛けるはずがないモノだ。
「なんでこうなった……」
舞琴は起きたら素っ裸、もとい一糸纏わぬ姿で眠っていた。そして同じく一糸纏わぬ姿で、隣に横たわる男を見た瞬間、全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出す。
酷い頭痛がする中、細い細い記憶の糸を辿り、昨夜の出来事を必死に思い出す。確か友人と二人で呑んでいたはずだ。
藤野優里亜は小学校の同級生で、20年近い付き合いになる気心知れた存在だ。そんな優里亜から、久しぶりに飲みに行こうと声を掛けられ、金曜の夜だからと張り切ってしこたま呑んだ。
「んん……」
真横で寝息を立てていた男は身じろぎ、突貫工事で記憶の掘削に忙しい舞琴の身体を抱き寄せると、眉根を寄せてゆっくりとその目を開く。
「もう起きてたの?おはよ」
とろんと蕩けた甘い声で呟くと、そのまま唇は重なり悪戯に翻弄された後、名残惜しげに下唇を噛んで離れていく。
「なに、まだ寝惚けてるの?」
男は可笑しそうに笑うと、舞琴の髪を指で梳くように愛おしげに撫でて、今度はそれが当然のように唇を重ねるだけのキスをする。
この熱、この感触。本当にどうしてこうなった。
昨夜は確か酔いも回り始めた3軒目の店で、このところ忙しくて婚約者と会う時間がないと愚痴を聞かされて、宥めすかすうちに賑やかさが足りないと騒ぎ出した優里亜が、酔った勢いのまま一本の電話を掛けた。
優里亜の婚約者である高柳明宏は、自社で運営する通販サイトで全国のハンドメイド作家や職人を紹介、またその作品を独占販売する事業を手掛けるベンチャー企業の社長だ。
明宏はその日、新たに商談が成立した相手と呑んでいたらしい。
優里亜の突然の電話に気を良くしたのか、せっかくだから合流して4人で呑もうと、酔っ払い同士の勢いで見知らぬ相手と同席することが決まってしまった。
恋人やその友人が呑む場所に、仕事相手を連れてくるなんて普通では考えられないが、それをしてしまうのが優里亜と明宏である。
到着を待つ間に優里亜から聞いた情報によると、明宏が連れてくるのは、ようやく口説き落とした、露出を嫌う最近話題のガラス職人の男性らしかった。
その時既に酔いが回っていた舞琴は、職人と聞いて、どんな気難しいオッサンが来るのかと、失礼な想像をしたりしていた。
舞琴は夫が離婚してくれないからと言って、別に他の男性との出会いなんて求めてはいない。優里亜ももちろんそれは知っていたし、事情を知らない明宏も悪気があった訳じゃない。
優里亜の電話連絡から20分ほど経ったころ、上機嫌でようやく店に現れた明宏と、その商談相手で、気鋭の吹きガラス職人、上條煌耶がその場にやって来て、場の空気は一変した。
「舞琴、一緒にお風呂入ろっか」
「いや結構です」
「照れてるの?可愛いね」
意に介さない様子でにっこり微笑むと、また蕩けた甘い声でそう呟きながら、舞琴の頬を指先でつつく。
本当にどうしてこうなってしまったのだろうか。舞琴は布団を頭まですっぽり被ると、情けなさで涙も出ない己の愚行を呪いたくなった。
「なに舞琴、かくれんぼ?つーかまえたっ」
掛け布団ごと抱きしめられると、その能天気な声にイラッとして思わず舌打ちしてしまう。
そう。この男こそが、離婚してくれない舞琴の夫である。
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