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 旧姓、佐倉舞琴(さくらまこと)。当時16歳。  幼い頃に父を病気で亡くして、看護師の母親と二人の母子家庭で育ち、高校生になると母の手助けと自由に使えるお小遣い欲しさに、ファミレスでアルバイトを始めた。  慣れない接客仕事に、バイトを始めて1週間足らずで辞めてしまいたい衝動に駆られたが、周りのバイト仲間はとにかく優しくて、中でも一番優しかったのは2つ歳上の男の子だった。  ヒョロッとした長身に長い手足。野暮ったい伸びっぱなしの黒髪は、もっさりして前髪が目元を覆い、その目元には度のきつそうな眼鏡を掛けていた。  見た目ははっきり言ってイケてない。  かなり鈍臭い印象を受けるが、彼はとても手際が良く、そばについて色々教えてもらう機会が増えると、聞けば同じ高校だと言うし、なにより人の良さも手伝って会話も弾んだ。 「佐倉さんは覚えたら早いよね。呑み込みが良いんだろうね」  髪型と分厚い眼鏡のせいで目元までは表情が分からないが、くしゃっとした笑顔を浮かべると、男の子は舞琴にチェックリストを返しながらそう言った。 「ありがとうございます、上條先輩」  コンプレックスの168センチある身長も、彼の隣に並べば気にせずに済む。  背中まで伸ばした髪の毛を、頭頂部でお団子にしてまとめた舞琴は、まだ着慣れない制服とサロンを身に着けた姿で、アルバイトに励んでいた。 「先輩とか呼ばなくていいよ、2個しか違わないのに」 「いえ。2個も違うし、学校の先輩ですから」  舞琴が頑なに断ると、上條は困ったように優しく笑う。後に夫となる上條煌耶との出会いは、高校生で始めたアルバイト先でのことだった。  高校生なので毎日ではないが、舞琴は可能な限りシフトに入ってバイトに励んだ。  一つずつ確実に仕事を覚えながら、一年近くが経ってようやくバイトにも慣れてきた舞琴は、バレンタインデーに日頃のお礼を兼ねて、バイト仲間に手作りのお菓子を配った。 「上條先輩、いつもありがとうございます。これ貰ってください」  休憩室で着替えを済ませた上條を待ち伏せすると、舞琴はカップケーキとアイシングクッキーをラッピングした、可愛らしい袋を差し出した。 「え、俺なんかにもくれるの?ありがとう」  上條は少し驚いた様子で袋を受け取ると、嬉しそうに中身を見つめて、もう一度ありがとうと笑顔を浮かべた。  相変わらず見た目には頓着しないのか、もっさりした黒髪と分厚い眼鏡でイケてない見た目をしているが、さすがに一年近く一緒に働いて舞琴には、上條の良さも分かっている。 「俺なんかってなんですか。上條先輩には一番お世話になってるので、豪華バージョンですよ」 「そうなの?嬉しいな。ありがとう」  上條はまた礼を言って、大事そうにリュックにお菓子を入れると、辺りに視線を巡らせてから心配そうに舞琴の顔を見る。 「そう言えば、今日は林田さんたちはラストまでだから、佐倉さん女の子一人だよね。俺で良かったら駅まで一緒に帰ろうか」 「え、良いんですか」 「暗いから一人じゃ心配だし。駅までだけど」 「本当ですか。駅まででも助かります」  兄弟のいない舞琴だが、きっと兄が居たらこんな感じかも知れないと、上條の存在を勝手に身近に感じている。  世間話をしながら従業員通路から外に出ると、外は土砂降りで風も強い。 「あちゃー傘持ってないや」  着古した様子のダッフルコートとダボついたジーンズ姿の上條は、掌を上に向けて空を見上げている。舞琴も一緒になって空を見上げると、遠くの空に稲光が見えた。 「それなら私、折り畳み傘持ってます。小さいけどないよりマシだから、一緒に入って行きましょう」 「俺は大丈夫だし、佐倉さんだけちゃんと傘使いなよ」 「ダメです。それだと上條先輩が濡れて風邪引いちゃいます」  舞琴はそう言って折り畳み傘を広げると、背の高い上條に合わせて頭上高く傘を持ち上げるが、吹き付ける強い風に煽られて、手元から傘が飛んでいってしまいそうになる。 「俺が傘持とうか。貸して」 「なんかごめんなさい、上條先輩」 「なんで。傘に入れてくれたお礼だから気にしないで」  駅まで10分足らずの道のりを、上條が高校を卒業しても、このバイトを続ける話をしながら雨に降られて歩く。  思った以上にその時間は楽しくて、いつも歩くよりもあっという間に駅に辿り着いてしまって、舞琴はなんだか物足りなさを感じた。 「うわ、結構濡れちゃったね」  駅の改札前で傘を畳むと、リュックからタオルを取り出した上條は、汚れてないからと断りを入れて舞琴の濡れた肩にタオルを押し当てる。  ふわりと香る、自分の家と違う柔軟剤の香り。雨に濡れた上條の髪から雫が滴っている。 「上條先輩も、傘に入っててなんでそんなに濡れちゃったんですか」  舞琴もカバンからタオルを取り出すと、雨に濡れてしまった上條の腕や肩口の雫を払うように拭いてやる。  お互いにタオルで拭きあってると、自然と笑いが込み上げてクスクスと笑ってしまう。 「自分で拭いた方が早いかもですね」  舞琴が先に呟いて笑うと、上條もプッと吹き出すように白い歯を見せて、まだ拭けてなかったと、雨に濡れて額に張り付いた舞琴の髪の毛を、細長い指先が掬って耳に掛けた。 「結局ずぶ濡れだね」  上條から屈託のない自然な笑顔が向けられた時、舞琴の心臓はドキンと跳ねた。   こんなイケてなくて鈍臭そうな人なのに。咄嗟にそう思ったけれど、舞琴には分かっていた。  お兄ちゃんみたいだとか理由はつけていたけれど、優しくて、いつもさりげなく世話を焼いてくれる上條に憧れはあったのだ。  意識してしまうと急に顔が真っ赤になるのを感じて、舞琴は咄嗟に視線を背ける。上條はやはり不思議がって、どうしたのと舞琴の顔を覗き込んだ。 「佐倉さん?」 「あ……あの!上條先輩はバスですよね」  咄嗟にタオルで口元を押さえると、モゴモゴとこもる声で上條に声を掛けて一歩引き下がる。突然慌てた様子の舞琴に不思議そうな視線を向けながらも、上條はそうだと頷く。 「ああ、うん」 「私ここまで親に迎えにきてもらうので、傘持っていってください」  上條が持ったままの傘を指差すと、舞琴は咄嗟にスマホを取り出してメッセージを打ち込んだ。 「え、そんなの悪いよ。佐倉さん」 「良いんです!上條先輩が風邪引いたら大変だし。じゃあ私向こうなんで行きますね。傘はまた次シフト被った時で大丈夫ですから」  初恋に気づいた日は、走って逃げ出した土砂降りの雨の記憶。
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