3145人が本棚に入れています
本棚に追加
43
陽が落ちて夜になっても蒸し暑さは変わらず、そんな中を歩いて会社の最寄駅近くの居酒屋に向かうと、冷房の効いた店内に思わず顔が緩む。
課長と太田が予約の確認を済ませている間、山野や宮村に断りを入れてスマホを取り出すと、舞琴は煌耶からの返信をチェックする。
【たまにはゆっくりしておいで。迎えが必要なら気を遣わず連絡して。いや、心配だから迎えに行くし必ず連絡して来てね】
煌耶らしいメールの内容につい笑顔になると、山野がすかさずなにかあったのかと声を掛けてきた。
「旦那さん大丈夫だった?やっぱり帰って来いとか」
「いえいえ。たまにはゆっくり飲んでおいでって」
「めっちゃ理解あるね。あー。私も早く結婚したい」
「山野はアレだろ、玉の輿目指してるから無理だろ」
「違いますよ、目指してないですよ。高望みもしてないし、普通に優しい人ならいいんです」
個室に案内されながら、太田が山野を揶揄って、課長や宮村も可笑しそうに笑っている。
課長には小学生と幼稚園児の子どもがいて、宮村は長く付き合ってる彼女が居るらしい。太田と山野はフリーで、なら付き合えばいいと揶揄われると、二人揃って吐きそうな顔をした。
舞琴はその場で煌耶のことをあれこれ聞かれるかと思っていたが、意外にも配慮してくれたのか、根掘り葉掘りと質問されることはなかった。
「良かった。ちゃんと食べてるね。焼き小籠包美味しいよ。もう食べた?」
山野は取り箸で色々と舞琴の皿に盛り付けると、仕事の話で盛り上がる男三人を見ながら、飲む時くらいやめたらいいのにねと苦笑いする。
「ありがとうございます」
「全然いいよ。たまにはいいもんでしょ」
「ふふ。山野さんとこんな風にお話しできるの嬉しいです。いつも声を掛けていただくのに、なかなか顔を出せなくてすみません」
「そんな、謝ることじゃないから。でもたまにはこうやって息抜きしようね。息抜きになるか分かんないけど」
「はい。嬉しいです」
山野はなにか聞いてくる訳でもなく、そんな風に言ってくれた。それだけで信用できる人だと思うのは危険だろうか。だけど聞かない優しさは、今の舞琴には純粋に嬉しいことだった。
「上條、山野に付き合って飲んだら潰れるから、気ぃ付けろよ」
「ちょっと、太田さん言い方」
「だってお前いつもベロベロじゃん」
「そうだな。上條、山野の飲み方だけは真似するなよ」
「宮村さんまで」
山野と太田、宮村が三人で騒ぎ出すと、課長がテーブルの向こうから手を振っている。その姿が可笑しくて、ぺこっと頭を下げながら肩を揺らすと、課長も同じように肩を揺らした。
この仕事に就いて良かったと思う。バイトを始めた時もそうだったけど、自分には向いてなくて辞めてしまいたくなる瞬間がたくさんある。
だけどこうして周りの人に支えてもらってることを実感すると、せめてこの人たちの期待は裏切らないようにしたいと思うようになる。
「そう言えば、羽多野さんとは上手くやってる?」
山野が思い出したように舞琴の顔を見ると、他の三人も同じようになぜか困ったような顔をしている。
「上手く、出来てるとは思います。怒らせたりはしてないと思うんですが。羽多野さんて、もしかして気難しい人なんですか」
「違う違う。人当たりは良いけど、アイツ女グセがめちゃくちゃ悪いの」
太田が顔を歪めるので、舞琴はようやく質問の意図を理解する。確かに距離感が近くて、可愛いだのと声を掛けてくることはあるが、客あしらいで慣れていて、そこまで思い至らなかった。
「今のところ、そういう扱いを受けてる感じはしないので、大丈夫だと思います」
「ちょっとでも不快に感じたらすぐに言えよ。俺たちに言い辛かったら山野で良いから」
「そうだよ上條さん。我慢して一人で抱え込まないようにね」
「はい。分かりました」
宮村と山野があまりにも真面目な顔をするので、舞琴は意識を改めて気を引き締める。
「羽多野といえば、成伊商事の北澤も厄介だよな」
「ああ、北澤さん」
知らない名前が出てきて舞琴が困惑していると、それは大丈夫だと、それまで静観していた課長が突然会話に入ってきた。
「上條さんはうちの大事なメンバーだからね。俺から営業に釘刺してあるから、万が一、羽多野から成伊商事に行くと言われたら、すぐに報告して」
「そんなに気を付けないといけない人なんですか」
「そうだね。女性関係に関してはあまり良い噂は聞かないね。営業の子も何人かセクハラされてて、問題になってるんだよ。だから今は男の羽多野が担当してる」
「そうだったんですか。成伊商事の北澤さんですね、覚えておきます」
最初に羽多野につくことになった時、皆がやけに渋い顔をするので、おかしくは感じていたが、やっと理由がはっきりした。
課長の話では、当初営業からは女性社員の安田が担当として舞琴につくはずだったが、ギリギリになって羽多野に交代になった理由までは分からないという。
少し不穏な空気を感じないこともないが、皆が気にかけてくれているので、積極的に細かいことでも相談していこうと心に決める舞琴だった。
最初のコメントを投稿しよう!