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今日起こったあらましを伝え、迎えに来て欲しいと連絡したら、了解連絡の後、想像していたよりも早くスマホが震え、思っていたよりも冷静な声がスマホの向こうから聞こえて来た。
『お待たせ。下に着いたけど、挨拶しに顔を出そうか?』
「わざわざ迎えに来てもらってごめんね。課長たちが下まで一緒に降りてくれるから、下で待っててくれて大丈夫だよ」
『そうか。じゃあ長くは停めておけないし、早めに降りて来てくれるかな』
「分かった。じゃあまた後で」
電話を切ると、煌耶が迎えに来たことを伝えて、課員皆が舞琴に付き添ってエレベーターで一階に降りる。
「ご主人になんとお詫びしたら良いだろうね」
課長が舞琴の腕を見ながら申し訳ないと頭を下げるので、咄嗟に頭を上げるように返す中、山野たちが騒ぎ出したので視線を移すと、煌耶が車から降りて既に玄関口に立って待っていた。
「おい、あれってKO-YAじゃないか?」
いち早く気付いた太田が不思議そうに呟いた。課長や宮村、山野も同じように驚いた様子で、場違いな人物を珍しそうに眺めて、脚が長いだのと騒いでいる。
舞琴が煌耶に声を掛けようとすると、それを制するように強い目線だけが飛んできた。
「妻がいつもお世話になっております。上條です」
煌耶は舞琴が紹介するよりも先に頭を下げると、舞琴の腕に気が付いたのか、少しだけ表情を曇らせる。
一方で4人は煌耶の挨拶に驚いた様子で、一瞬言葉を失ったように固まっていたが、課長が真っ先に頭を下げて煌耶に挨拶をした。
「課長の友永と申します。この度はこちらの管理が行き届かずに、上條さんには怪我までさせてしまい、大変申し訳ございません」
課長に続いて他の3人も頭を下げる。舞琴が困惑して4人と煌耶を交互に見つめると、煌耶は分かってると微笑んでから、頭を上げてくださいと声を掛けた。
「謝罪なら別の方から受けるべきことですので、どうぞ頭を上げてください」
気遣いからではない正論で煌耶はそう言うと、あまり長居は出来ませんと、路上駐車した車を振り返る。
冷ややかな煌耶の声に全員の動きが止まる。この場に人気モデルのKO-YAが居ることだけでも驚いているのに、それが舞琴の夫だと聞かされて、しかも怒っている様子に戸惑っている。
「皆さん申し訳ありません。夫も迎えに来てくれたので、今日のところはこれで失礼します」
いたたまれなくなって舞琴が切り出すと、課長がようやく後のことは任せてくれれば良いと舞琴を労う声を掛けた。
「では、失礼します」
舞琴に目配せすると、煌耶は再び頭を下げてからビルを出て、先に車に乗り込む。
「おい上條、お前の旦那って……」
興味本位ではない様子だが、太田は車に乗り込んだ煌耶を見つめてぼそりと呟く。
「ごめんなさい皆さん。改めてご説明しますので、すみませんが、夫のことは他言無用でお願いします」
KO-YAは人気モデルで、個人情報は公になっていない。恋人どころか既婚者だと面白可笑しく騒がれるのは不本意なところだ。
「大丈夫だよ。僕らは上條さんのご主人としか会ってない。お怒りはごもっともだから、くれぐれもよろしくお伝えしておいて」
「課長……」
「ほら、待たせるといけないから。また月曜日にね。お疲れ様でした」
「はい。失礼します。皆さんもお疲れ様です」
ようやく挨拶を済ませて小走りに車に駆け寄ると、助手席に乗り込んで、窓越しに舞琴たちを見送る4人に頭を下げた。
「車出すよ」
「うん」
慌ててシートベルトを締めると、ゆっくりと走り出した車の中は恐ろしいほど静かになった。
「その腕なんなの」
「咄嗟に車から飛び出した時にぶつけて擦ったみたい。必死だったからあんまり覚えてなくて」
「……なんでそんなことになったの」
「煌耶、あのね」
「なんで?」
「営業の指導係の人に、良い噂のない取引先との接待に無理矢理連れて行かれそうになって、赤信号の時に車から飛び降りて逃げたの。あの時は咄嗟に逃げることしか思い付かなくて」
「なんでそんなヤバいやつと仕事してるの黙ってたの」
「周りは気を配ってくれてたし、煌耶はただでさえ忙しいのに、そんな程度のことで心配掛けたくなくて」
「そんな程度?」
「ごめん、そういう意味じゃなくて」
返す言葉を間違った。そう思ったが、車の中に重たい空気が流れて、舞琴はそのまま二の句を告げられずにいた。
太田だけでなく、あの場に居た4人全員が煌耶に気付いた通り、今やモデルとしてのKO-YAは飛ぶ鳥落とす勢いの売れっ子だ。
雑誌だけでなく、有名ミュージシャンのMVに出演するなど、その活躍は目覚ましく、そうなると当然のことながら、忙しくて家で顔を合わせないことも増えている。
だから言い出せなかった。いや、会話する時間すらなかった。
どんなに忙しくても可能な限りは家に帰ってくる煌耶だが、会話なんか出来る状態じゃない。
明け方にそっとベッドに潜り込んできたかと思えば、1時間と経たずに、玄関のドアが閉まるのを何度も聞いた。
そんな状態で、どうして舞琴が起きもしていないセクハラの相談なんて出来るだろうか。
確かに前々から羽多野には気を付けろと言われていたが、実害もない状況で、煌耶に変に心配を掛けてしまうのが嫌だった。一人でも頑張れていると、安心させたかった。
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