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 社会人2年目となる春を迎えると、舞琴にとっても後輩となる新入社員がフロアに心地よい緊張感を運んで来たが、営業企画課には新人は配属されず、ここではまだ末っ子の舞琴だった。 「上條さん、昨日出してくれた企画の叩きだけどさ」 「はい」  山野がチェックを入れてくれた企画書に目を通すと、まだまだこれからだと気を引き締めて、小さく息を吐き出すと、データ入力の作業に戻る。 「上條ぉ」 「はい、なんですか太田さん」 「お前大丈夫なの」  すぐに質問の意図を察して、業務に含まれないプライベートなことなので返事は濁す。 「……今は仕事中なので」 「じゃあ仕事終わったら飲みに行くぞ」  少し強引だが、心配からくる言葉なのは分からなくもない。答えに困って視線を彷徨わせていると、宮村が見兼ねて声を掛ける。 「太田、今仕事中」 「宮村さん、でもですね」 「仕事しろ」 「分かりましたよ」  太田が舞琴を気遣うのには理由がある。煌耶のスキャンダル記事が出回っているからだ。  それも初めてではない。モデルのKO-YAの人気に便乗してEmynaを売り出そうとする彼女の事務所の戦略らしいが、この2ヶ月ほど過激な記事が次々と掲載されている。  モデルのKO-YAは私生活を一切オープンにはしていない。だから既婚者だと云うことも、もちろん世間的には知られていないことだ。  Emynaとの熱愛報道が流れたことで、彼女は一躍有名になり、なにより彼女自身が熱狂的なKO-YAファンであるため、SNSなどで匂わせる投稿を何度も書き込んでいるのだ。  もちろん煌耶だけでなく、高山からも事実無根のデタラメ記事が出回る話は事前に聞かされていたが、ショービジネスの世界に身を置かない舞琴には、何がフィクションなのか分からない。  もちろんそれは煌耶の両親も、舞琴の母も同じで、先週の金曜日に2回目の家族会議を開いたばかりであるが、肝心の煌耶は否定するばかりで詳細を説明しないので、埒が明かない。  そして一昨日、またEmynaが匂わせる投稿をしたと、ネットニュースはその話題で持ちきりになった。 〈KO-YAさんのお守り預かっちゃった。ブカブカ〉  撮影するKO-YAが背後に写り込んだその写真には、Emynaが満面の笑顔で写っており、右手の人差し指に舞琴との結婚指輪をはめているものだった。  KO-YAサイドが抗議して投稿はすぐに削除されたが、リングのデザインからペアリングではないかと憶測が広がり、Emynaとのペアリングではないかとファンが騒いだ。  煌耶や高山の話では、スタッフの中になにかしらEmynaに加担している者が居るらしく、撮影中に外している煌耶の結婚指輪が、煌耶の私物から勝手に持ち出されてしまったのだと言う。  つまり盗難事件であり、Emynaも容疑者に含まれている。  だからなのか、この件に関しては水面下で動いているらしく、ことを荒立てて訴える材料がなくなっては困るので、騒ぎ立てないで欲しいと、舞琴は説得されている立場だ。  その他にも週刊誌が騒ぎ立てた深夜の密会や、同じマンションから早朝に出て来たお泊まりデートなど、舞琴の預かり知らないことは山ほどある。  けれど肝心な話を煌耶から聞くことが出来ず、またしても、夫婦関係は暗礁に乗り上げているのが現状だ。 「……い、おい。上條、大丈夫か」 「え?」 「あんまり根を詰めるな。山野の顔見てみろ。太田だってお前を心配してる。俺もな」  宮村の言葉に、ハッとして咄嗟に隣を見ると、山野は舞琴よりも苦しくて辛そうな顔をして、舞琴を気遣う優しげな目でこちらを見ていた。  同じように太田も宮村も、心配した面持ちを舞琴に向けている。  20代後半の彼らからしたら、ようやく22になろうかという程度の舞琴は、庇護の対象で酷く幼く感じるだろう。  結婚しているとはいえ、ままごとに毛が生えたような、不安定な関係性が見て取れるのかも知れない。ましてや舞琴の夫はただの社会人でなく、そこそこ名の知れた有名人だ。 「私事でご心配をお掛けして申し訳ありません。本当になんて言ったらいいか」  咄嗟に羞恥が込み上げ、恥入って頭を下げると、そういうことじゃないと呆れたような溜め息が聞こえる。 「お前は変に大人しくし過ぎだ。もっと年相応に、嫌がったり騒いだりして感情を出せ」 「でも騒ぎ立てたところで、どうにもなりませんから」 「だから、それやめろ」  宮村はあからさまに苛ついた様子でキーボードを叩くと、デスクの向こうから冷たい視線を向けて来た。 「ちょっと、その言い方はないですよ宮村さん」 「そうですよ宮村さん。今のは大人気なさ過ぎです。びっくりしたよね上條さん、宮村さんは頼って欲しいって言ってるの。もちろん私たちもね。愚痴を吐き出すだけでもいいから」 「……ありがとうございます」  なんとか声を絞り出すと、堪えていた訳でもない涙がぽろりと頬を伝って落ちる。 「ありがとうって思ってくれるなら良いの」  山野がさりげなく涙を拭って頭を撫でてくれる。 「よし。じゃあ、仕事はもう終わらせて飲み行こうぜ」 「太田は呑みたいだけだろ」 「太田さんも、宮村さんもうるさいですよ」  いつも通り、何も変わらずに構ってもらえるのが嬉しい。  考えてみれば、まだ結婚して一年半。  しかも煌耶は有名になってしまい、舞琴の存在は公表出来ない。いや、これは煌耶が意図的に舞琴を晒し者にしたくないからと、秘密にしたがって勝手にしていることだ。  煌耶は昔からそうだ。自分に自信がないからと、いつ聞いても、舞琴が離れていくのが怖いと繰り返す。  けれど現実はこうだ。舞琴の心は違う意味で煌耶から離れ掛けている。いや、霧が掛かったように、煌耶の本心を見失ってしまった気がしているのかも知れない。
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