十二話 或いは序 或いは全ての終わり

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十二話 或いは序 或いは全ての終わり

 外の街を歩く人影は無い。動くものは、動物一匹だって居なかった。  世界人口一パーセント未満を占める富裕層と二パーセントの労働者は皆、無事に月へと到着していることだろう。一年も前に。橋爪エリを含む、残された人類九十七パーセントと少しの人間により吐き出された、あらゆる言語により語られる恨みを受けながら。  しかし、一年もの長い間呪詛を吐き続けるのは、とても体力が要ることだった。世界各地に設けられた巨大地下シェルターへと向かう為に、その体力は温存しなければならない。だからエリ達『貧乏人』は、諦めてモグラの生活をしなければならない。  エリは、その生き方を選ばなかったけれど。 「どうして『貧乏人』?」  と、トワが疑問を投げかけた。マスクのキャニスターを通し、吸気可能な空気を肺に取り入れるエリは、シューシューと間の抜けた音を立てながら乱れた息を整え、質問に答える。かがめていた腰が痛い。 「月に行けない人は、みんなそうなのよ」  腰を上げると、ポキポキと音がする。四十も近くなった自分の体を酷使して、外気に触れながら作業をするのは、正直な話をするとかなり億劫になっている。だが、生きる為には必要なことだ。  人の居なくなったスーパーで、残り少なくなった缶詰を回収する作業も、そろそろ終わりが近付いている。雨風や土埃、そして雑草やツタの侵食を止められないこの大型店舗に、エリが今後長い時間を生きられるだけの備蓄はもう存在しなかった。  旧東京の西の外れにある大型スーパーの廃墟は、既に天井の一部が崩落している。獣が住み着く心配をしなくていいのは僥倖だが、しかし今を生きる人間達にとって、屋外に人間以外の生物が生息している、という考えは完全に欠落しているので、彼女はただ足元と天井に気を付けるだけである。  ライトを構え直し、リュックのジッパーを閉じて、エリは軍用ブーツを履いた足を一歩踏み出す。瓦礫の多い廃墟の街を歩くのに、それはとても実用的だった。 「でも」  トワは不貞腐れたような声で反論する。「お母さんは、貧乏じゃない」 「そうだね」 「家には電気もあるし、飲み水もある。そりゃあ、自由快適な暮らしじゃないけど……」 「貧乏は不幸とイコールじゃないの。やりたいことが出来ればそれでいいのよ」  その『やりたいこと』を自由に行う為に、潤沢な時間と資金が必要不可欠であることを承知していたが、エリはその二点については言及せず、トワにそう教えた。母親として。 「お母さんのやりたいことは?」  トワに訊かれて、エリは黙った。黙ったまま、口の端をクイ、と歪めて微笑んだ。 「トワ、あんただよ」  え? と不思議そうな声を漏らす彼を無視し、燃料の少なくなったトラックの荷台へ、缶詰をパンパンに入れたリュックを放り投げた。  外は晴れている。汚染された雨が降る合間を縫って、六日ぶりの外出をしたエリだったが、落ち着かない。体は日光を求めているのだが、いつキャニスターが効果を失ってしまうだろうか、という要らぬ心配が頭から離れず、愛しのシェルターへと戻りたくて仕方が無かった。  運転席に乗り込む前に、彼女は首から下げたペンダントに触れた。アクアマリンの色をした、一辺三センチの立方体キューブ。それは差し抜く陽光を受けて、まるで波打つような淡い輝きを放つ。愛おしそうにそれを二、三度指先で撫でてからエリは、軽トラックのドアを乱暴に開けて、運転席に乗り込む。エンジンを掛けると、自分はポンコツです、と強く自己主張する安っぽい音が、色褪せ、錆びついた廃墟の街に大きく響き渡った。  道路の舗装は脆くなり、あちこちのホログラム看板が倒れ、歩く人の居なくなった歩道ブロックを突き破って草が伸びている。自動発電機と全自動清掃機による、ゴミくず一つ落ちていない清潔さを自慢にしていたかつての街の成れの果ては、無惨だった。この荒れ果てた街で、完全電動装置に頼らない、排ガスを出して走る薄汚い四輪車が役に立つとは、誰が予想出来ただろうか。略奪の憂き目に遭わなかった、展示品の整備を丁寧に行っていた博物館に感謝しなければならない。だが、ガソリンという貴重資源を消費して走らなければならないこの車も、長くは使えないだろうと覚悟する。  何処か遠くで、建物の崩壊していく音がした。  この街が最後に略奪を受けたのは、住民がシェルターへの移動を開始する数ヶ月前だったろうか。あの襲撃が、人々にこの街を捨てる決意をさせた一助になったことは明らかだったので、もしも崩壊した建物がその襲撃を生き抜いた一棟だったとしたら、また過去が一つ消えてしまったことになる。  ハンドルを握りながら右腕を、開けた窓からブラリと垂らす。腕は風を感じる。半面体のマスクをした顔に、その風は心地よいものとして感じられないけれど。  ねえ、とガスマスクの下で、エリは声を出す。呟くような小さな声で、トラックの走行音でそれは掻き消えてしまうはずだったが、トワは「何?」と返事をする。 「帰ったら、映画でも観ようか」  先月拾ってきた、前世紀まで主流だった旧型マイクロチップ再生機による映画ソフト。二千百年代のハリウッド黄金期作品の劣化リメイクばかりで、正直な話をすれば、あまり鑑賞の価値の無いソフトデータだ。けれど、トワにとってはまだ新鮮な記憶情報だろう。  何せ彼は、エリ達人間のように、外部メモリにアクセスする手段を持たない。 「観たい!」  声を輝かせて、トワは答えた。マスクの下で微笑んで、エリは窓から空を見上げる。  朧げに見える巨大な鯨が、彼女の頭上数十メートルの青い空を、優雅に泳いでいた。  ソフトは、エリにとってはつまらないものだった。科学者として半生を過ごした彼女の目からすると、素人の目によるいい加減な考察や適当な推論により、都合のいい展開や理屈をそれらしくこねくり回し、話を進めているようにしか思えない。けれど、少しカビの臭いがし始めたソファに座るエリの膝に、ゆったりと脱力して体を預け映像を観るトワの前で、勿論そんなことは言えなかった。  自分はいつから、こんな理屈っぽい、粗を探す人間になってしまったのだろう。考えてみるが、どうにも〈アンカー〉に関する研究を始めるよりも前から、ずっと自分はそうだったと思う。  映画、小説、漫画、仮想現実体験、メモリーウェイブ。それら娯楽をどんどん積極的に吸収していた子供の頃は、そんなフィクションの世界に輝きと魅力を感じていたのだけれど。  そこまで考えて、いや、と思い直す。エリは、エンディングロールの流れる映像装置の回線を切り、目を開いた。小さな鯨は、彼女の膝の上で眠っていた。ずっと映画を観ていて、疲れたのだろう。エリは、そんな心配も必要無いのに、トワを起こさないようにそっと彼の傍を離れる。  ……トワに、疲労という概念は無い。ただ、彼というソフトウェアが人間に対して親しみを湧かせやすくする為に、彼は生物と同じ習慣サイクルをなぞる。庇護される存在になる為に。そしてその事実とシステムを理解しながら、エリはそれが暗に誘発する行動を、積極的に行っていた。  ソファに横たわる小さな鯨から、後ろ髪を引かれる思いで離れる。そうして音を立てずにエリは、シェルターの生活空間の更に下層へと続く階段を降りた。  薄暗い階段と廊下を進みながら、エリは改めて自覚する。  私は、冷たい人間じゃない。  私の心には、熱く燃え盛る炎がある。そして、夢を現実に変えようと足掻く執念と野心、情熱がある。  子供の頃、胸をときめかせ、ワクワクさせたフィクションの海に溺れていたあの時のように。  けれどそれは、未来の為ではないし、エリ自身の為でもない。  全ては、過去に託す希望の為。  そして、トワの幸福の為。  エリは限られた残り少ない時間の中で、早く〈アンカー〉を完成させなければならない。  けれど同時に彼女は、気付いていた。〈アンカー〉はもうじき、問題無く完成する。工程で言えば、あとは全体の一割にも満たない。完成の為の障壁は無い。あとはただ、作業を進めるだけだ。  なのに、この二週間ほど、作業は殆ど進んでいなかった。  地下三階に設けた、私設の研究所兼製造所。勤めていた研究所が閉鎖された時に少しずつ持ち運んでいた機材が、もう少しで成果を実らせ、結実しようとしている。予想よりも大きく遅れた開発と研究は、しかし確実に成果を出そうとしている。その偉大な発明を、誰も称賛し、認知すらしないけれど。  無造作に放り出された道具や機械、雑多なパーツ。その一つ一つの思い出を一時間以上語れるくらい、もうエリは長い長い時間を研究に費やしてきた。その成果である〈アンカー〉が、完成しようとしている。けれど、エリはそのことをまるで喜べなかった。  かつては目標であった〈アンカー〉の完成も、今は目標の為の手段に過ぎない。そして〈アンカー〉の完成はつまるところ、目標の達成が目前であることを示してしまう。  それは、つまり……  エリは薄暗がりの中で頭を振って、雑念を振り払った。手をつけようとしていた、作業台の上に乗せられた〈アンカー〉にも手をつけず、電源を落とす。バッテリーが勿体なかった。  懐中電灯で、残りのエネルギーを確認する。連続稼働をさせた場合、あと二十四時間分も保つだろうか、というところだろうと判断した。  しばらく、この地下室を閉鎖しようか。  そう考えもした。  結局答えを出せないまま、エリは居住エリアに戻り、そのまま寝室に入ってブーツを脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。短く切ったはずの髪はもうそれなりの長さに戻っており、彼女の鼻をくすぐる。最後に体を洗ってからまだ三日だが、そろそろまた洗いたいな、とまどろみながら考える。  清潔な水の消費はそれだけ自らの死期を早めることとなるのだが、今の彼女にそれを気にする余裕も、意味も無かった。  三日後。  ようやく意を決して〈アンカー〉の作成作業に着手する。それでもやはり気が乗らず、作業を進める速度は遅々としていた。  終わらせたくない。悩む度に、手が止まる。気付けば、何度か視界が滲んでいる。何回も、エリは頬を流れる涙を拭った。  ││そうして半日が過ぎた頃、センサーが異常を検知した。  ビーッという音は、聞き間違いではない。驚愕し、慌ててエリは道具をその場に放り出し、地下二層から階段を駆け上がる。どうしたの、とトワが不安そうに尋ねるも、答える時間すら惜しくて、彼女はセンサーが異常を告げた先である酸素残存弁を確認しに行った。  シェルターの内扉を抜けた正面の収納壁内部に、酸素弁とタンクはある。乱暴に扉を開けるが、目立った異常は無い。はやる心を抑え、エリは警告音の続く空間で、冷や汗を流しながら点検をしていく。そして、異常は見付かった。  送風管が破裂していた。金属疲労か、整備が甘かったか、正確な原因は分からない。  分かるのは、破裂した管を塞いで空気を溜め込むことが出来ないこと。シェルター内の空気は空気を循環・供給させない場合、三日程度で尽きること。そして、生活を維持するための空気濾過装置の生み出す呼吸可能な空気の生産量は、その消費量を上回れないこと。  エリは修理道具をその場に投げ出し、壁に背を預け、座り込む。 「お母さん、どうしたの?」  トワの、優しく気遣う、心配そうな声がした。エリは精一杯の力を込めて、引き攣り気味の微笑みを浮かべた。 「何でもないよ。もう、終わった」  そう、終わったのだ。もう全部。  エリに残された残りの人生は、あと八十時間を切っている。  ただ、それだけのことだった。  それから、エリは覚悟を決めた。  いずれ、近い内に訪れる運命だった。一年かちょっと、早まっただけだと言い聞かせる。  何より自分が死ぬことよりも、それによってトワが残されるというその事実に危機感を覚えた。研究室に篭り、エリは〈アンカー〉の作成を急ぐ。寝る間を惜しみ、彼女を気遣うトワの心配をよそに、彼女は電力さえも惜しまずに作成を続けて。  ……酸素残存弁破損から二日目の夜に、〈アンカー〉は完成した。  あとは、組み込むだけだ。一息ついたエリは、自分の首から下がったアクアマリン色をしたキューブに触れる。チェーンを外し、それも作業台に置いた。組み込み作業は、一時間もあれば終わるだろう。  お母さん、とトワの心配そうなその声に、不安の色が加わる。 「ねえ、何を」  全ての言葉を聞いてしまえば、決意が揺らいでしまいそうになる。溢れ出そうになる涙を堪えながら、エリはトワの言葉を最後まで聞くことなく、キューブとチェーンを繋ぐ接続箇所を外し、キューブを分離した。その瞬間からトワの声は消え、同時にエリの頭に鋭い痛みが走る。接続が切れた感覚だ。 「ごめんね……」  震える声で何度も謝りながらエリは、長さ三ミリサイズにまで小型化した〈アンカー〉を、マニピュレータを使いながらキューブの中へと組み込み始める。ナノテク技術の粋を集めたその結晶である、アクアマリンの色をしたキューブの中に。 「リセット装置確認良し、充電回路作動良し。……エラー無し」  完璧だった。万全の体勢で、トワを送り出すことが出来る。  母として、これ以上誇らしいことがあるだろうか?  もう、〈アンカー〉のプログラムは済んでいる。キューブへのプログラムの上書きも終わった。そして、〈アンカー〉の最初のジャンプの為のエネルギー充填も。  ……そうして、蓋となるフェイクパーツを被せ、溶接し、整形した。これでもう、傍目には完全にただの成型された鉱石を使ったアクセサリーにしか見えないだろう。 「しているの?」  さっき途切れた言葉の続き。同時に再びエリの頭に鋭い痛みが走るが、そんな様子はおくびにも出さなかった。トワは、キャップを外してから今までのことを何も覚えていない。エリは微笑み、何でもないよ、と答えた。けれどトワは、珍しく反発する。 「嘘だ。お母さんは、僕が分からないと思って、すぐに誤魔化す」 「おっ。言うねぇ」  言うね。言ってくれるね。何と言葉にしてもよかった。  ただ、息子のその成長をもう少し、母親として見守ってやりたかった。  人はきっと、自分のことを滑稽だと、或いは不気味だ、狂っていると言うだろうけれど。  狂気の尺度が相対的な観察により判別されるものである以上、孤独なエリには当てはまらなかった。  だからエリとしてはただ、あんなことあったね、あんなことしたね、と思い出を語り合い、最後の時間を過ごしたかったけれど、技術と時間は許してくれなかった。  アクアマリンの色をしたキューブは、キン、と音を立てたかと思うと、始めは小さく、徐々に大きく振動を始めて、作業台の上でカタカタと音を立て始めた。エリは静かにそれを見守っている。 「お母さん?」 「トワ。あんたのこと、本当に大好きだからね。本当に、本当に……心から」  さよなら。その言葉は言わなかった。いや、言おうかどうか迷って、少し言葉に間が出来てしまった。その一瞬を悩んでいる内に、キューブは……  ││消えた。  文字通り、音も無く消失した。まるで、初めからそこに何も存在していなかったかのように。  本当にこれで、消えてしまった。  終わってしまった。全てが。  そう実感した途端に、堪えていた涙が止めどなく溢れ出し、嗚咽が込み上げた。ううう、と唸るように泣いていたが、心臓を締め付けられるような痛みと苦しみと共に、大きな感情が頭を揺さぶる。  気付けば、抑えきれない泣き声が自分の口から漏れていた。感情の制御を知らない子供がそうするように、薄暗い地下室で大声を上げて泣く。  そうでもしなければ、心が音を立てて崩れてしまいそうだったから。  半日泣いて、カビ臭いソファで目を泣き腫らして眠る。そうして目覚めたのは、息苦しさからだった。痒い目を擦りながら体を起こし、酸素残存弁の赤いランプが音も無く点滅しているのが見える。健康に害を及ぼさない酸素濃度が限界を迎えていることを告げていた。  ああそうか、もう終わったんだ。エリは想起して、短い感慨に耽りながら、ゆっくり体を持ち上げる。  数日前に持ってきた缶詰をのんびりと開ける。賞味期限の迫った桃缶。数少ない贅沢品であり、エリの好物。何だか可笑しくなって、ちょっと笑った。  息苦しさを感じる中でもゆっくりとそれを食べて、汚染されていない保存水を入れた水筒の蓋を開け、それを一気に全て飲み干した。ポリタンクに残された最後の水を、風呂場でひっくり返して体中で浴びる。ついでに頭も体も洗うと、驚くほどに気持ちが良くなった。  そうして、やりたいことを全て終え、シェルターの内扉に掛けられたマスクを手に取り、既に結構な時間を使用しているキャニスターを交換しようとして、止める。  もうそれに意味は無い。エリは髪を掻き上げてマスクを装着し、内扉を開ける。空気換装用のチェンバーには、今まで探索に使用してきたスコップや懐中電灯、バールがあるが、もうどれも必要無い。  内扉が閉まる前に外扉を開ける。外気が侵入しています、という警告がブザーと共に響き渡るが、電源装置を切った。シェルター内の電気が全て落ち、後には静寂が残る。エリは一度深呼吸して、もう戻れない我が家を振り返ることもなく、地上へ続く階段を上る。  思い出の詰まった軽トラックの燃料は少なかった。化石燃料自体希少価値の高いもので、遠くまでは行けない。だが、もし燃料が手に入ったとして、目的地まで行くのに不都合は無かった。  一週間前に、トワと風を受けて走った道。街の全てが壊れ、廃れ、過去の遺物と化したその大通りに、エリは車を止めた。エンジンを切り、荷台に乗ってだらしなく座り、朝焼けの空を眺めた。  シェルター生活を続けてからも、その前も、色々楽しい思い出は沢山あった。  こんな世界と人生だけれど、自分の過去に、強く美しい光は確かに存在した。  けれどその光は、もう未来には無いから。  自分には、未来に未練など無い。ただ、過去の記憶にだけ光と希望はある。だからこそ、トワは生き続けるだろう。妹に対しては、少し申し訳ないと思うけれど。  もう、エリは涙を流さなかった。後悔など無かった。  ││だから、マスクを外す。  ふう、と息をついて、数年ぶりに直接肺に吸引する外気を楽しむ。随分と長い間感じていなかった、懐かしい匂いがした。濡れた土の匂いがする。ああ、雨が降っていたのかと、やっと気付いた。  この空の下での最後の思い出が、素敵なものでよかった。  そう思った途端、急激に肺が痛み始める。始めは一本の針が、すぐに十数本の針が、肺の内側から小人によって突き刺されているような激痛が走り始める。  マスクに頼りたくなくて、力一杯それを遠くへ放り投げる。がつん、と鈍い音がする。激痛を伴う咳をすると、気道から溢れた血が口から流れ始めた。赤黒いそれがエリのズボンを汚すけれど、もう気にならない。  止まらない咳と血、そして痛み。  けれどその苦痛を上回るほどの、充足と幸福感。  これでいい。これでいいんだ。エリは思いながら、最後に空を仰いだ。  慧、今からやっと行くよ。  声にならない声で呟いて。  それから……
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