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一話
桜並木の道路を抜ける。海が近いのだろう。潮風による塩害を厭う住民と市政方針により、日本の桜は生かされている。と、訳の分からないことを頭の中で浮かべては消化し、忘却していく。
そんな言葉と妄想の列挙を続ける若崎千尋のそれは、最早癖という域を超え、呼吸と同義と化している。見たものと聞いたものから直感で連想したものや言葉を繋げ、思うがままの文章や情景を作っていく。そうして百や二百も無意味な意味の塊を作った時にふと、ようやく一つだけ、漫画の製作に繋がりそうなアイデアが浮かぶ。そしてその言葉や意味を考える為に、他のあらゆる行動を停止させなければならない。だからアイデアを練っている時の千尋は、まるで動かない。
流一の運転する車の助手席に乗って、彼とはあまり会話をせず、窓を全開にした外の風景ばかりを眺めていた。視界に入るもの全てに意味と言葉を見付け、バラバラにしたり、或いは繋げてみたりして、何かロクでもないものを生み出そうとするけれど、やっぱり何も思い浮かばなかった。
シートベルトをしたままサンダルを脱ぎ、生白い足を抱えてシートに座っていると、流一がブレーキを踏む度につんのめる。危ないぞ、と注意する彼の言葉にも、生返事を返すだけだ。
平日の昼間。取引先とのスケジュール調整をして、流一はこの日有給を取った。言い訳を考えるのが大変だったと言う。ただ休む為にもっともらしい嘘や言い訳を考えなければならない職場を憂うべきか、現状無職の自分の為に平日にわざわざ休んでくれる優しさに感涙すればいいのか、悩む。そうしている間にも、千尋の頭の中には次々と言葉と思考が流れ込んだ。
全開にしたウィンドウから強めの風が流れ込む。先ほど抜けた桜並木の中で降り注いできた十数枚くらいの花びらが、車内をピンクに彩色する。
水彩やコピックでこの美しく淡いピンクを表現出来るようになるまで、自分はどれだけ絵を描き続けただろう。
一応、今日のドライブはデートである。しかし千尋は、デートらしいデートの準備などしていない。服装も、可愛らしいワンピースも洒落たストールも、おろしたてのカーディガンも格好いいパンツも、何も無い。化粧も、忘れかけていたやり方を思い出しながらファンデーションを塗り、眉を整え、薄くグロスを塗っただけ。手作り弁当などという気の利いたものを作るわけもなかった。
それでも、流一は文句など言わない。千尋がそういう人間だと知っているからだろうが、何故そうまでして自分に魅力を感じたのかと疑問に感じ、けれど怖くて尋ねることはまだ出来ず、そして少し焦燥感を抱いた。
一体自分は、何をやっているんだろう。
先日、担当の石間から連載作品の打ち切りを宣告されたばかりの千尋は、自分の漫画に想いを馳せて、彼女は流れる景色を見送り続けていた。
そんな事情を知る流一の、これは或る意味の日帰り慰安デートでもある。
到着した海岸近くに併設された、その観光地では有名な水族館。手を繋ぎ、千尋はぼんやりとしたまま流一と並んで暗い館内を歩く。
平日とあって来館者は少なく、時々騒がしくなったかと思えば、校外学習でやってきたらしい幼稚園児の集団だった。ちらり、と流一の顔を盗み見ると、彼は去っていく園児の集団を、ぼんやりと眺めて見送っている。子供が好きだと言っていただろうか、と千尋はしばらく前までの記憶を遡ってみたが、思い出せない。
セックスは、人並みにしていると思う。けれど避妊具を付けずに行うそれについて、千尋は許したことはない。
流一と付き合い始めてから半年後の一度だけ、彼はゴムをせずにセックスをしようとした。強く断っても何度かそのまま押し切ろうとした時、千尋は怖くなって、枕でしたたかに流一を叩き、その日は終わった。もう、一年半も前の話である。
それ以降、彼はちゃんとゴムをして千尋を抱く。けれど彼女は時々、今日みたいに子供を目で追う流一の横顔を見てきた。その度に、彼は子供が欲しいのだろうか、それともただあの夜は性欲に負けただけだったのだろうかと、思いを巡らせる。この疑問もやっぱり、答えを知るのが怖くて、面と向かって尋ねられてはいない。
人の肌から直接感じるあの温もりは心地よくて好きだが、体の中に自分ではない異物が勝手に入れられて動く感触は、正直に言えば好きではなかった。それでも感情が昂って思考が鈍化するのだが、しかしそれは恍惚であると同時に、千尋にとって嫌な時間でもある。考える時間が奪われてしまうのだ。
千尋の頭の中には、常に漫画がある。絵がある、話がある。心の底からの正直な話をすれば、千尋のプライオリティは恋人ではなく、漫画だ。どちらか一方を選べと言われれば恐らく、とても苦しむだろうが、最終的には漫画を選択するだろう。そういう確信が彼女にはある。
アイディア、物語、描きたいもの。
溢れてそれが止まらない時もあって、そんな時はひたすら絵を描き続ける。家事も入浴も食事も忘れて。
まるで、本能のままに泳ぐ魚のように。生きる為だけに必死になる、痛覚を持たないこの生き物と同様に。
それを知った後も流一は、自分との恋人関係を続けてくれている。時々マンションにやってきてはゴミで汚れた千尋の仕事場兼自宅の掃除をし、料理を作る。いつも、千尋が何も出来ない申し訳なさと罪悪感で押し潰されてしまいそうになる程。
けれど、それ以外の生き方が、自分には出来ない。
辛い現実だが、しかし千尋にはそうとしか思えなかった。
あ、と流一が小さく声を上げた。ぼんやりしていた千尋が我に返ると、彼はこの水族館で一番大きなその水槽の、上を見上げていた。
水槽の上から、ボンベを装着した飼育員が降りてくる。餌の時間らしい。園児が遠くから歓声を上げて、飼育員はちょっとだけ手を振ってそれに応えた。
飼育員は餌を取り出して細かく砕き、集まってきた小魚達にそれを与える。何か言葉が浮かんでこないかなとぼんやり眺めていたが、何も考え付かなかった。
彼か彼女かは分からないが、あの飼育員は羨ましい、と思う。与えれば、はっきりとそれを受け取る誰かの存在を視認出来る。魚達が感謝の言葉を口にしているとは思わないが、突然、何の労もせず振って湧いた食事に歓喜していることだろう。飼育員の与えた恵は、百パーセントの喜びを以て返される。
けれど、千尋は違った。どれだけ漫画を描いても、読者に届いて欲しいと願っても、その姿や形を捉え、面と向かって喜びの声を受け取ることは出来ない。還元されるのは、原稿料と印税だけ。SNSのフォロワーを伸ばしましょう、と担当の石間は言ってくるが、そもそもどうすれば、一秒で消費されていくネットの海で人の心を掴めるのか、千尋には分からない。漫画も、自分の頭と心に溢れる話をただ形にしていくだけだ。それが、彼女の漫画家としての存在理由。
そして、一ページ八千円、印税一冊九パーセント。プラス、イラストの依頼。それが、今の自分の価値だった。
ああ、今はゼロか。自分の価値を下方修正して、もういいや、と考え、流一の腕を引く。少し名残惜しそうに、彼は飼育員と戯れる魚の群れを眺めていた。
こうやって、漫画家は見捨てられるんだな。そんなことを考える。
この世界の総人口の、〇・〇一パーセントにも満たない人しか心配しないであろうそんな悩みを抱きながら、千尋は小さなガラスの小窓が幾つも等間隔に続く暗闇を、流一と並んで歩いた。
それから、海岸を散歩したいという千尋の我儘を聞いてくれた流一は、彼女と二人、午後三時の陽光が乱反射する波打ち際を歩く。まだ水に入るには寒いその日は、観光地に近い場所にも拘らず、人が居ない。ましてや、素足になって波打ち際をわざわざ歩く者など。
「タオル持ってきてないぞ」
「買えばいいじゃん」
「レンタカー汚すなよ」
とぼけた会話をしながら、千尋は海岸線に漂着した無数の貝殻やガラス石を拾う。
ゴミと宝物が同時に流れ着くその奇妙な場所は、季節外れの海遊びを遠巻きに見るまばらな観光客に受け入れてもらえない。海があまり穏やかではなかったからかも知れないけれど。
次、どうするの。
そんな流一の言葉が耳に届くが、千尋は無視して貝殻や綺麗なガラス石を拾っては集め、雑貨屋で見付けたガラス製のジャーポットに放り込んでいく。
彼の疑問の声が、次に自分達のすることに対する質問なのか、それとも千尋の漫画の次回作、或いは仕事そのものに関する質問なのか、その答えは曖昧にして。
私は、仕事を止めるつもりはないよ。
そう言ってしまうのは簡単だったけれど、その実、薄々気付いていた。流一は、自分を気遣っている。それ故に、筆を置けと。
今の無茶な生活を、生涯続けられる訳がない。特に千尋のような、漫画の為に生活の全てを忘れ、没頭してしまうような人間など。つまりは、一生お前を食わせてやるという宣言でもあるのだろうけれど、しかしその提案をもしも口に出されてしまったらと思うと、恐怖だった。
傾き始めた午後の太陽光が、荒れた海面に乱反射する。痛む目に手で影を作って、千尋は波打ち際を歩き続ける。
その時、キラリと光る物が目に入る。
十メートルほど先の、白波の打ち寄せる浜に落ちている何かがあった。ガラス石にも見えるが、他のそれとは何処かが違う。吸い寄せられるようにしてゆっくりと歩き、屈んでそれを指先で摘まみ、海水の染み込んだ砂の中から引き抜く。
美しい、薄い水色をした立方体の石だった。
一辺三センチ程度の立方体は明らかに人工物だった。ペンダントのアクセサリにでもされていたのだろうか、真鍮の、四角錐の形をしたカツラが六面の内の一面に吸着している。指で砂を落とすと、海水に濡れた立方体は陽光を受け、とても美しく輝いた。
その色は、何と言う色だったか。悩んでいる内に、すぐ後ろに流一がやってきて、千尋の持っているそれを覗き込む。
「綺麗じゃん。付けてみれば?」
「そうだね」
何故だか、二人でそれをずっと見つめることに気が引けて、千尋はそそくさとその立方体をガラスポットに入れた。カラン、と小気味よい音がした。
夕方になって、流一にマンション前まで送ってもらった。一泊していく予定は無いらしい。残念、と言って微笑んでキスをしてから、二人して「じゃあまた」と言って別れる。マンション前で、通りの交差点を曲がっていくプリウスを見送ってから、ショルダーポーチの他には拾った貝殻やガラス石の入ったジャーポットだけという軽装の彼女は、ポーチから鍵を出してマンションに入った。
エレベーターで四階まで登り、誰ともすれ違わないままに共用廊下を進む。そうして鍵を開けて部屋に入り電気を点けた。
先週の日曜日に訪問した流一が部屋を掃除してから、既に部屋には新たなゴミが溜まり始めている。しかしどうしようもないことに、そうした汚れた部屋こそが、自分の住むべき場所であるようにも思える。
2Kのマンション、四階の角部屋。それが千尋の仕事場であり、自宅だった。広めのキッチンにはゴミと一人用の小さなダイニングテーブル、リビングにはゴミと作業机、資料、ソファと埃を被ったテレビ。寝室にはゴミとベッド、そして洗濯をして取り込んでから畳んでいない、ただ床に放置されたままの衣服。それが、彼女の家である。間違っても、アシスタントを呼ぶことは出来ない。
今の時代になってもアナログに拘る古いタイプの漫画家である千尋は、しかしその作画がシンプルであるが故に、アシスタントを必要としていない。月刊誌での連載ばかりで、仕事に多少の余裕があることも功を奏していた。
つまり千尋には、たった一人でいつまでも漫画を描けてしまう環境が整っている。
或る種、それは職場環境としては理想なのかも知れない。しかし、仕事の為に日常生活の全てを犠牲にしなければならない彼女のことなので、時としてそれは大きな問題となる。
唯一五年間の連載が出来た『我楽多街物語』で一番勢いに乗っていた時期はSNSでも少しだけ話題に上るくらいのものになったが、しかしその頃の千尋は、寝食を忘れて三十時間漫画を描き続け、菓子パンや高カロリーの栄養食を適当に口に入れて六時間寝る、という酷い生活サイクルを一週間近く続けていた。六日と半日が経過した頃、連絡の取れなくなった彼女の危機を察して石間が救急車を呼んだ程である。実際千尋はその時、丸ペンを握りながらキッチンで倒れ、突っ伏した状態で意識朦朧とする中、フローリングにペン先を走らせていた。
人間失格。
他の漫画家はどうか、千尋は知らない。だが少なくとも彼女の場合、今更漫画家以外の仕事が勤まるとも思えなかった。
もうすぐ、『星を巡るエンバー』は佳境に入る。最終回の掲載は、四ヶ月後の八月発売の九月号である。大分温情を与えられ、引き伸ばしてもらえている方だ。
ポーチをリビングの適当な床に放り投げて、仕事の椅子に腰掛け天井を仰ぐ。
漫画を描けなかったら、またアルバイトの日々に戻ることになる。時々有償イラストの仕事をもらうことはあるが、とても安定した仕事とは言い難い。
将来、どうするの?
一度だけ流一に訊かれたことがある。その時は、何を言われているのかまるで分からず、適当に流してしまった。しかし、しばらくして仕事のことを言われているのだと気付き、千尋は一人ショックを受けていた。
流一は、必要以上に千尋の漫画家という仕事に干渉しない。それが、彼女には心地よかった。千尋の気を引く為に漫画好きと偽ることもせず、一部の有名どころを知るだけの流一。しかし漫画という職業にも理解を示してくれている。そう思っていたのだけれど。
流一は、千尋が漫画家として大成すると考えてはいないのだ。
だから結婚の話になる時、彼は自分の仕事のことをよく話す。営業としてどれだけ自分が努力しているか、正社員としてどれだけ安定しているか。そんなことばかり。だから、遠回しに仕事を辞めても大丈夫だよ、という言外の圧力を感じてしまい、千尋はそんな時、決まって当て付けのように仕事を続けてしまう。彼女なりの現実逃避だった。
その現実逃避の手段も、しばらくしたら閉ざされてしまう。美しいものを眺めて気を紛らわせるしかない、と千尋は最近思い始めていた。それはポーズ集の本であり、建築資料であり、被服資料であり。
そして今、手元には海岸で拾った貝殻やガラス石がある。
作業机の希少な空きスペースに、ジャーポットに詰められていたそれを広げる。ライトスタンドに照らされるそれらは、色とりどりの輝きを放ち、美しい。それらを眺めながら考えるのは、新しい物語のことばかりだった。
貝殻を砕いて水に溶かしたら未来が見える話はどうだろう。ガラスを食べてばかりの少女の体が、次第にガラスと化していく話はどうだろう。
どう考えても話は広がらず、肩を落とす。そんな彼女の目に、例のキューブの形をした石が入ってきた。
白熱球の明かりの下で見ると、拡散する外の陽光で眺めた時よりも色は薄くなると思っていた。しかし、水色と薄緑を混ぜたような透明感のあるその石は、透明でありながらしっかりと濃い色を放っている。他のガラス石とは、そうした点でも異なっている。おまけに、どれだけ光にスカしても、透明なようでいて、そのキューブは反対側に存在する千尋の指を映さなかった。ガラスではなく、鉱石なのだろうか、と考えるが、詳しいことは分からない。
それにしても、美しい色をしている。その色を、何と呼べばいいのだろう。
悩み、千尋は机に備え付けた手製のコピック棚に手を伸ばし、手元のキューブと同じ色を百本近くあるコピックの中から探す。色合いごとに細かく分けて管理していたその棚から、その色はすぐに見付かった。
││アクアマリン。
目の覚めるような、美しく引き込まれるその色彩に、千尋はしばらく見惚れていた。
その夜、千尋は夢を見た。
深い深い、水の中を泳いでいた。
水は何処までも続き、果てが無い。水底は、ずっとずっと下の方だ。
その光景を何故「海中」と呼ばないかと言えば、透き通るような淡い水色をしたその世界の底には、千尋が生きる地上の光景が広がっているからだ。
空を飛んでいる、という方が、或いは近いかもしれない。しかし千尋の黒い長髪は水中に浮かんでいるかのようにゆったりと揺れ、乱れ、広がっている。そして思うような速さで動かせない自身の体はハッキリと、水中に居る時の感覚を呼び覚ましている。
ビルが、公園が、駅が、大通りが、車が、学校が、病院が、限りなく透明に近い淡い水色の底に沈んでいる。
人っ子ひとり存在しない街が、確かにそこにあった。
だからその場所は、海の中とも空の上とも呼べないまま、ただ世界を飲み込む水が存在しているとしか言葉に出来なくて。
ゆっくり、ゆっくりと沈下していく千尋は、空を飛び、視界を横切っていく魚影達をぼんやりと見送っていた。
だから。
ふと水の大きく揺れ動く気配を感じると同時に、自分の体の上に影が落ちた時。
条件反射的にただ上を向く。
そこには。自分の十メートルと少し上を泳ぐその先には。
シロナガスクジラが、悠然と泳いでその腹を見せていた。
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