心乃花さんのマッチングアプリ

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「君は、小さい頃のこと、どれくらい覚えてる?」  それまで韓国ドラマの俳優のしぐさが色っぽいかについて語っていた心乃花(このか)さんが唐突に話題を変えた。横にいた杏心(あこ)が戸惑って目を瞬かせるのが分かった。  意図は分からないけれど、心乃花さんは真っ直ぐ僕を見ている。誤魔化す話でもないのだろう。 「特別なイベントより日常の一コマの方が覚えてますね」 「例えば、5歳より前の記憶はどう?」 「そうですね。僕は車に乗せるとすぐに眠る子供だったらしいです。だから、眠れない夜は車に乗せられることが多くて、目的もなく父がドライブしてくれるんです。僕は後部座席で横になって、窓ガラスに映る外灯をぼんやり眺めていました」 「そっか」と頷いた後、心乃花さんは貴重なお菓子を舌で味わうような間を置いてから「思いのほか素敵な話が聞けたな」と言った。  杏心が「姉さん、コーヒー飲む?」と尋ねた。 「まだ、大丈夫。ありがと」  僕と杏心は付き合って二年が経ち、同棲して一年が過ぎた。  杏心の二歳年上の姉、心乃花さんと会ったのは同棲をする際に、杏心の家へ挨拶した時だった。  対面したご両親の表情は妙に強張っていて、ぎこちない会話のやりとりに僕自身の表情も固まっていった。そんな中、唯一自然体で話かけてくれたのが、心乃花さんだった。  心乃花さんは実家に住んでいて、現在は休職中で日々韓国ドラマを見て過ごしているんだと話した。 「君は韓国ドラマって見る?」 「えっと……。いえ、僕はどちらかと言うとアメリカのドラマの方が多い、かもです」 「へぇ。オススメは?」  僕と心乃花さんが会話を交わすことで、杏心のご両親も肩の力が抜けたのか、表情が穏やかになって行くのが分かった。  挨拶を終えた後も夕飯を誘われて、杏心と一緒にご飯をいただいた。その際も心乃花さんは僕に話かけてくれて、杏心も一緒になって三人にで盛り上がった。内容は主に僕と杏心が出会ったマッチングアプリで、ご両親の前というののもあってヒヤヒヤした。  帰り際に杏心のお父さんが「杏心を頼むよ。あと、たまにで良いから、心乃花の相手もしてやってくれ」と言った。  意味は掴みかねたが、僕は「分かりました」と頷いた。  同棲をする際、杏心が一つだけ強く主張した部分があった。それは住む場所で、「私の実家が近いところに借りれれば、うちからお米と卵は調達して来れるよ」とのことだった。  それが魅力的だったから、杏心の実家へ車で二十分の部屋を借りた訳ではない。ただ、杏心が主張するの珍しく、僕自身住む場所にはとくにこだわりがなかった為、了承した。  杏心は二週間に一回くらいの頻度で実家へ帰り、お米や卵に野菜なんかを大量に車に乗せて帰ってきた。僕と杏心の食卓の一部は間違いなく、彼女の実家が支えてくれていた。  そんな所に住んでいることもあって、心乃花さんは月に一回の頻度で僕らの部屋を訪ねてきた。  杏心が姉を快く迎えるので、僕もそれに倣った。  僕は自分の家族と上手くいっていなかった。会う度に喧嘩するとか互いに無視しているとか、そういう訳ではないけれど、一緒にいると気を使いあって無難なやりとりしかできずにいる。おそらく、今後この関係が改善されることはないだろう。  そういう類のこじらせ方をしてしまっている。  だからと言うのは変だけれど、僕は杏心と両親や心乃花さんとの関係性を羨ましく思っている。 「姉さん、ご飯食べていくでしょ?」  杏心が言って、心乃花さんが「良いの?」と僕の方を見た。 「もちろんです」  平日の夜は基本的に僕がご飯を作るのだが、心乃花さんが来る休日は必ず杏心が作ると言った。手伝うと言うと、毎回「良いの。その代わり、姉さんの相手してくれない?」と杏心は笑う。  今日も杏心が料理をしている間、僕と心乃花さんは二人で韓国ドラマを見た。心乃花さんの影響で僕は幾つかの韓国ドラマを見て、幾つかの話題にはついていけていた。  心乃花さんのうんちくを聞きながら、コーヒーを飲んでいると、杏心が「ねぇ鍋にしようと思ったんだけど、卵がないの。シメに必要だから、買って来てくれない?」と言った。 「もちろん、良いよ」  と僕は立ち上がった。  徒歩圏内にスーパーはあるから、十五分くらいで買って帰って来れるだろうと思った。  杏心が「じゃあ、姉さんもついて行ってもらってもいい?」と言った。 「別に卵くらい僕だけで買ってこれるよ」  僕の声は杏心に届かなかったのか「ねぇ姉さん、お願いできる?」と言った。  心乃花さんは皮肉っぽく笑った。 「杏心ちゃんは意地悪だなぁ」 「卵を買ってきてもらうのについて行ってもらうだけだよ?」 「うん、分かった。良いよ」  姉妹の不可解な会話に首を傾げつつ、僕はジャケットを羽織って財布と畳まれたエコバックを持った。心乃花さんは脱いでいた薄いピンク色のカーディガンに腕を通して、二人で部屋を出た。 「そういえば、心乃花さんと外を二人で歩くって初めてですね」 「そりゃあ、そうだよ」 「ん? どういうことですか?」  心乃花さんは僕よりも先を歩いていて表情は確認できない中で、続ける。 「君と外で会うのを避けてたからね」 「どうしてですか?」 「すぐ分かるよ、多分」  心乃花さんの言わんとすることは確かにすぐ分かった。  スーパーで卵を買った帰り道、ご近所のお婆ちゃんが犬の散歩をしているのに出くわした。 「あら、こんにちは」と声をかけてきた。 「こんにちは。涼しくなってきましたね」  と答えながら、近付いてきた犬の頭を撫でた。 「そうねぇ。食欲の秋って感じよね。今日の夕飯は何なの?」 「今日は、杏心が鍋を作ってくれています。姉の心乃花さんが来てくれているので」  犬を撫で終えてから、横にいる心乃花さんを手で示した。  お婆ちゃんは不思議そうな顔をして、僕の示す方を見た。 「あ、こちらが杏心の姉の心乃花さんなんです」  改めて言っても、お婆ちゃんの反応は芳しくなかった。  心乃花さんが顔を伏せる。 「そんな人どこにいるの?」  そう言われて、僕の方こそ近所のお婆ちゃんが何を言っているのか分からなかった。
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