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3. 芸妓、娑羅
『よろしゅうおたの申します、お姉さん』
―気張りよし。
茹だるような暑い夏の日、黒い紋付の着物を来た芸妓さん達が、おばあちゃんに向かってそう挨拶したのを、小さい頃の私はただぼうっと見ていた。
―沙羅ちゃん、その白い椿のお花、拾ってこっちに持ってきてくれる?
庭で落ちた椿の花を見つけると、おばあちゃんは決まってそう言った。
『どうすんの、これ?』
―飾るんよ。おばあちゃんな、このお花が一番好きやねん。咲いてから一日しかもたへんのやけどな。
夏の間、それも6月の梅雨の間にだけ花をつけ、一日で花を咲かせて散ってしまう儚い花。
『一日で枯れてしまうん?もったいないなあ』
―そやから、ええんやないの。儚いからこそ、美しいんやで。
『はかない、て何?』
―もろい、いうことや。
そう言ったおばあちゃんの声は、どこか悲しそうだった。
「沙羅ちゃん?」
絽の単衣を着たお豆腐屋さんのお母さんが、前掛けで手を拭きながら声をかけてきた。
「その着物、素敵です。おばあちゃんが来てたのによう似てる」
薄紫色の生地に金糸が刺繍された着物を着たお母さんは、はにかんだように笑った。
「絽の小紋や。夏の和の装いやで。舞妓ちゃんの正装も、これの黒やさかいな」
「お母ちゃん。なんぼなんでも舞妓ちゃんと一緒は無理があるで」
お兄ちゃんが笑いながら言った。
そんなとき、『ただいま』と一際大きな声が聞こえた。
「帰ったで。おお、沙羅ちゃんいらっしゃい」
「おじさん、こんにちは。―あっ、お揚げさん買わんと!」
「まいど。一緒にお豆腐もどうや?」
雨はいつの間にか上がっていた。
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