1.お嫁取り

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 そこからは恐ろしいほどにまでにトントン拍子だった。まず叔母は弁護士と手を組んで可能な限り早く大叔父の遺産の一部をみちるの口座に移し、その間にみちるは変装した槙人と共に新築のマンションを見に行った。叔母の知り合いの不動産屋が一押しの物件、と胸を張るのも頷ける立地、間取りである。 「新婚のご夫婦とお伺いしております。いずれお子さまが出来た際にも狭く感じることはなく……」  全開の営業スマイルで勧めてくる不動産屋のトーク内容にみちるはいまいち現実味を見出せなくて曖昧な返事をすると、対して槙人は真剣にその話を聞いているようだった。彼にとってはすぐ目の前にある現実なのかもしれない。 「みちるさん。僕はここ、すごくいいと思います。セキュリティもしっかりしているし」 「そ、そうだね」  確かに槙人の職業上、質の高いセキュリティは必須だ。加えてみちるの職場もここなら以前より近くなる。なにより角部屋で部屋が広い。3LDKもあれば互いの部屋を持つことだって出来る。  ということで叔母の言うとおり、キャッシュで即決した。不動産屋もそれを事前に叔母から聞いていたのだろう。何度もお礼を言われながら手続きを済ませれば、これで大叔父の遺産は使い切ってしまった。  これで叔父である浩司には手が出せないだろう。何せ、現金がもうどこにも無いのだ。 「もし何かあればすぐに警察を呼んで被害届を出しなさい。叔父だからって優しさを見せる必要はないよ」  叔母は真剣な顔で言った。みちるには今の所、頷くしか出来ない。  それからさっさと婚姻届を書いた。正確に言うと槙人が自身の欄を埋めた婚姻届を持ってきたので、みちるは大人しく自分の欄を埋めたのだ。役所に提出したのはみちるである。婚姻届が全て埋まったことを見届けた槙人はどこか嬉しそうに目を細めてから、海外に撮影ロケへと向かってしまった。近々マキが初めて写真集を出すらしいので、その撮影だろう。  引っ越し作業を黙々としながら、一人では広すぎる新居をみちるは眺めた。まさか付き合ってもいない人と結婚するとは思わなかったなぁ。と呟いても、返事は返ってこない。一応書類上は井崎みちるから高洲みちるにはなったけれど、式も挙げていなければ指輪もない。職場でも旧姓を名乗るので、手続き上本社の総務部しかみちるが結婚したことを知らない状態だ。 「こんなもん、なのかなぁ」  ぽつりと呟いた。少女マンガのような甘く華やかな新婚生活を想像していたわけではないけれど、あまりにも淡泊だ。事情が事情なので仕方ないとはいえ、実感が湧かない。キッチンの整理をしている時に適当に通販で買った揃いの食器を棚に納めても、ルームシェアを始める、くらいの感覚しか抱けなかった。  すると不意にスマホが着信を知らせる。相手を見ると槙人からだった。 「もしもし?槙人さん?」 「あ!みちるさんみちるさん!」  随分と焦ったような様子の槙人に、みちるは見えないのをいいことに大きく首を傾げて眉間にしわを寄せた。すると槙人は少しばかり早口で言った。 「指輪の号数ってなんですか?薬指!」 「えっ、知らない」 「そっかぁ……」  しょげているような声音だけれど、普段から指輪を付ける人でなければ号数など把握していない。特に薬指には指輪を付けることもなかったし、こんなことがなければ予定もなかったのだ。しかしなぜ、と一瞬考えたけれど、すぐに答えは察することができた。恐る恐る、その仮定を口にしてみる。 「もしかして結婚指輪とか、買ってくれようとしてる?」 「えっと……」  突然言い淀む辺りに真実が紛れている。みちるは一つ槙人に聞こえないようため息を吐くと、なるべく丁寧に伝えた。 「あのね、そういうのはその場でちゃんとサイズを測って買うものだよ。大きな買い物なんだし、お直しとかあると大変でしょ」  今現在槙人がいるのは海外である。国内で買うならまだしも海外で買って大幅な直しが発生したら、目も当てられない。 「そっか。そうですよね」 「あと指輪なんて、いいよ。だって、」  この結婚にそこまでお金を費やす必要はない。と言おうとして、みちるは口をつぐんだ。槙人なりにみちるに気を遣ってくれたのだと思ったからだ。突然のほぼ強制的な結婚とはいえ、世間では結婚は一つの節目とも言えるだろう。それを自身の希望ではない状況で行ったみちるに同情しているのかもしれない。そう思ったら先程の言い方ではきつかったかも、とみちるは考え直した。槙人の気遣いを土足で踏み荒らしてしまった気がしたのだ。 「あの、槙人さん」 「じゃあみちるさん。ピアスって空いてますか?」 「え?ごめん。空いてない」 「金属アレルギーとか持ってますか?」 「ないよ」 「わかりました。あと3日くらいで帰りますね」  待って。という暇も無く一方的に切られた電話は何事もなかったかのように終了した。結局最後の方に彼が言いたかった事はわからなかったけれど、とりあえず突然結婚指輪を買ってくるというハプニングは事前に防げたようである。 どっと疲れながら、みちるはそれでも先ほどの槙人の行動を嬉しく思っていた。こんな形の結婚を彼はどうあれ肯定的に捉えてくれているのかもしれないと思ったのだ。勿論この結婚に賛成したのはみちるより槙人が先である。みちるはぐいぐいと強引にでも引っ張ってくれた叔母や槙人にただぶら下がっていただけなのだがら、巻き込まれた立場でいられるのだ。槙人だってそれは同じなのに、彼はまだこの結婚に関する愚痴や文句を少なくともみちるの前では言ったことがなかった。 「指輪かぁ……」 何も付けていない薬指を、みちるはぼんやりと見た。  それから数日は穏やかなもので、槙人から突然の連絡が来ることもなく、叔父の浩司から何かされるわけでもなかったみちるは、今まで取っていなくて溜まった有給を使い家の片づけに専念した。海外から帰って来る槙人に少しでも居心地よく感じてもらえるようにしたいとなんとなく思ったのだ。  そこまでする必要あるかな?と、心の中の自分が聞く。それに対して今はまだわからない。と静かに答えて、届いたカーテンをカーテンレールに通した。インテリアや家具について話し合う時間ももちろんないし、そもそも結婚する予定だってなかったのだから貯蓄だって多くあるわけではない。とりあえず有り合わせにと量販店でカーテンとローテーブルだけは購入した。もし槙人に強いこだわりがあるなら買い換えればいいのでその際に深手を負わない程度の値段のものを買っておき、各自の部屋は今まで使っていたものを使えばしばらくは暮らせるはずだ。 すると不意にインターフォンが鳴った。反射的に振り向いてカメラを見ると、サングラスにマスク、帽子を被った不審者のような出で立ちの人物が、妙にそわそわした様子で映っている。 「はーい……」  一応マイクで返事をしてみると、カメラの向こうの不審者のような槙人が小さな声で「僕です、僕」と呟いている。そう言えばまだ彼は新居の鍵を持っていなかった。慌ててエントランスの鍵を開け、念のためメッセージアプリで部屋番号を伝えておいた。 「帰ってきた……」  にわかに緊張してきて、みちるはそわそわと居心地を悪くした。ただでさえこの家がまだ自分の家である自覚がないまま、さらに自分の生活範囲に自分や家族以外の人間。厳密には書類上家族になったけれど、まだ時期的にはほぼ他人の槙人と慣れないこの場所で住むということを、みちるは一気に自覚した。彼がどんな顔でどんな声かがよく覚えている。けれどどんな人物だったかは、ほんの少しおぼろげである。  どうしよう。コーヒーとか淹れておいた方がいいのかな。食事は?と急にいろいろなことが気になってきた直後、みちるはハッとしたように自分の服装を見る。自分で見る限り至って普通の部屋着ではあるように思うが、モデルの槙人からしたらがっかりさせる服かもしれない。   「いやいや……いやいや」  自分の中のぐちゃぐちゃな感情に思い切り冷水を浴びせて、首を振って否定する。そんなこと気にしなくてもいい。普通に普通にと唱えながら無意識に深呼吸をしていると、不意にインターフォンが鳴った。 「きゃあ!」  槙人が今まさにエレベーターに乗って部屋に向かっていた事をすっかり忘れていたせいで上げた小さな悲鳴が恥ずかしくて誰もいないけど誰かに聞かれていないか周囲を見回しながら、玄関の鍵を開けた。そこには先ほどと同じく変装した姿の槙人がごくごく自然に立っていたのだ。 「ただいまみちるさん」 「あ、お、おかえりなさい」 「今日からお世話になります」 「うん。こちらこそ」  あまりにも自然にただいま、と彼が言うものだから脊髄反射でおかえりと口からこぼれ落ちた。はじめて交わしたただいまとおかえりは驚くほど自然で、すぐに互いの記憶からは零れ落ちてしまいそうなほど淡く柔かった。槙人がとりあえず、といった形で大きなスーツケースを玄関に置いたのでそのままみちるもリビングで彼を待とうときびすを返した。 「待ってみちるさん!」 「え、な、なに?」  が、すぐさま槙人に止められて、みちるは驚いて振り向く。槙人は玄関にしゃがみ込むとその場でスーツケースを開けた。大きなスーツケースはただでさえ玄関を占拠しかねないサイズだったのに、開いたことにより倍の大きさになり寝転んでいる。思わず中を見れば案外綺麗に整頓されていたが、彼はその丁寧なパッキングを慌ただしく暴き始めると、奥底から一つの小さなケースを取り出した。 「これお土産です」 「え?あ、ありがとう、ございます……」 「開けてみてください」  ここで?と思ったが、大人しくケースに手をかける。中をひらけば華奢なネックレスが一つ入っていた。シルバーのチェーンに小さなチャームがついたそれは、シンプルで控えめなデザインで、どちらかというと使いやすそうという印象である。 「うわ、いいの?ありがとうございます」 「これなら会社にもしていけますか?」 「え?」  槙人がにこりと微笑んだ。モデルのマキでは見せないような、人懐っこい甘やかな笑みである。雰囲気や見た目はクールで涼しげなのに、目元が緩むだけでこんなにも印象が違うことに、みちるは純粋に驚いた。 「結婚指輪をプレゼントしたかったんですが、それは難しかったので……。ネックレスですみません。でも指輪を贈るまではこれを指輪だと思ってもらえますか?」 「え、えぇっと」 「ほら、僕も同じの買いました。形から入るのって、大事ですから」  そう言って槙人は着ていたシャツの襟元を少し緩めると、同じデザインのネックレスを見せてくる。確かに彼くらい中性的な印象がある男性ならば華奢なネックレスもとても似合っている。シルバーのチェーンが彼の白い肌によく馴染んでおり、小さなチャームは角度によって複雑に色味を変える石が控えめに、でも時折眩しく瞬いているのが強い存在感を放っている。 「……似合うね。槙人さん」 「はは、これならお揃いに出来るかなって。その、ご迷惑でしたか?」 「ううん、嬉しい。ありがとうね」  純粋にそう思った。こんなに無茶苦茶な、形から入った結婚なのに槙人は彼なり考えて、それを肯定してくれている。ネックレスをくれたことよりも、その気持ちがみちるには嬉しかった。驚くふりをしてさりげなく否定ばかりしていた自分が恥ずかしくなる。みちるはそっと後ろを向くと。髪を上に持ち上げながら槙人に言った。 「せっかくだからつけてくれますか?」 「えっ、」 「いいじゃん。指輪は交換するみたいにつけるでしょ」  早く。と急かすと、背後で慌ててるような槙人の気配を感じる。それが少し可愛く思えてじっとしていると、やがて彼の細くともしっかりとした腕が後ろから回ってきて、鎖骨にネックレスのチェーンが儚く当たった。暫くフックに苦労していたようだったが、やがて小さな声で「出来た」と聞こえたのでみちるは槙人の方に振り返る。 「どう、ですか?」 「うん。綺麗ですみちるさん。やっぱりゴールドではなくシルバーにしてよかった。みちるさんも肌が白いから絶対こっちが似合うと思ったんです」  すごく悩んだんですよ。と囁くように言われて、つい頬が熱くなる。海外での仕事中にみちるの事を考えてくれていたのかと思うと、申し訳なさと共に恥ずかしさも襲ってくる。だって、出会ってまだ間もなくて。でも結婚しているそんな不思議な関係で。でも槙人は確実に、みちるとの婚姻を肯定してくれているのだ。そこだけはきっと、自惚れではないだろう。まだまだ考えることも、悩むべきこともたくさんある。けれどとりあえずみちると槙人が同じ方向を少しでも向いているのなら、それはうまくいっていると言っても過言ではないのかもしれない。  さりげなく指先でチャームに触れてくる彼の指がなんだか恥ずかしくて視線を逸らし、そのままふと彼の肩越しに後ろを見てみちるは固まった。新居の玄関、まだ靴も大して置いていない広い三和土部分に、槙人の荷物が散乱している。未洗濯であろう衣服はよれよれのままはみ出ており、化粧品の大きなポーチはジッパーが開いてしまったのかバラバラと散らばってしまっている。どうやら綺麗に見えたのはぱっと見える部分だけで、中身はてきとうに詰め込んだようだ。今の今まで几帳面な印象しかなかったが、彼は存外大雑把なのかもしれないということに気がついた。 「……ね、そこ片付けよ。槙人さん」 「あっ、すみませんつい」  手伝うよ。と言いながら、みちるは散らばった彼の化粧品を丁寧に集めた。
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