2.新婚生活

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2.新婚生活

 いくつか、決まりごとを決めた。  家事は分担すること。槙人は何もかもが不規則な仕事なので可能な限りで、あとはみちるがフォローしていくこと。  お金のこと。とりあえずはそれぞれの財布でやりくりしていくこと。光熱費や食費等の雑費は折半。  生活する場所以外は分け、お互いの部屋に無断で入ることはなるべくしないこと。  マキが結婚したということは周囲に極秘にすること。情報流出を防ぐために家での槙人の写真は撮らないこと。やむを得ず知人に結婚した旨を話さなければならない場合、必ずフェイクを入れること。  そういった同じ家で生活する上で必要な事を決めて、ようやく落ち着いたという辺りで槙人が小さく手を上げた。 「はい、提案です」 「はい槙人さん」  まるで学校ごっこのような事をしてから、槙人が言う。 「もう僕たち夫婦なんですよね」 「う、うん。そうですね」 「じゃあ話し方とか呼び方とか。そういうの変えたいです。もう家族なんですから、敬語やめましょうよ」 「あ、うーん、確かに」  でしょ?と胸を張る槙人を見ながら、みちるはつい先ほどこっそり見せてもらった海外で撮ってきたらしいマキの写真を見ていた。海辺のコテージでリラックスしているようなゆったりとしたその一枚は、切長の目がカメラを一瞬だけ見たかのような、刹那的な視線を切り取った写真は性差を越えた美しさで、目の前で名案だとばかりに目を輝かせている本人とは似ても似つかない。否、間違いなく同一人物なので似るも何もないのだが。 「じゃあ私槙人くんて呼ぶね。敬語も外す。どうかな?」 「はい、嬉しいです。僕もみちるちゃんて呼びたいんですけど、正直噛みそうなんでみちるさんでいいですか?」 「どうぞどうぞ。ていうか槙人さ……くんは敬語やめないの?いいんだよ私が年上なのとか気にしないで」 「違うんです。僕ずっとこの話し方だったので慣れちゃってて」  じゃあ無理しないでいいよ。と伝えると彼は大きく首を振った。そこでみちるは、はたと思い出す。 「ねぇそういえばさ、マキって一人称『私』じゃない? あれはキャラ設定なの?」  槙人が海外にいる間に、彼が受けたというインタビュー記事を読んでみた。そこでは綺麗な言葉遣いで、文面だけ見ると女性とも取れそうな口調で書かれたマキの発言が羅列していたのだ。なんとなく違和感を感じたのだがそれがようやく判明した。槙人は普段自分のことを僕と呼ぶのに、マキの時は私と言うのだ。 「そうです。ほら僕、ぼんやりしてるから。仕事モードに切り替える為に変えてるんです」 「あぁ……納得かも」 「あとは事務所の戦略ですね。マキをなるべく性差を無くした感じのキャラクターにしたいとか。まぁ正真正銘男なんですけどね、僕」 「うん、それも納得かな。ぱっと見、後ろ姿だけ見るとかっこいいお姉さんみたいだもん。よく見ると肩幅とか男性だけどさ」  みちるが槙人との生活にそこまで強い拒否感を感じないのも、そこが理由の一つではとなんとなく思っていた。槙人は背は高いものの身体は細く、髪も仕事上の理由で長くしているのであまり男性と暮らしている感覚がしなさそうだったのだ。案の定ふとした時に視界に彼が映ってもあまり抵抗がないし、なんなら美しいインテリアくらいの感覚でいる。それはみちるにとって非常にありがたい事だった。あまり恋愛経験がないみちるからしたらほぼ初対面の男性と暮らすなど、ほとほと想像もつかなかったのだから。 「……僕、男ですよ。みちるさんの夫です」 「え? うん。そうだね」  何を今更。と付け加えたけれど、なぜか槙人は不服そうに唇を尖らせた。何か言いたい事があるようで、けれどそれが上手く言語化出来ないのだろう。一つ二つと唸って、何かを考えるように視線を彷徨わせてから、いきなりみちるの方を見た。切れ長で美麗な目の形をしているのに、視線は驚くほど強い。 「わかった! わかりました!」 「なっ、何?!」 「ねぇみちるさん、こうしませんか? 朝と夜に一回、必ずスキンシップをしましょう」 「はぁあ?」  突然の提案に、みちるは思わず喉の奥から声を出した。スキンシップ。つまりは触れ合おうと言っているのだ。 「そ、そういうのはちょっと、早くない?」 「早くないです。夫婦ですから」 「いや、うーん……」  朝と夜に新婚夫婦がするとなると、すぐ思いつくものはキスである。が、さすがにいきなりすぎるだろうと慌てた。つい無意識に槙人の唇を見る。すっと筆で引いたかのように薄い唇に、つい恥ずかしくなって視線を外した。 異性で、更にはこんなに綺麗な顔の男とキスをする未来なんて一切想像していなかったのだから、みちるが慌てるのも仕方のない話だ。しかし槙人はみちるが逃げ腰になった事に気づいたのか、ぐい、と前に出る。 「単純接触効果ってすごく大きいんですよみちるさん。でもそれだけじゃ足りない。物理的に接触していかないと多分僕たちただのルームシェア仲間になってしまいます! だからこそ夫婦であると脳が認識する為に、スキンシップしましょうスキンシップ!」 「たんじゅんせっしょく……なに? え?」 「とりあえず今日の分はこれで」  そう言って、槙人はみちるの横へと行くと、そっと両手を取って軽く握手をした。緊張で汗ばんでいたみちるの手を、少し冷たいくらいの槙人の手が下から支えてくる。骨っぽい手はみちるとは全然違う感触で、その手は軽く二回握るとそっと離れていった。 「ね?このくらいからならいいでしょう?」 「……う、うん」 「よかった!」  じゃあ僕明日早いので寝ます。と一人話を完結させた槙人はさっさと部屋に戻っていった。パタンと扉が閉まる音が聞こえてから、みちるは一気にテーブルに突っ伏す。 「つかれた〜」  話し合いの内容には全て納得したし、マキと槙人のキャラクターの違いにも納得した。けれど最後の彼の主張で振り回されに振り回されて、みちるはぐったりとしながら頬杖をついた。そのまま視界に入った自身のスマホで、槙人が言っていた言葉を調べてみる。  単純接触効果。つまるところ、特に興味の無かったものでも物理的な接触を繰り返せばそれが好意に変わる、という心理学の用語らしい。要はみちると槙人も何度も接触しているうちにいずれは夫婦のようになれるのではないかと言いたかったのだろう。 「でも、なんで……」  そこまでこの生活に積極的になってくれるのだろうと、みちるは純粋に疑問に思った。恐らく槙人とみちるが初めて出会ったのは先の見合いの場だし、槙人もあの時はじめまして。と言っていた。つまりは彼にとってもみちるは初対面の人間のはずである。なのにこんなに結婚に積極的な上に、律儀に夫婦でいる努力をしようとしている。  それがみちるには少しばかり理解できなかった。もしかしたらあの場でみちるに一目惚れしてくれたなんて幸運な事があるかもしれないが、槙人が身を置くのはみちるの何百倍、何千倍も美しい人々が集まる芸能界だ。そんな宝石箱の世界にいるのに、道端の小石に目がいくとは思えない。それになんとなくそういった類ではないのでは、とみちるは思っていた。どちらかというと、好きになるように努力してくれている感じがするのだ。  一つ思い当たるのなら、みちるの大叔父と槙人の祖父、二人の願いを叶えたいという思いがゆえの行動、といったところだろうか。しかしもう二人とも亡くなっており、そこに強い義理を感じる必要はないように思う。もちろん槙人が結婚してくれなかったらみちるの家は相当に大変な事になっただろう。しかしそれも槙人にとっては対岸の火事だ。深く関わる必要などない。  ますます理解が出来なくて、みちるは再びテーブルに突っ伏した。ここ数日で、なんだかドッと疲れが押し寄せてきたように思う。環境が変わったせいもあるのだろうかと、とりあえず風呂に入るべくバスルームへと足を向ける。服を脱いで洗濯機の中に入れ、色柄ものは分けて置いておく事に決めたので一応そちらを確認すると、槙人が着ていた黒のチノパンツが籠に入っていた。思わずそれを籠から出し、自分の体に当ててみる。 「いや、脚長っ……」  余裕で床に着くパンツの裾。しかしウエストは細く、もしかしたらみちるもボタンを止められないかもしれないなんて思って一人謎の衝撃を受けながら、それをそっと籠に入れ直した。 「私と同じ柔軟剤で洗っていいのかな……」  不意にそんな事を考えて、一度洗剤置き場を見る。そこにあるのはドラッグストアで安く売っているよく目にする柔軟剤で、モデルのマキからしていい匂いなのか酷く心配になった。  翌朝、槙人が家を出ようとしている時間に偶然起きてきたみちるは、鞄を持ったまま玄関へ行こうとしている槙人を見送ろうと彼の背中を見る。が、槙人はそのままくるりと踵を返してみちるの元に突進してくると、思い切り手を握ってきた。 「おはようございますみちるさん! 会えてよかった行ってきます」 「へ?あ、おはよういってらっしゃい」  半分寝ぼけたままそう返すと、切れ長の目を柔く緩めた槙人は大層嬉しそうにまた強く手を握り、そのまま背中を向けて玄関へと走って行った。 「気をつけてね!」 「大丈夫ですマネージャーの車がもう来てる!」  その時ふわっと香ったのは柔軟剤よりも、彼がほんの少し付けているらしい香水の香りだった。昨夜の心配は杞憂で終わりそうな事に一つ安心すると、みちるは遠慮も無しにいつもの柔軟剤で洗濯を始めるのだった。
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